第十一話 長瀬彩夏という女の子
走った。
腕を振り、路面を蹴りつけ、酸素を欲する身体は荒い呼吸を繰り返す。
肺が訴える痛みを無視して、膝が砕けそうな勢いで、心臓が破けるのを願うように走った。
これ以上、あの場所に居続ける事に耐えられそうになかったから。
だから俺は、逃げ出した。
俺が、傷つけてしまった人達の前から。俺の中にずっとある、目を逸らすべきではない現実から。全てから。
それは、絶対に選択してはならない悪手だった。だから、そんな卑怯者の俺は今この瞬間にも嵩を増し続ける後悔と自責と自己嫌悪に圧し潰されそうになっている。
俺は、増え続ける重みから逃れるように、走り続けるしかなかった。
――それからの事はあまりよく覚えていない。
くたくたになるまで走り続けて、気付けばまるで見覚えのない場所に出ていて、そこで偶然タクシーを拾ってどうにか家に辿り着いた時には、時刻は午後四時を回っていた。
朝出掛けた時のまま時間が止まってしまったようなリビングのソファに身体を投げ出す。
このまま何もかもを投げ出して、空気に溶けて消えてしまいたい。
そう思えども、肉体が物理的な枷となってそんな俺の願望の邪魔をする。瞼が重い。意識だけは今すぐにでも溶けだしてしまいそうだ。
……あー、このままここで寝るのはマズい。でも……もう、どうだっていいか。何もかも。
「あ、こーはい先輩お帰りなさーい」
すると、聞こえるはずのない幻聴が聞こえてきた。
「手洗いうがいもせずにおやすみですか? まったく、今時ロリでも知ってますよ? お家に帰ったらまずすることは? はい、そこのせんぱい後輩! 答えをどうぞ!」
「…………そうだな。まずは家に不法侵入した変質者を警察に突き出す事からかな」
走り続けた疲労も精神的な疲弊もついでに眠気も吹き飛ぶようなふざけた状況に、心と乖離したように体と口が動いていた。
とはいえ、これはこれで好都合。目の前の変質者の退治について全力を注いでいれば、余計なことを考えずに済むのだから。
「わー、待った待った! 真顔で一一〇番に掛けようとしないでくださいー、まだ女児に手を出した覚えはないんですけど!?」
「釈明で出てくる言葉じゃねえしお前は一刻も早く捕まるべきだと今確信した」
警察へ通報しようとする俺と、俺の手からスマホを奪おうとする変態空き巣女との格闘が繰り広げられること数十秒。
しかし、既に体力を使い切っていた俺の方が先に折れてスマホから指を離し、大きく溜息を吐く。
じっくりと時間をかけて、いまだ臨戦態勢でいる変態空き巣女へと向き直って、試しに当たり前のことを聞いてみることにした。
「……で。なんでいるんだよ、お前は。ここ、俺ん家なんだけど」
俺の質問に、変態空き巣女改め長瀬彩夏ははにかむような笑みを浮かべながら後頭部に手をやって、
「いやー、本当は家の前で待ってるつもりだったんですけど、裏口の鍵が空いていたのでつい……」
「つい、で犯罪を犯すんじゃねえよ」
「つい、待ってる間退屈だったんで一人お菓子パーティーを開催してしまって……」
「自由か。アホみたいにくだらない余罪を重ねるな」
朝片付けたはずのテーブルの上がお菓子まみれなのに今気付いたわ。しかもそれウチの菓子だし。てか、何が朝出掛けた時のままだよ、全然時間止まってないじゃん。恥ずかし。
「ねえ、先輩」
「……何だよ。今度は何の罪の告白だ?」
うんざりした口調で反応すると、彩夏は思ったよりも真剣な表情で一度かぶりを振って、少しだけ緊張したような面持ちでこう切り出した。
「いえ、そうじゃなくてですね。……ちょっと、今から話しませんか? 『裏山』で」
☆ ☆ ☆ ☆
陽が落ちると帰りが危ないから少しだけという条件付きで、俺は彩夏からの誘いに乗ることにした。
彩夏にしては珍しい真面目な雰囲気だったから断り切れなかったというのが理由の一つ。
