序章 星空に捧ぐ約束と祈り
子供の頃、世界はもっと単純だった。
自分は特別な人間で、何でも出来ると思っていた。
本気で願えば叶わない事はないと信じて疑わなかったし、大きな夢を語ることの意味なんて考えたこともなかった。
怖いものなんて何もない、文字通りの身の程知らず。
無知であるが故にどこまでも開けていた視界。
なんてことのない日常がワクワクに満ちた非日常で、そこに広がる美しくも壮大なこの世界を、このちっぽけな足でどこまでも歩いて行けるのだと無邪気に信じていた。
だから、あの頃の俺たちは、きっと無敵だったのだろう。
頭上に広がる無窮の蒼穹に手を伸ばし、吹き抜ける夏風と共に野原を夕暮れ時まで駆け回る。お腹の虫が鳴り始める頃になると、世界には幻想的な赤と青の境界線が降りてくる。
燃えるような夕焼け空、一番星を誰が先に見つけるか競争した事を覚えている。
傍から見ればくだらない、そんなどうだっていい事に、あの頃の俺達は命さえかけていたのかもしれない。そう思える程に、一瞬の刹那に全力で熱くなれたのだ。
だから、燃え上がるような一瞬の間隙に起きたその一幕を、俺は忘れられないのだろう。
『――オレさ、大きくなったら宇宙飛行士になるんだ』
濡れた夜のような烏羽色の長髪が美しい少女に、やんちゃそうな少年がそんなことを切り出すシーンから、その幕間は始まる。
『へぇ、どうして?』
『そんなの決まってるじゃんか! 月だよ。月! オレは月に行きたいんだ』
いつも一番に星を見つける友人の不在を良い事に見事な泥仕合を展開した二人。
「自分の方が早かった」と、終わらない水掛け論にもいい加減に飽きてきて、勝敗も有耶無耶になった頃。どちらともなしに夜空を見上げていた。
頭上に広がるさっきまでの赤も青も全てを一緒くたにして呑み込んでしまうような星の海の威容に、自分たちまで飲み込まれそうだと、思わず握った手の感触を覚えている。
深窓の令嬢めいた印象とは裏腹にいつも元気一杯な彼女の手はか細く儚げで、しっとり滑らかで。彼女が女の子であることを少年の無意識下に刻み込んでいた。
『でも、月ってすっごく遠いんでしょ? そんな所に、こーくんは本当に行けるの?』
キラキラ輝く宝石箱みたいな夜の真ん中に浮かぶ丸い月。
それを眺めながら、心配半分からかい半分で微笑む少女の問いかけに、少年は興奮しきった面持ちで自信満々にややズレた返事をする。
『小夜は馬鹿だな、すっごく遠いから行くんだよ! まだ誰も行った事のない世界が、オレたちの頭の上にあるんだぜ? そんなのワクワクするじゃん。行ってみたいに決まってるだろ!』
……子供の頃は、女の子と手を繋ぐ事の意味なんて知らなかった。
けれど、なだらかな丘の上。地面にお尻を付けて座り、二人並んで見上げた星空が、何よりも尊く大切なモノになるのだという無自覚の予感だけはあの頃から確かに胸の内にあったのだ。
だからきっと、少年はこの素敵な夜にこんなにも浮かれていたのだろう。
『ワクワクかー。こーくんは時々、なんか凄いよね』
『おい小夜、時々ってなんだよぉー』
呆れたように笑った少女に、どこか不貞腐れたように言う少年。すると少女は、ごめんごめんとまた少しだけ笑ってから、もう一度遥か頭上の宝石箱を見上げて。
『……でも将来の夢かぁ』
『小夜は何かないのかよ、大人になったらしたいコトとかさ』
『うーん。……あっ、じゃあさ、こーくんの夢が叶ったら、私も連れて行ってよ。月』
『はぁ?』
いい事を思い付いたとばかりに手を打つ少女の発言についていけず、間の抜けた声が漏れる。
すると少女は、自分の思いつきが否定されたと思ったのか、その怒りを表現するために可愛らしい膨れっ面になって。
