第七話 穏やかな喧騒
俺からの救援要請を受けた佐久間翔がやって来たのは長瀬彩夏襲来からおよそ十五分後のことだった。
「頼む後生だ俺一人じゃもうどうしようもない助けてくれ」
即正座の即土下座だった。
我らが救世主様こと佐久間翔は、玄関を抜けてリビングに踏みこんだ途端、背負った荷物をすぐさまその場に降ろし、俺に対して速やかな状況説明を求めてきた。
……まあ、当然の権利だよな。俺だってこの状況に遭遇したらすぐさま説明を求めるに決まっている。
決まっているが説明する側としては胃痛がマッハでヤバいので勘弁して欲しい。
「……それで、扉を開けたら彩夏にシオンの事を見られたと。それも、光一の不注意が原因で」
「まあ、そういう見方も出来なくもないかもしれなくもない……」
俺は硬いフローリングの床に正座したまま、取調室で事情聴取を受ける被疑者の気分で翔からの尋問もとい拷問もとい質問に答える。精神的に地獄である。
「挙句、後輩からロリコンをネタに脅され、我が身可愛さに脅迫に屈し、今に至ると」
「まあ、そういう見方も出来なくもないかもしれなくもない……」
俺からの報告を受ける度、翔の顔は呆れを通り越して頭痛を堪えるように歪んでいく。
……そうだよ、そういうのでいいんだよ。
常に涼しげな顔してやがる爽やか系主人公野郎のそういう顔が見たかったんだよなぁ、シオンを紹介した時のリベンジ達成。
けどこんな状況で達成したくなかった。あー、胃が痛い。
胃を痛める俺の眼前では俺以上に胃が痛そうな様子の翔が、片方の頬だけを痙攣させるという大変器用な笑みのような何かを浮かべて、
「あのさ、一人目の俺が言うのもなんだけど、いくら何でもバレるの早すぎないか? いやマジでさ、全体的になにやってんだよ」
「……はい、すんません。マジで」
翔の視線の先、つまりは返す言葉もなく平伏低頭でただただ頭を下げるしかない俺の背後。
そこでは超ハイテンション系アッパー宇宙人と超ダウナー系マイペース宇宙人とが衝突し超新星爆発的なナニカが巻き起こり百合百合でロリロリつまりは百合ロリな摩訶不思議空間が展開されていた。
「むほぉおおおおおー!! ほっぺぷにぷに髪の毛サラサラお肌スベスベェお胸ぺたぺたぁあああー! 汗一つないしめちゃいい匂いするぅううう!! ていうか、こんなに細いのに何故こんなに柔らかいとですか!? ホントに人間だとですか!? 実は宇宙人じゃないとっっ!?」
「むが、わたし……ふが。宇宙人じゃ――ぬが。……ない――っ」
飛び交う奇声、交わる肢体、途切れ途切れの悲鳴。
これこそが諸々の頭痛胃痛の原因。
突如襲来した長瀬商店の看板娘、長瀬彩夏の卑劣な策略に屈し自宅への侵入を許した結果がこのザマであった。
シオンの名誉と尊厳の為に詳細な描写は省かせて貰うが、出会ってはならない二人の遭遇は実に一方的な展開を辿る事となった。
プロサッカーチームと小学生の試合を見ている気分というか、獅子が兎を甚振っているというか、とにかく一方的にシオンが蹂躙され続けること十数分間。
彩夏はスライムもかくやという勢いでシオンに絡みつき続けた。
そのあまりのしつこさに、あのシオンが一目で分かる程に鬱陶しそうな表情を浮かべている程だ。
ちなみに、幸せの絶頂にある彩夏はまだ自分がシオンから嫌がられている事実に気付いていない。
ロリコン紳士の掟を守らないロリコンへのロリの目線は厳しいのである。イエス、ロリータ、ノータッチ!