もう一つが、あのまま家にいたらいずれシオン達が帰って来てしまうかも知れない――そんな情けない打算によるものだった。
今シオンと顔を合わせる勇気は俺にはない。
「うわぁ、相変わらずいい眺めですねー、ここは」
久しぶりに来たのか、彩夏は『裏山』から一望する海と空に弾むような歓声をあげている。
ぴょんぴょん飛び跳ねる少女に合わせて踊る馬の尻尾が、彼女の溌剌さをこれ以上なく表しているようだった。
しばらくの間、空と海とそれを眺める彩夏の元気な姿とを眺めていた俺に、彩夏は景色を眺めたままいきなり核心を突いてきた。
「聞きましたよ、先輩。シオンちゃんと喧嘩したって」
「……翔か。あいつ、余計な事を」
おそらく翔は、俺がちゃんと家に帰ってるかどうかを確認して欲しい、みたいなメッセを彩夏に送ったのだろう。
……となると、俺は今からこの後輩に説教でもされるのだろうか。ロリを苛めるなど言語道断。先輩にシオンちゃんを任せてはおけません。私が引き取ります――みたいな。
まあ、それはそれで悪くない。
手ひどく罵られ、責められた方が精神的に楽だ。翔もシオンも、あんなことをしでかした俺に生温すぎる。
その点、彩夏はロリを苛める人間には容赦がないだろうという謎の信頼があるからな。
「ご名答、流石はこーはい先輩、話が早い。ホントは家にいるかの確認だけでいいって言われた所をわざわざ待っててあげたんですから、私に感謝して欲しいですね! 具体的にはシオンちゃんレンタル一年分とかで手を打ちましょう」
俺の信頼とは裏腹に、俺に対する彩夏の態度はいつも通りだった。
最終的に辿り着いた結論だけがあまりに予想通りだったのが長瀬彩夏らしすぎて、なんだか拍子抜けというか少し身構えていた分脱力してしまう。
「……俺の感謝の気持ちはお前が菓子ごと食っちまったからないぞ」
「ぶー、こーはい先輩のケチャップ」
「ケチャ……あ? ケチャップ???」
会話に急に異物が混じって言ってることが一ミリも理解出来ない。何だコイツ……?
「誤変換です!」
「いや本当に何だコイツ……」
宇宙人の居候よりよっぽど話が通じないって人としてどうなんだろうか。そろそろ真剣に後輩の将来が心配になってくるな。
「ねえ、こーはい先輩。覚えてますか」
「……この流れで過去回想は無理がないか?」
「今は真面目な話をしてます。こーはい先輩はちょっと黙っててください」
茶化したら一番ふざけてやるヤツに怒られた。釈然としねえ……。
「そんなことより、子供の頃の私の話です」
相変わらずの温度差に付いていけずげんなりする俺を置きざりに、彩夏はすっかりその気らしい。
わざわざ『裏山』に呼び出して話すことが昔話とは。……いや、この場所だからこそ、昔の話なのか。
あの頃のことを話すのに、ここより相応しい場所なんてないだろう。
酸いも甘いも、沢山の思い出が詰まった、俺たちにとっての大切な場所。いうなればここは、ガラクタの詰まった宝箱なのだから。
俺がそんな感慨に浸っていると、彩夏はやたら真面目な顔で、
「あ、ロリの頃の私の話とか一々言い直さないでいいですからね。コレけっこう真面目なヤツですから」
「その心配は俺じゃなくてお前自身にするべきだったな?」
相変わらずのっけからふざけてるな、こいつは。
「はいそれじゃあ私と私のロリの話をしましょう。あ、もちろんロリコンなこーはい先輩がロリの話を私としたいのは重々承知ですが、今だけは頑張ってロリ私の話で我慢してください。ロリではなく私の話です。私のロリの話をロリじゃない私とするんですよ。いいですね? ところで和ロリとわたしって似てますね三文字のところが特にじゅるり」
「ロリがゲシュタルト崩壊してるし開幕我慢できなくなってるじゃねえかよ……」
俺に注意した事を全力でやってやがるし私の話が始まる前に和ロリの方に舵切ってたよな?