『なによ、こーくんが言ったんじゃない。大人になってしたいことはないのか、って。それとも、私が一緒に月に行きたいって言ったら悪いの?』
『べ、別に悪いなんて言ってねーけど……なんだよ、やっぱり小夜も行きたいんじゃんか。月』
『……えへへ、なんかね。キラキラしてるこーくんを見てたら私も行きたくなっちゃったんだ。ここじゃない、どこか遠くへ』
はにかむように笑った少女の顔に、どうしてか顔が熱くなった。
心臓の鼓動がうるさい。繋いだ右手も熱い。少年の体温と少女の体温が混ざりあって、星の海に飲み込まれてしまった赤と青のように、その境界線までもが曖昧になっていく。
なにかそれが、とてもいけない事をしているように思えてきて、顔の熱さを誤魔化すように鼻の頭を掻いてから口を開くと、いつもよりぶっきらぼうな変に裏返りかけた声が出た。
『ふーん。ま、仕方ねーな。分かったよ、小夜もオレが連れていってやるよ。月に』
『やった! ねえ、こーくん。それじゃあ、約束しましょ?』
心の底から嬉しそうに笑う少女の大きな瞳に映る自分が、彼女の言葉に頷いた。
繋いだ手が一度解かれて、儀式のようにもう一度一つに結び直される。
絡めた小指の柔らかさと、しなやかに巻き付いてくる滑らかな感触が脳裏に焼き付いた。
そうして二人、頭上を見上げて夜空という鏡を見つめ合ったまま、魂にまで刻まれる言葉を同時に紡ぎ出す。
『『――いつか二人で、月に行く!』』
そんな大切な約束を、星々に見守られながら交わしたのだ――
――それが、何度も何度も繰り返し脳裏を過る、モノクロの記憶。
もう二度と戻ることのない、遠き日の日常。
かつて確かに大切だったタカラモノ、その残滓のようなナニカ。
過去を顧みて――顧みる程の過去を得てしまって、そうして誰もが思い知る。
幼い頃、傍から見ればくだらないガラクタこそが、何物にも代えがたいタカラモノだった。
そして、ガラクタはどこまでいっても所詮はガラクタで、単純ではなくなってしまった世界においてはその価値を守る事はとても難しいのだと。
――なら、子供のままじゃいられなくなった俺たちは、腕のなかに残ったガラクタを一体どうすればいいのだろうか。
酸素を欲するように喘ぎ、足掻いて、答えを探し求めて夜空に向かって手を伸ばす。
……いや、正確には答えなんて探し求めていないし、夜空に向かって手を伸ばしているのも星を掴む為だとかそんなロマンチックな意味合いは微塵もない。どちらかと言えば求めているのは助けだったし、例えでも何でもなく酸素そのものを俺の全身の細胞は欲していた。
「ぐ、ぐるじぃ。じぬ……」
海に迫り出した小高い崖の上、そこから潰れた蛙みたいな不気味で奇妙な呻き声が響いていた。というか、俺の声だった。
海沿いに面し、日中は天気が良ければかなり遠くまで景色が見渡せる隠れ絶景ポイントと、熊野神社というパワースポットを有するこの権現山は、地元の人間たちや通な観光客の間ではそこそこ名の知れている名所だ。
実家の裏手にあるので個人的に『裏山』と呼んでいるこの山は、頂上付近の一部が海に迫り出した崖のような形になっていて、周囲に何も無いド田舎な為に夜になると満天の星が輝く天然の展望台へと変貌するのだが、生憎今の俺に星空を楽しむような余裕はなかった。
状況を一言で説明しよう。
雰囲気が暗くて目つきが淀んでいるとご近所さまからもっぱら評判の俺こと高良光一は空から降ってきた小隕石が頭に直撃し意識が暗転、気づけば裸の女の子の下敷きになっていた。
……うん、自分で言っていて全くもって意味が分からないが、頭を打ったせいで頭がおかしくなった訳じゃない……はずだ。と思いたい。正直、現状があまりにも現実味に欠けていて、俺自身が自分の正気に自信が持てていないまであった。
――そもそもどうしてこうなった?