……さて、ロリコン云々はともかく、共同生活三日目にしてシオンの存在が二人もの人間に露見してしまった事実は重く受け止めるべきだろう。
彼女が宇宙人である事こそバレてはいないが、このペースでいけば一週間が終わる頃にはシオンの存在が街中に知れ渡っていてもおかしくない。
真面目な話、彩夏の口止めに失敗した場合、そうなる可能性は十二分に考えられるから恐ろしい。
そして彩夏は恐ろしく口が軽い。
平均的な小学五年生女子の体重三十七、五キロより軽い。何なら天使のはねだってもうちょい重さがあるだろうというくらいの軽さだ。
……ロリコン空間に毒され過ぎたせいでこっちの語彙までロリコンっぽくなってきたな。危ない。ロリコンは空気感染するってマジですか? 早く隔離せねば。
「……この暴走っぷり。ある意味、表でばったり出くわさなかっただけ良かったかもな」
眼前の光景にギリギリ苦笑いらしきモノを保つ翔がぼそりと零す。
「いや、流石の彩夏も人目のある往来でここまでやらないだろ。やらないよな? いややるかやるなダメだこいつ早く何とかしないと……」
諦観に沈む男二人を完全に置き去りに、自分の世界にトリップしている花の女子高生。
ちなみにお相手はロリっ子宇宙人です。
混沌が過ぎる、誰か助けてくれ。
「(……それで、彩ちゃんにはシオンちゃんの事をどう説明したんだよ?)」
と、何かを諦めたような顔で圧倒的セクハラもとい過剰なスキンシップを続ける彩夏から目を逸らした翔は、俺の耳元に顔を寄せてそんな事を尋ねてきた。
……まあ、当然最も気にすべきはそこだよな。
うんうん、分かる。分かるぞ。分かるとも。だって俺も一番気になってる所だから。
「(いや、それが……実はまだ何も……)」
「(……おい、冗談だろ。話してないって……まさかあの子、ずっとあの調子なのか?)」
その通り、だから助けを呼んだのだ。俺一人じゃ暴走ロリコンは手に負えないからな。頼む、何とかしてくれ主人公。
何もかもを投げ出したような俺の態度に、翔は一度だけ大きなため息を吐いて。
「(……なあ、光一。それさ、道連れとか生贄とか人柱って言わないか?)」
「(まあ、そういう見方も出来なくもないかもしれなくもない……)」
「(そこは否定しろよ)」
「(痛い痛い肩パンやめて痛い的確に肩甲骨のコリっとした骨のところ突かないで痛い)」
そんな風に翔とシオンの事を彩夏にどう説明するかという難題について話しあっている時だった。
それは、唐突に来た。
「それにしてもこの子――小夜お姉ちゃんにそっくりですよねー」
不意打ちとは、完全に意識の間隙を突かれるからこそ不意打ちなのであり、心の定まらぬ状態で受けた一撃に人は対応できないものなのだ。例えばまさに、こんな風に。
「――、」
「小夜のこと、覚えてたんだね。彩ちゃん」
言葉となって叩き付けられた現実を前に何も紡げないでいる俺に代わって、隣の翔が涼しげな笑顔を湛えて口を開いた。
まるで違和感のない表情と対応。だがその自然さこそが違和感と不自然さに繋がるような、主人公野郎にしては珍しく微かに動揺が滲んだ声色。
一方の彩夏は、抵抗する事にも疲れてされるがまま状態のシオンの左右のほっぺたをつまんでは同時に横に引っ張る遊びをしながら過去に思いを馳せるように視線を上にやると、
「そりゃあまあ。あの時の私が小っちゃかったって言っても、小学二年生ですよ? 細かいとこは曖昧ですけど、沢山遊んで貰った仲のいいお姉さんの顔を忘れたりしませんって」
……確かに、俺達はよく三人で遊んでいたが、夕方前の早い時間帯には三つ下の彼女が遊びの輪の中に加わる事だって何度もあった。島は子供が少ない。近所の子とは学年を越えて一緒に遊ぶなんて当たり前の事だ。
だから、彩夏が小夜の事を覚えていても何ら不思議ではない。
「そっか。そりゃそうだわな」
「そうですよー。まあ、お二人に話すとこーいう微妙な空気になるんで、あんま言った事なかったですけどね」
「……参ったな、こりゃ。俺たち、後輩からそんな女々しい男に見られてたのか。なあ、光一」
「あ、ああ」
長瀬彩夏という女の子は、一見ハチャメチャで空気を読まないように見えるがそうではない。
この子は、空気を呼んで空気を読まないという芸当が出来るほどに器用で周囲をよく見ている。
そんな彼女が月影小夜の名前を出した事に、俺はそこはかとない恐ろしさを覚えていた。