「まあ冗談はこれくらいにして」
彩夏に冗談とそれ以外の区別があった事が驚きだが、無駄にツッコんでこれ以上話が脱線しても困るので心の内で思うだけに留め黙ったまま続きを促す。
すると彩夏は、どこか遠くへ想いを馳せるように目を細め、髪を撫でる潮風へと手を伸ばしながら、
「ねえ、こーはい先輩。昔……まだ小夜お姉ちゃんがいた頃、私もよく先輩たちと一緒になって遊ばせて貰ってましたよね」
「ああ、そうだったな」
彩夏は俺たちの三つ下だ。
島は子供が少なく、近所の子供は学年に関係なく貴重な遊び相手だった。彩夏よりも年下の子だって、俺たちに交じって遊んでいたくらいだ。
だからそれは、今更確認するまでもないような、とても当たり前のことで。
「あの頃の私がどんな子供だったか。先輩、覚えてますか?」
「そりゃあ、お前みたいな濃いヤツを忘れる訳――」
自分で言っていて、違和感に気が付いた。
超ハイテンションアッパー系宇宙人。変態空き巣女。変態ロリコン女子高生。その他数々の二つ名(という名の汚名)を持つ長瀬彩夏の小学生時代。普通に考えたら伝説的なエピソードの一つや二つは残っていそうなものなのに、その類の話を何一つとして思い出せなかったのだ。
……いや、それだけじゃない。
「……覚えてないですよね。先輩、あの頃からずっと小夜お姉ちゃんに夢中でしたもん。それに、それ以上に昔の私は静かで大人しかったですから。覚えてなくても仕方ないです」
……そうだ、そう言われて思い出した。
長瀬彩夏が今のキャラクターを確立したのは、俺たちが中学生に上がる前あたり。それまでの彼女は、木陰から俺たちの方を伺って遊びに誘って貰えるのをじっと待っているような、静かで大人しい引っ込み思案な女の子だった。
変わってからのキャラクターが強烈すぎて、今の今までそんなことは完全に忘れていた。
ハッとしたような俺の表情に、彩夏はやっぱりというような調子でくすくすと笑っている。
俺がよく知る長瀬彩夏よりもほんの少しだけ昔の長瀬彩夏に近いその表情に、罪悪感が胸を刺す。
ごめん、なんて言葉にする事も許されないだろう。事実俺はあの頃の彩夏のことを完全に忘れていて、殆ど覚えてもいないのだ。その事実が忘れられてしまった本人にとってどれだけ傷つくことか、想像するだけで寒気がする。
それなのに彩夏は、微塵も傷ついた素振りを見せず、いつも以上に柔らかく優しさのこもった口調で昔語りを続けた。
彼女にとって、自らの傷口を広げるような行いを。
「小夜お姉ちゃんは私にとっても憧れの人でした。可愛くて、頭もよくて、強くて、そして何よりカッコイイ。同世代の女の子で小夜お姉ちゃんに憧れていなかった子を探すほうが難しいくらいの人気者だったって、先輩、知ってました?」
「小夜が年下から好かれてたのは知ってたけど、そこまでだとは知らなかったな」
「……じゃあ、あの頃の先輩も、そこそこ人気だったってことは?」
「……それは――」
俺が彩夏の問い掛けに言葉を詰まらせていると、彩夏は胸にしまった宝物を丁寧に取り出し眺めるような、そんな優しい顔をして、
「なんて言うんですかね。カリスマ? なんて言っちゃうと、たかだか小学生に大仰過ぎるーとは自分でも思いますけど。でも、あの頃の先輩は確かにみんなを引っぱっていく力? みたいなものがあったと思うんですよ」
買い被りだ。俺は、そんな大層な男じゃない。ただ馬鹿で無知で向こう見ずで、考えなしに先頭を走るのが人より得意だっただけだ。
だからそれは、そんな俺の馬鹿っぷりを面白がってついてきてくれる物好きな連中がいたというだけの話。
俺が凄かったなんて事実は、どこにもない。
「まあ、それでも男子一番人気は翔先輩だったんですけどね。ダントツで顔が良いので」
「……あー、うん。それは知ってた」
顔が良いだけじゃなく性格まで良いからな、あの野郎。ほんと、高スペックすぎて腹立つ。
「そんな訳で、残念ながら先輩は一番人気ではなくせいぜい六、七番手くらいだったという話ですけど」
「今の流れで二番手とか三番手じゃないのか……」
この辺の男子で六、七番手ってそれもう殆どドベ争いなのでは……。
「自惚れが過ぎますよ、先輩。二番手から五番手までは不動の人気者たちがいたじゃないですか。また忘れたんですか?」
腰に手を当て、呆れたように言う彩夏。プンプンという擬音がよく似合いそうな感じだ。
「そう言われても全然ピンと来ねえよ。……てか、こんなこと自分で言うのもすっげえアレだとは思うけど、あの頃のこの辺の男子で俺より人気がありそうなヤツなんて、それこそ翔くらいだったと思うんだけど?」
「何言ってるんですか。エリック、ハワード、ワトソン、ピーター、ミカエルの神ファイブがいたじゃないですか! 彼らに勝とうだなんて思い上がりも甚だしいわこの卑しいナルシストめ!」
「いや誰だよ! そんな外人この島にいなかっただろうが!」
「はい? 何言ってるんですか、先輩。神ファイブは全員猫ですよ? オスの」
そんな事も知らないなんて引くわー、みたいな目で俺を見て若干後退る彩夏に、俺は言葉も出なかった。
いやお前、猫になんて名前つけてんだよ。分かるかこんなの。
「ちなみに先輩と六番人気を争っていたのは駄菓子屋の田中のじいさんですね。女の子にはお菓子をくれるので、タダで」
女子小学生、すさまじく現金……っ。
というかこいつ、どこかでふざけないとまともに話もできないのか? そういう病気なの?