一番あり得るのはこれが夢で、隕石も裸の女の子も全ては幻という線だ。ここは一つ、現実と妄想幻想の境を見極める為にも、一つずつ状況を整理すべきだろう。
今日は八月二日。
大学生になり島を出てから初めての帰郷で、久しぶりの故郷の空気におかしな感慨に取り憑かれて、夜と海とを同時に眺める事が出来るこの場所に足を運んだ――そんな、愛すべき退屈な日常から自らはみ出るような行動に走ってしまったのが、そもそもの間違いだったのだろう。
感傷的な気持ちになって詩的で寒いことをぼそぼそ呟いていたのは、今思い返せばかなり気持ち悪かったと思うし、淀んだ目で崖に腰掛け夜空と海を眺めている姿は不審者めいていたかもしれない。
普通を愛し平凡こそを至上とする俺らしからぬ異常行動。それもこれも、全部この星空が悪い。なのでキャッチコピーは「全部星のせいだ」でいこうと思う。何の話だ。
ともかく。夜空を見上げながらくだらない考えで時間をいくらか浪費して、自分の行動の馬鹿馬鹿しさにようやく気付いて実家に戻ろうとして――確か、閃光めいた眩い光に目が眩んで、側頭部に凄まじい衝撃を感じたのはその直後だったはずだ。
そこから先はご覧の通り。隕石の直撃で即死――かと思いきやいつまで経っても意識が途切れず、気づけば裸の女の子が俺の上にうつ伏せで覆いかぶさっている事に気付き、今に至る。
意識は明瞭、記憶も全てはっきりと繋がっている。五感の感覚もリアルそのもの。どうやらこのふざけた現実は現実のようだ……ふざけてんのか?
裸の女の子の下敷きなどと言う、男ならば誰もが羨ましがるようなけしからん状況にある俺だったが、色んな感触を楽しむ余裕はない。
むしろ結構真剣に生命の危機を感じていた。
と言うのも――女の子にこんな事を言うのはとんでもなく失礼だと思うのだが――俺の上に伸し掛かっている彼女の身体は滅茶苦茶に重かったのだ。間違いなく横綱クラス。
下敷きになっている、という表現からも分かって貰えるかもしれないが、地力では脱出できそうにないレベルの重さに圧し潰されている俺は、今も息がほぼ出来ないような状態にある。
「お、もい……」
切れ切れの声でやっとそれだけを絞り出す。しかし女の子は意識を失っているのかビクともせず、俺の上から一向に退いてくれる気配がない。
このままでは本当に死ぬ。死んでしまう。
別にそれはそれでと少しだけ思わない事もないが――腹上死ならぬ腹下死など死に方としては最悪だ。悪目立ちが過ぎる。流石に死後にネットの笑い者になるのは勘弁願いたい。
……というか、俺より小さな女の子が建材みたいな重さしてるって色々間違ってるだろ。
女の子はもっとこう、軽くてふわふわしていて柔らかい夢のあるものなんじゃないのか? いや所詮は童貞の戯言なのでよく知らないけど、どう考えたって隕石が女の子になるのも大概おかしいし、一体何をトチ狂ったら世界はここまで壊れるんだ……戻ってきてくれ俺の平穏。
薄れゆく意識の中で、そんなことを祈るように思った直後だった。
「――あ、れ? 重くない……?」
まるで最初からそうであったように、俺を苦しめていた重量が女の子から消えたのだ。
そのままいとも簡単に女の子の下から抜け出すことが出来た俺は、狐につままれたような顔で、相変わらず電源を切ったようにうつ伏せのまま微動だにしない裸の少女を呆然と眺める。
「なん、だったんだ。今のは? ……てか、生きてるよな? 死んでたりしねえよな、この子」
口に出した途端、この冗談じみた状況に重苦しい現実がのしかかって来るのを強く感じた。
血の気が引いていく感覚。心臓の鼓動が身体の奥でやけに反響している。何故だか無性に息が苦しくて、まるで胃の中にボーリングの球でも落とされたみたいに腹の奥底が重かった。
視界が、世界がモノクロになってぐにゃりと歪んでいくような――
「――はぁ、っはぁ、はあ、はぁっ、はぁ……っ!」
脳裏を掠める最悪の既視感を振り払いながら、俺は倒れたままの少女に手を伸ばして――
「うおぁああ!?」
――ガバッッっ、と。うつ伏せに倒れていた少女が凄まじい勢いで起き上がった。