何故ならそれは、長瀬彩夏はこの話題が俺と翔にとって地雷であると理解した上でシオンの存在に決して無視できない何かを感じ、一歩深く踏み込もうとしている証拠なのだから。
受け答えを一つでも誤れば、彼女まで今回の件に巻き込んでしまいかねない。
……落ち着け、冷静になれ。何とかして態勢を立て直すんだ、俺。
冷や汗を掻く俺の心境を知ってか知らずか、彩夏はにたりと嫌らしい笑みをこちらに向けて、
「でも本当にどこでこんな子拾って来たんですか? 先輩がマジモンの犯罪に手を出してしまったのでしたら、流石の私も庇えないので自首をオススメします」
「人を勝手に犯罪者にするんじゃねえよ」
「大丈夫! 今からでも遅くないですよ、ロリコンは治せる病気です!」
「病人にもするな。つうかロリコンはお前だろうが」
今までの真面目なトーンから一転、おそらくは意図して作り上げたのであろう明るくアホっぽいトーンでサムズアップをしてくる彩夏。
空気が少し軽くなって、俺もいつも通りのテンションで彼女の軽口に応じる。
だがそれは、あくまで俺が話しやすいように状況を整えているに過ぎない。本命はすぐにでも来る。そんな俺の予想を裏付けるように、彩夏は分かりやすく憤慨したようなポーズを取って、
「じゃあこの子は一体何なんですかー! こんな可愛い子、その辺の道端に落ちてる訳ないじゃないですか!」
それに関しては残念ながら本当に道端に落ちてたというか、道端を歩いていたら頭の上に落っこちてきたというか……なんにせよ、彩夏に本当の事をそのまま話す訳にもいかない。
こういう時の為に翔に助けを求めたのだが、厄介な事に彩夏は完全に尋問の標的を俺一人に絞っている。
これでは余程うまくやらない限り翔が介入するのは不自然だ。
……さて、どうしたものか。俺が何かいい言い訳はないかと考えていると、
「……さっきから黙って話を聞いていれば随分と失礼な」
予想外の方向から助け舟、もとい状況をさらなる混乱に陥れるだろう乱入があった。
彩夏の注意がこちらに逸れた一瞬の隙をついて拘束から抜け出したのだろう。
トトっと軽い足音を響かせて俺の背中側に隠れるように回り込んだシオンは、彩夏に対して不服気に、そして自らを大きくみせるように胸を反らしてこんな事を言い始めたのだ。
「こう見えてわたしは二十歳。ふくしの……大学? に通っている」
おいよせ辞めろ。
今度はどんな願望妄想の類を参考資料にしたのか知らんが、そのネタはロリコン相手に危険すぎる。自殺行為だ。
馬鹿な真似は辞めるよう全力で視線で訴えかけるが、シオンは何を勘違いしたのか「わたしに任せておけ。ルールは絶対に守ってみせる」的な使命感に満ちた感じで頷くばかり。
違うんだよ。違くないんだけどそうじゃない。正体を悟られないようにするのは当然として、守るべきはそれだけじゃないんだ。お前はいいけど俺には生活というものがあってだな。地元であらぬ噂を立てられると迷惑だから後の事も考えて波風立たないような発言をして欲しいんだよお前みたいな二十歳女子大学生がいる訳ないだろ犯罪臭が凄いわ勘弁して。
それでも俺は、諦めずにシオンを信じて視線でメッセージを送り続けるが、
「コーイチとは大学で知り合った。わたしが先輩、コーイチが後輩。つまりはわたしが年上、むしろおねショタ。なので至って合法。あだるてぃ」
だから何でそんな自信満々にアイコンタクト失敗できるんだよお前は。
「さらにトドメ。わたしたちは将来を約束した仲、よって同棲に問題なし。ぱーふぇくと」
うん、確かにトドメだね。俺に。
そんな訳で。暴走宇宙人娘、星喰いシオンが盛大にぶちかましてくれやがりましたとさ。めでたしめでたし。
……最悪だ。やりやがったなこの野郎、何がパーフェクトだお子様体型。その関東平野で大学生は無理があるだろうが。つうか誰がショタだふざけんな……っ。
最早このレベルの大暴投となると、うまく軌道修正してフォローする事ができるのは俺達陣営の中では翔くらいのモノだろう。
あいつに無理なら誰にだって不可能だ。諦めて死ぬしかない。俺は、唯一の希望に縋るように腐れ縁の幼馴染へと視線をやって、
「いやー、実はそうなんだよなぁ。光一のヤツ、俺にも内緒で向こうで彼女作ってやがったんだぜ? ビビるだろー」
いやお前も乗るのかよッ!