「とにかくです。先輩はせいぜい六、七番人気だった訳ですけど」
「あー、はいはい。どうせ俺は駄菓子屋のじいさんにも劣る人気者ですよー」
「もう、これくらいで拗ねないでくださいよー。これでも私は憧れてたんですよ?」
「駄菓子屋のじいさんにか?」
「違いますよ」
柔らかく微笑む彩夏の指先が、すっと。俺のことをゆっくり指し示す。
その表情はどこか、記憶の中で微笑む小夜のいたずらげな笑みに似ていた。
「いつだって、臆病な私を引っ張ってみんなの輪の中に連れ出してくれる先輩に、ですよ」
きっと。それは、長瀬彩夏にとっては他の何にも勝るとも劣らない大切な思いで、思い出で、ずっと胸に抱え続けてきたタカラモノだったのだろう。
だけど、俺は。
少女の心に決して少なくない何かを残したはずのその行いを、彼女にとっての大切な思い出を、その当事者でありながら碌に覚えていない。
だから。
「彩夏。俺は――」
「いいんです。きっとそれは、先輩にとってはとても当たり前のことで、それが私にとっては世界が変わるほどに特別だった。ただそれだけの話なんですから。仕方ないんですよ」
良くない。何も良くなんてないはずだ。
自分が大切だと思っていた思い出を踏みにじられて、それで仕方ないだなんて間違っている。
そう声に出して否定したかった。後輩の女の子が浮かべた寂しそうなその笑みを、拭い去ってやりたかった。
けれど出来ない。
確かにあったはずの彼女との思い出を忘れてしまった俺に、そんな資格はない。
その罪は、俺が一生背負うべきもので、その十字架を軽くする為に彼女へ優しい言葉を掛けるなんて、絶対に許される訳がないのだから。
「それに、私は先輩を近くで眺めているだけで満足でした。楽しかったんですよ、あの場所で、先輩たちと同じ時間を過ごせた事が。だから、それだけに小夜お姉ちゃんがいなくなってからの先輩は、ちょっと見ていられませんでしたね」
だから、決心したんですよ。そう彩夏は言った。
その決心が何に対するもので、誰の為であったかなんて、ここまでの話を聞いていれば馬鹿な俺でも分かる。分かってしまう。
長瀬彩夏が今の強烈なキャラクターを確立したのは俺たちが小学校を卒業し、中学生になるその前の話。つまり、小夜がいなくなってしまった後の出来事で、彩夏はそこから少しずつ、時間を掛けて今の彩夏に変わっていったのだ。
「小夜お姉ちゃんみたいになるなんて私には出来ません。同じ方向性で勝負して、あの人に勝てる女の子なんてそういないですもん。それでも、いつもみたいに笑って前を向いていてほしかった。俯いて、後ろばかり気にしている先輩なんて、ちっともらしくないですからね」
笑って欲しい。前を向いてほしい。長瀬彩夏は俺がそうあるようにと願った。願うだけに留まらず、叶える為に行動した。
小夜の死に俯くばかりだった俺を、もう一度笑顔にする。そのために。
自分が変わる事で、彼女はこの理不尽な世界を変えようとしたのだ。
その結果が今ここにいる長瀬彩夏で――……ああ、確かに彩夏と一緒にいる間、俺は彼女のめちゃくちゃな言動に驚いて、呆れて、困らされて、それからいつだって、最後には一緒になって笑っていた。
その光景は、いくつだって思い浮かべられる。大切な思い出の一つとして。
長瀬彩夏は、高良光一を何度だって救っていたのだ。
「……それで今のロリコンキャラに行き着くあたり、お前はやっぱりすげえヤツだよ」