完全に不意を突かれた俺は、超怖い遊園地のお化け屋敷に入った時のような本気の絶叫を上げ、その場で思いっきり尻餅をついてしまった。
まるで後頭部に接続したワイヤーで強引に真上に吊り上げるような、関節やら人体の動きやらを無視した挙動に違和感以上の衝撃で頭を真っ白にしていると、間髪入れずに少女がぐりんっとこちらを振り向いた。
勢い良く回転する少女の動きに合わせて、濡れた夜のような烏羽色の長髪がまるで花開くようにふわりと舞い上がって、その闇夜の向こう側。雲の切れ間から煌々と輝く満月が顔を出すように、少女の顔が露わになる。
「――え」
瞬間、俺は時間が止まったような――いや、時間が巻き戻ったような錯覚に襲われていた。
パッチリとした大きな黒目に、涼やかさを感じる鼻梁。可愛いというよりも美しいと評すべき整った顔立ち。早熟な色香を纏う艶やかな唇が笑みを描き出せば、それはきっと極上の笑顔に変わることを俺は知っている。
一糸纏わぬ姿で眼前に顕現した一種の彫刻作品めいた美しいラインを描き出す裸体は、成長途上であるが故に無駄な肉付きがなく、きめ細かく滑らかな白磁の肌はその瑞々しい若さを惜しげもなく主張している。その中央で控え目に存在を主張する胸の双丘がなんとも愛らしい。
完全の中に不完全を内包した、ある種の矛盾を抱える神秘に満ちた小宇宙のようだ。
深窓の令嬢めいた線の細さ、儚さや繊細さを感じさせる佇まいの中に宿る意志の強さ。その輝きを、やはり俺は知っている。
総じてソレは、齢十三、四歳くらいの美しい少女の形をしていた。
「う、そ。だろ……」
独り言が口から勝手に漏れてくる。
モノクロだった視界が、モノクロのままに鮮やかさだけを取り戻していくような異様な感覚。
心臓の鼓動すら消えて、足元の地面がアメーバのように揺らいでいるようだった。
自分が今どんな感情を浮かべているのか、俺自身理解出来ない。
ただ、強烈な既視感とも言うべき感覚に俺は唖然とし、いつの間にか目の前の現実とモノクロの世界の彼女の相違点を探そうと必死になっている自分がいた事は確かだったと思う。
……それはモノクロの世界に現在の自分が迷い込んでしまったような、奇妙で不可思議でまるで現実味のない体験。俺が心の底から忌避する非日常そのものだ。
だから、彼女が口を開いた瞬間。俺はいよいよこの世界が致命的なまでに壊れてしまったのではないかと思った。
「――遘√?逾医j繧医j逕溘∪繧後@蟄伜惠繧ェ繝ゥ繧キ繧ェ繝ウ縲ゅ?取弌蝟ー縺??上→縺励※縲√%縺ョ諠第弌縺ォ貊??繧帝ス弱☆閠??らァ√r鬘倥▲縺溘?縺ッ雋エ譁ケ縺具シ」
「……は、はぁ? なんて――?」
知らない言語――なんて次元じゃない。これは本当に声帯から発せられている音なのか? 知覚することさえ困難なノイズめいた何かが少女の口から出力されている。
「窶ヲ窶ヲ逕ウ縺苓ィウ縺ェ縺??ょ?迴セ蛹悶?髫帙↓荳榊?蜷医′縺ゅj縲√い繝翫ち縺ィ陦晉ェ√@縺ヲ縺励∪縺」縺溘?ゆコ域悄縺帙〓莠区腐縺?縺」縺溘?らァ√?譏溘r蝟ー縺?ュ伜惠縺ァ縺ゅ▲縺ヲ縲∽ココ縺ョ蜻ス繧貞・ェ縺?ュ伜惠縺ァ縺ッ縺ェ縺??ゅい繝翫ち縺ョ蜻ス繧堤峩謗・螂ェ縺」縺ヲ縺励∪縺?%縺ィ縺ッ遘√→縺励※繧よ悽諢上〒縺ッ縺ェ縺九▲縺溘?ゅh縺」縺ヲ縲√い繝翫ち縺ョ蟄伜多縺ョ轤コ縺ォ縲取弌蝟ー縺??上→縺励※縺ョ蜉帙r蛻?¢荳弱∴繧倶コ九↓繧医▲縺ヲ縲√い繝翫ち縺ョ豁サ莠。繧貞屓驕ソ縺吶k莉悶↑縺九▲縺」
「いや。ちょっとまて、頼む待ってくれ。何を言ってるのかこれっぽっちも分からな――」
「繧?縲ゅb縺励°縺励※縲∽シ昴o縺」縺ヲ縺?↑縺?シ」
こちらの言葉が通じているのかいないのか、首を振って不理解を示そうとする俺の反応を見て困ったように眉を寄せて可愛らしく小首を傾げる少女。俺を見つめる大きな黒目はその瞳孔まで見開かれていてまるで能面のよう。作り物めいたその表情は誰の目にも不自然だった。
そしてそれは俺の知らない彼女の表情である訳で、心臓がドクんと不気味に鳴動する。