シオンの爆弾発言の直後、間髪入れずに彼女の作った流れに乗ったのは、あろうことか俺が助っ人として呼んだ佐久間翔だった。
一瞬で俺の肩に腕を回した翔は、微塵も嘘を匂わせない流石の自然さでシオンの作り話を補完し始めたのだ。
「昨日たまたま二人でいるとこを目撃してさ、面白そうだったから後を付けて二人が家に入った所で突撃したんだわ。で、現行犯でようやく俺に全部ゲロったんだけど……いやー、そういう所あるよなー、光一は。こっちじゃあれだけ女っ気なかったのに俺にも内緒で大学デビュー決めやがって、水臭いヤツだぜ本当に」
もう滅茶苦茶だった。
こういう時の為のブレーキ役でお前を呼んだつもりだったんだけど何してくれちゃってんの? 額を押さえながら恨めしげに抗議の視線を送る俺に対して、翔は明らかに確信犯な微笑みを向けてくる。……コイツ、軌道修正を諦めて面白そうだからって悪ノリしやがったな。
というか、いくら翔とは言え、こんなあからさまな嘘を彩夏が信じる訳――
「そ、そんな……! あの万年彼女ゼロで陰キャで教室じゃぼっち気味な先輩に可愛い合法ロリの彼女が……!? スクープ! これは新聞部始まって以来の大スクープなのでは!?」
――いやお前も信じるんかい。
なにこの俺に優しくない優しい世界。
それから種子島中央高校新聞部の皆さんはこんなモノを創部以来の大スクープとか言っちゃう部員の進退を真剣に考えた方がいいと思う。
あとお願いだからシオンはその失敗したウィンク今すぐやめろ腹が立つ。
この混沌はお前のおかげじゃなくてお前のせいだから。
全然何一つとしてうまくいってないからな。
「ん~、それにしてもシオンちゃん、でしたっけ? 大きくなった小夜お姉ちゃんみたいで可愛い~。あ、でも大きい小夜お姉ちゃんって言っても私よりは小さいですし……うーん、妹系合法ミニ小夜ロリお姉ちゃん? 可能性は無限大って感じですねー、最高!」
一瞬で大スクープこと俺からロリへと興味が移る新聞部員。
お前に関しては可愛いロリがいればもう何でも良さそうだな。一瞬感じた俺のシリアスを返してくれ。
☆ ☆ ☆ ☆
窓の外を呑気に漂う入道雲のような、思わず微睡んでしまいそうになる穏やかな空気が流れる夏の昼過ぎ。
朝とは打って変わって静かになった部屋の中に見慣れた幼馴染たちの姿はない。
来客の去った我が家は嵐の過ぎ去った後の晴れ空のように平穏で、シオンも疲れたのか、大人しくソファに座って昼飯時に見ていたドラマの続きに夢中になっている。
台所に立つ俺はその静けさに、少しばかりの寂寥感をも含めて浸りつつ、食器を洗いながら一人物思いに耽っていた。
――結局、どこか有耶無耶に終わった彩夏の追求の後、俺は久しぶりに翔や彩夏と何でもない時間を過ごす事となった。
一緒にゲームをやって、くだらない馬鹿な話に花を咲かせて、同じテレビを見ながら四人で昼飯を食べる。
そんな時間を皆と共有する。
久しぶりに心の底から笑ったせいか、頬の肉が少し張っているような気さえする。それくらいに本気で楽しいと感じた時間だった。
彩夏に彼女――という事になってしまったシオンとの馴れ初めや恋人らしいエピソードを聞かれた時は流石に焦ったが、今度は翔のフォローもあってうまいこと誤魔化せたと思う。
勝因は間違いなくシオンに余計な事を喋らせなかった事。
シオンが自信満々に喋り出すと碌な事にならないからと、あの手この手で割り込みを掛けた俺と翔の判断は正しかった訳だ。
心配していた食事に関しても、特に大きな問題も起きず平和なものだった。