「え、そっちは別に意図的にそうなろうとしてなった訳じゃなくて、普通に小さい女の子って可愛いな~って思ってただけなんですけど……」
「マジかよ、やっぱ天然モノのやべえヤツじゃん」
「な、失礼な。やっぱりも何も私は最初から天然純粋培養です。誰が養殖ぶりっ子ですか!」
「いや、怒るとこそこなのかよ」
というか、誰もお前をぶりっ子だとは思わないだろ。ぶりっ子なんて、変態ロリコン女子高生から最もかけ離れた存在だろうが。ちょっとは可愛い子ぶってくれ、色々心配だから。
しばらくの間、俺と彩夏はそんなくだらないやり取りで馬鹿みたいに笑っていた。目元に涙が滲んで、視界が少し霞んでしまうくらいに笑いあった。
そうして、『裏山』に響く二人の男女の笑い声が少しずつ収まってきたころ、彩夏が目元の涙をそっと拭いながら尋ねてくる。
「先輩は小夜お姉ちゃんのことが好きなんですよね」
誤魔化すことは、もう。許されない。
彼女に対しては、絶対に。
そう思った。
「……ああ、好きだよ」
「今でも?」
「今でも」
「そっかぁ……やっぱり強いですねぇ、小夜お姉ちゃんは。私、いつまで経っても勝てないや」
空を見上げ、すでに中天から傾き始めた太陽に手を翳しながら、彩夏はそう言って目を細めた。
俺の答えに満足したような笑みを描くその目元には、笑い過ぎで零した涙の跡がうっすらと残っていて、陽の光でキラキラと輝いている。
綺麗だった。
まるで、こうしている今もまだ涙を流しているみたいに見えた。
「けど、今のままじゃきっとダメです。先輩も、それは分かってるんですよね」
「……何をだ」
「先輩の前にいる女の子は、月影小夜じゃない。シオンちゃんは、シオンちゃんだっていうことですよ」
唐突にこちらを振り向いた彩夏は俺の両肩をぐわしと掴むと、そのまま強引に百八十度方向転換させてくる。
文句を言う前に勢い良く背中を叩かれ、俺はバランスを崩して前につんのめった。
「痛っ、彩夏お前いきなり何を――」
「――ほーら、こんな所でロリの話ばっかりしてないで、今すぐシオンちゃんの元に行った行ったー!」
「いや、さっきからロリの話をしてるのはお前……」
「細かいことはどうでもよろしい!」
完全なブーメラン発言にツッコミを入れようとすると、めっちゃ大声で遮られた。反論を許さない圧倒的パワープレイである。
長瀬彩夏は相変わらず滅茶苦茶で、そしてそんな滅茶苦茶さに俺は救われ続けてきたのだ。
「大事な彼女さんなんでしょう? 真っ正面からちゃんと向き合ってあげてください。過去ではなく、今先輩の隣にいてくれる人と。……明日の和ロリもといお祭り、私だって楽しみにしてるんですから。中止になったりしたら許しませんからね、本当に!」
物静かで大人しく引っ込み思案だった少女は、もうそこにはいない。
「彩夏」
「なんですか、せんぱい後輩」
「ごめん。ずっと、待たせちまったんだよな」
「何を今更。私、声をかけて貰えるまで待つのは得意ですから」
「……きっと、決着を付けてくる。今まで見ないようにしてきた、色々なことに。だから……明日の夏祭り、楽しもうな。皆一緒に」
視線の先、誰かの為に変わろうと決意し、変わって見せた最高にカッコイイ後輩の女の子は、俺の答えにニカッと歯を見せて元気いっぱいに笑っていた。
「ええ、きっと。昔みたいにカッコイイ所、たまには見せて下さいよ。先輩」
胸の奥が、燃えるように熱かった。