一応、食事前にこっそりシオンに確認を取った所、『星喰い』は食事も睡眠も必要としないが、だからと言って惑星以外を食べられない、なんて事もないらしい。
本当はその辺りの事を確認しつつ、俺一人で慎重に事を進めたかったのだが、四人で食卓を囲んだ状況でシオンだけ食事抜きという訳にもいかず、まさかのぶつけ本番となったのだ。
ちなみにメニューはトマトソースのパスタ。
麵を茹でて市販のソースを湯煎しぶっかけるだけという俺でも作れる簡単レシピが超人気(俺調べ)なオーソドックスなメニューである。
『……コーイチ、これは……?』
俺とシオン、翔と彩夏の組み合わせで向かい合ってテーブルに着き、運ばれてきた料理を目にしたシオンが発した第一声がそれだった。
ぎこちなくフォークをグーで握り、首を捻りながら様々な角度からパスタを観察するその姿は、控え目に言ってもパスタと初遭遇を果たした人そのもの。
実際これがパスタと宇宙人とのファーストコンタクトなのでその印象はそのまま正しいのだが、日本暮らしでふくしのお勉強をなさっている二十歳の大学生がパスタを見たことないというのは流石におかしいので、俺はシオンの反応をどうにか誤魔化すべくわざとらしく大仰に、口端をニッと吊り上げて、
『俺の十八番だ』
『レトルトパスタをドヤ顔で十八番呼ばわりする人って人としてどうなんですかね?』
パスタを作っただけで人間性を疑われた。全世界のレトルト男子に謝って欲しい酷い暴言だ。
『光一の場合、パスタが十八番っていうより手抜きが十八番って感じだよな』
この男子もレトルト男子の敵だった。そういえば料理も出来るんだったわ、この主人公野郎。
『う、うるせえな。レトルトだろうと何だろうと、不味くなけりゃいいだろ別に。文句あるなら別に食べなくていいぞ』
『『いただきまーす!』』
『掌返しに迷いがないよな、お前ら』
……これは言い訳ではないが、記念すべきはじめての食事だからと言って最初からあまり豪華で美味しいものを食べさせるのもどうかと思いこのチョイスとなったのだ。
我が家の家計的にお高く美味しい料理を標準だと思われても困るからな。
決して料理するのが面倒だったからレトルトパスタにした訳じゃない……少なくとも理由の半分は。
ちなみに、ネタ枠で激辛ペペロンチーノも用意があったのだが、流石に初手でこれを食べさせるのは意地悪が過ぎると思い自主規制。
辛さに悶えるシオンがどんな表情をするのかは少し見てみたい気もするが、食事を嫌いになられても困る。
それに、あんな風にパスタを食べるシオンを見た後だと、余計にそんな意地悪をしなくて良かったと思ってしまう。
『ほら、お前も食べてみろよ』
『……うん、わかった』
美味しそうな湯気立ち昇らせるパスタを前に硬直していたシオンは、俺の顔を見てから恐る恐るの見よう見まねといった様子でフォークの先端で赤いソースのかかった麵を絡め取ろうとする。
一度、二度と掴んだはずの麵がフォークの間をすり抜けて落下して、三度目の正直でようやくパスタを捉えることに成功。
また零れ落ちてしまわないようにと一息にフォークを口の中へと突っ込んだシオン。
その直後の彼女のあっけに取られたような間の抜けた表情を、俺は忘れないだろう。
『……!』
『どうだ、うまいか?』
返事なんて必要なかった。
皿に顔を近づけ、がっつくようにパスタを掻き込むシオンを見れば、どんな賛辞の言葉よりも〝美味しい〟という気持ちが伝わってくる。
これだけ喜んでもらえると作ったかいがあるというものだ。……基本的にお湯沸かしただけだけど。
『……ふはい。ほーいひはふほいな。ほんはにほいひいほのほふくへふはんへ』
『あー、一生懸命パスタを頬張ってるミニ小夜姉も可愛い~。ていうか、まるで生まれて初めてパスタ食べたみたいな食べ方ですよね。レトルト食品を食べた事がない美少女……ほんとに何者なんです?』
『? ふはれへはひへてはぞ?』
『……あー、分かったから。口の中のモン飲み込んでから喋れ。ほれ、水。ほっぺにソースもついてんぞ』
生まれて初めての食事に開いた口が(料理で埋まって)塞がらないシオンと、そんなシオンの反応に一々反応する彩夏のやり取りには毎度ハラハラさせられたりもしたが、全部終わってみれば皆で昼飯を食べたのは悪くはない体験だったかなと思う。
シオンにとっても。
そして、俺にとっても。
『んぐ、もぐ。はぐごく……ぷはぁ。……コーイチ、わたしは今、解ったことが一つある』
『何がだ?』
『「ごちそうさま」とはこういう時にこそ言うものなのだという事だ』
『……まあ、そうだな』
シオンの反応を見ていると初めての食事をレトルト食品で済ませてしまったのが何だか申し訳なくなってくるが、少なくとも、ごめんなさいに関しては前回の使い方よりは正しいと俺も思った。
『ごちそうさま、コーイチ。……すごく、すごく美味しかった。ありがとう』
どこかいつもより幸せそうに頬が緩んで見えたシオンから、そんな言葉を言われたことに俺は決して少なくない喜びを感じていたのだから――
「――……、どうかしてるな、我ながら」
あの時のシオンの表情と言葉を思い出してはニヤけてしまいそうになっている自分がいる事に気付いて、己を戒めるようにかぶりを振る。
「勢いで明日の遊ぶ約束までさせられるし……まったく、俺の優雅な夏休みが台無しだ」
明日は皆で海辺で遊んでバーベキューをする事になってしまった。
面倒だな、なんて空白だらけだった夏休みの予定が埋まる事に煩わしいというポーズを取りつつも、何かを期待している自分がいる。
口にした言葉とは裏腹に、やはりあの時間は俺にとって居心地が良く、心の底から楽しいものだと感じているのだ。
……あぁ、楽しいなぁ。
この感情を否定する事はもう俺には出来そうにない。表面上だけならまだしも、心の底から拒絶することなんて不可能だ。
短いながらも、かつてと同じように皆で過ごした時間。
そこには俺がいて、翔がいて、時々彩夏もいて。そして、――がいる。皆の笑顔がある。
今日という一日は何気ない日常の一ページ。
ありふれていて記憶に埋もれて消えてしまうそんな平凡な日で。だからきっといつの日か、ガラクタになってしまうタカラモノなのだろう。
でも。それでもいいと思った。
それがいいと思った。
こんな日がずっと続くのなら、俺は――ざざ、ザ。モノクロの世界が。ザザザ虹色ではない、彼女の瞳がざざ。誰にも言えない真実。幸福か不幸か。だって、それではあまりに救いがない。ざザザザジ責めるように俺を見て――
「――っ、」
眩暈がした。すると、世界に色が戻って来ていた。
……少し、頭が痛い。
俺は、ほんの一瞬前に見たナニカを無意識のうちに記憶の彼方へと押しやりながら、痛むこめかみにそっと手をやる。
けれど、その痛みさえも何事もなかったかのように、引いては返す波のようにスッと傍らに溶け消えていってしまう。
後に残ったのは、何も残らなかったという事実のみ。
「……?」
よく分からない不快感だけが心の芯に居座っている。
けれど、よくわからない事なら、きっと大したことじゃないのだろう。そう思い、深く考える事はしなかった。
窓越しに響く蝉の音。シンクを叩く水音に紛れ時折耳に届くテレビの音。エアコンの稼働音。そして、確かに鼓動を刻む自らの心臓の音。
雑音と呼ぶには優しすぎるそれらに包まれながら、己の意識をどこへ向けるでもなく、茫洋と日常全体を俯瞰するような弛緩しきった感覚に身を委ね嵐の後の平穏を満喫する。
外は相変わらず灼熱の熱気に侵されていて、まるで外出する気にもなれない弛みきった夏の午後は、嵐の渦中にあった我が家にも等しくやってきていた。
それは時間の流れというものが誰の前にも等しく平等である事の証左であり、同時にどんな一日を過ごそうとも一日という時間の消失からは逃れられないのだと、ふとした瞬間に冷たい刃物となって襲い掛かって来る怪物のようでもあった。
現実なんてものは、大学一年生という未来へ向けた期間を生きているらしい俺にとっては目を逸らしたくなるような劇毒で、締切の前日に白紙のレポートを前にした時のような倦怠感と焦燥感、そしてお決まりの諦観ばかりを燻ぶらせる代物だ。
見たくないものは見なければいい。
考えたくもない事は考えない。
そうやって逃避を続けて生きていけるのが今の間だけの特権なのだと、こんな人生は俺以外の誰かの手によって成り立っている偽物なのだと、頭のどこかで分かっているから。
ふとした瞬間にこんなにも虚しくなるのだろうか――/別に、それでいいじゃないか。
だって、俺の願いは。あの夜、俺が願ったのは――
「――コーイチ?」
「え?」
至近距離からシオンに名前を呼ばれ、俺は洗い物がとっくに終わっている事に気付いた。
数瞬前まで心を曇らせていた黒く生温い感情がどこかに霧散し、いつの間にかソファを立って俺のすぐ横にまで移動していたシオンを中心にして世界にピントが合い始める。
「うわ、水出しっぱなしじゃねえかよ……えっと、あー。どうかしたのか?」
水道代がもったいない。
一人暮らしでついた節約癖が、俺にまっさきに蛇口を捻らせる。それから改めてシオンに向き直り尋ねると、
「どうかしたのか、はこちらの台詞。何度も呼んだのに返事がなかった。やはり、わたしの言語情報のインストールになにか問題があったか? それとも、コーイチはわたしとの会話が嫌か?」
「あー、悪い。そうじゃない。ただ、ちょっとぼーっとして聞こえてなかったっぽい」
「そうか。それなら、いい。安心」
「で、どうしたんだ。俺を呼んでたって事は、何か用があったんだろ?」
「む。用という程のものではないかもしれない……」
珍しく言い淀んだシオンはテーブルの上、昼飯の際に目立たない隅の方へと片付けたコピー用紙へと目をやっていた。
「これ、結局何なのか分からないが、中途半端なところで終わっていた。続き、しないか?」
「あー、それか……」
シオンが言っているのは彩夏が襲来する前に俺がやっていた作業の事だろう。
完全に自己満足なうえ、大したものでもない。
というか、作業自体は既にあらかた終わっていた。
俺がコピー用紙に書いていたのは、直前にシオンと決めた共同生活の六つのルール。
ようは、ドラマや漫画の疑似家族モノでお決まりの家族ルールが記された貼り紙を作っていたのだ。
時間を置いて冷静になってしまった分、恥ずかしさは倍増している。
だが、せっかく作ったのだから、このまま捨ててしまうのも何か違う気はするのも確かだ。
「……仕方ない、さっさと片付けるか」
俺はテーブルの上のコピー用紙を手に取り、セロハンテープで壁掛け時計の下に正月の書初めよろしくぺたりと貼り付けた。
うん、まあ悪くはないな。
と、あまり乗り気じゃなかった癖に何だかんだ自分の仕事に自分で満足していると、貼り付け作業をじっと眺めていたシオンが、今度は貼り紙に視線をやったままぼうっと言った。
「……カタチに、なった」
「あん?」
言葉の意味がよく分からず尋ね返すような視線をやると、シオンは大きく見開いた瞳で貼り紙を見つめたまま胸のあたりに持ってきた右手をきゅっと軽く握る。それから、どこかふわふわと落ち着かない声色で、
「……夫婦生活のルール。コーイチとわたし、二人で考えて二人で決めた二人だけの誓約……」
「うん、共同生活な。ナチュラルに事実を改竄しようとするな? お前は」
「それが、目に見える。コーイチが、見えるようにしてくれた。つまりこれは……これは、二人の愛の結晶? やはり婚姻届? む、サプライズとはコーイチも憎い真似をしてくれる」
「いや一番のサプライズはお前のその異次元の思考回路なんだけど」
その回路、一体何と接続されちゃってる訳? ゼクシィ? 頭ゼクシィなの? そのうち口癖がやだもーになってそう。
「それがわたしには……わたしは、楽しい? 興奮? 満腹? 美味しい? 苦しい? 嬉しい? ……おかしい、言語化が困難。わたしの状態を表現するに相応しい単語が分からない。情報と現実に差異がある。コーイチは童貞なのに協力してくれなかった、やはりわたしの言語情報のインストールには何か問題があったか?」
己の内側を探るように左右に首を傾げながらそう言って、シオンはその表情をほんの僅かにもどかしそうに歪める。
どうやら、思った事を正確に言葉に出来ない自分自身に不満を覚えているらしい。
俺は、そんな事で真剣に悩むシオンの様子が少しだけおかしくて、
「安心しろ、問題があるのはその頭だけだ。日本語はちゃんと喋れてる。それに、なんでもかんでも言葉にしなきゃいけないって事はないだろ。なんとなくお前が言いたい事は伝わってる」
苦笑気味に言う俺の言葉の意味がよく分からなかったのか、シオンは真剣そのものな表情で首を傾げた。
「なぜ? 言語は人間が使用するコミュニケーションツールのはず。それを用いずに情報を伝達、受信できる能力があるのか、コーイチには」
自分ですら言語化出来ていない部分への理解を示された事への驚愕か、シオンがまるで宇宙人を見るような目で俺を見ているのが面白い。
「あのな、俺は普通の人間だって言ってるだろ? 別に、そんな特殊な話じゃねえよ、会話の流れとかニュアンスから相手の言いたい事を何となく汲み取るくらい誰だってやってる」
それに、言葉にしたからってこちらの言いたい事全てが完璧な形で相手に伝わる訳ではない。
むしろ意図しない形で伝わる事の方が多いし、人間なんて自分が受け取りたいようにしか相手の言葉を受け取れない生き物だ。
コミュニケーションなんてのは所詮どこまでいっても欠陥品。同じ人間同士だってすれ違う。『星喰い』と人間じゃあ、難しくって当然だ。
でも、だからこそ。
こうやって互いに歩み寄った証が明確な形を取って世界に残るその事実に、俺も彼女も胸がグワーっと熱くなって、いっぱいになるのだ。
「それが感情ってヤツなんじゃねえの、多分」
「感情……これ、が」
俺の言葉を反芻するように呟くシオン。
胸の前で握っていた右手が唇へと軽く当てられる。少女の黒い宝石みたいな瞳が音もなく細まって、どこか優しい弧を描いた。
その横顔を見て、俺はある種の確信を持って口を開いていた。
「感情が分からないだのなんだのごちゃごちゃ言ってたけど、お前にだってちゃんとあるんだ。だから大丈夫だろ」
何が大丈夫なのか、言ってる自分だってよく分かっていない、そんな無責任な言葉。
「見つかるよ、きっと」
けれど、こいつはきっと大丈夫。
そう強く思った事だけは真実だった。