少女は、尻餅をついている為に低い位置にあった俺の顔にグンと顔を寄せると、しばしの間観察するようにじっと眺め、自分の喉の調子を確かめるように大きく口を開けて、喋った。
「……縺ゅ?縲√≠繝シ……@~~っ、……AAA―― ̄ ̄AA~~aaaa― ̄―ァーァー、アアー。あー、あー。……こほんっ。惑星言語情報をインストール。現在座標より使用言語を特定。チューニング完了。質問、わたしの声は、聞こえているか?」
「……………………、」
「む。おかしい。ちゃんと言葉、喋れてるはず。なのに反応がない。わたし、何か変か?」
少女は、黙ったまま二の句を継げずにいる俺に再度首を傾げて尋ね、しばらくの間返事がないとむすっと不満そうな表情を作る。どうやら俺の反応がないのがお気に召さないらしいが、俺としてもそれどころじゃない。
――絶句。人間、理解不能な超現実というヤツに直面すると、声はおろか身動き一つ取れなくなるらしい。何というか、驚きすぎて身体の操作方法さえ頭からすっぽぬけていた。
だが、少女の側からすればこちらの事情などは関係のない話で、反応がない事実が面白くない事に変わりはなかったのだろう。
完全に停止してしまった俺を動かそうとしたのか、あろうことか彼女はペタペタと俺の頬や額、さらには唇にその柔らかい掌や指先で触れてきやがったのだ。あまりにも無防備に、素っ裸で屈んだ態勢のまま。
――こうかはばつぐんだ。きゅうしょにあたった!
「な、ぶはあ!?」
鼻孔をくすぐる甘い香りと強烈すぎる視覚的な刺激に心臓を爆発させ――しかし、見るものはしっかりと目にしながら――硬直が解けた俺は尻餅をついたまま飛ぶように後ずさる。そんな情けない俺を少女は観察するように眺めたまま、またもや理解不能と首を傾げた。
「――困惑。恐怖。不安。焦燥。を感知。高揚。緊張。興奮が急上昇。……ふむ、コーイチは、わたしに興奮している? どうして?」
「ど、どうしてってお前そんなの……っ」
俺は普通の男の子なので、そりゃ当然そういう反応になるに決まってるだろ。それを俺から言わせるってどんな罰ゲームだ。
「? 視線の集中を感知。特定の部位に関して、強い関心? コーイチは、わたしに興味津々?」
「うるさい黙れお子様体型。さてはお前さっきから自分が何言ってるのか分かってねえだろ――って、ちょっと待て。お前、今俺のことを光一って呼んだ、よな? ……なんで俺の名前を」
「? 名前知っているのは当たり前。コーイチ、わたしを祈った一人だろう?」
ぞくり。少女の言葉に、俺は得体の知れない寒気を感じた。身体の奥から頬にまで昇っていた熱が、すぅっと急速冷凍したように冷めていくのを感じる。
まるきり意味の分からない――普通であれば頭がおかしいと切り捨てるだろう少女の言葉をどうしても無視する事が出来ず、俺は頭痛をこらえるように額を押さえながら、見上げるような姿勢で少女に問いかける。
「……祈った? 待ってくれ、何の事だよ意味が分からない。お前は何者なんだ? どうしてこんな所に裸でぶっ倒れてた? さっきから一体、何を言って……」
それはきっと、彼女の核心に触れる致命的な問いかけで――
「わたしか? わたしの名前は繧ェ繝ゥシオン。祈りに生まれし――……?」
と、まさに核心に切り込もうという名乗りの途中で走ったノイズに少女は首を傾げた。
どうやら、自分の名前をうまく発音出来なかったらしい。
少女は、一度考え込むような仕草を見せると。
「む。そうか、半分失っているから名前も……。ふむ、ならシオンでいいか。うん。……わたしの名前はシオンにした」
――滅茶苦茶適当だった。というか、ぐだぐだだった。
「……いいかってお前そんな適当な。今けっこう重要な場面じゃなかったのかよ」
「?」
「いやそこで首を傾げられてもな」
「――……わたしか? わたしの名前はシオ」
「いや、名乗りから真面目にやり直せって意味じゃないから。なんでテイク2? ドラマ撮影か何かなの? ……いや本当に頼むからドラマ撮影であって欲しいあってくれ」
カメラどこだよカメラ。あるいはドッキリ成功の立て札でもいいよ。お願いだからこの異常空間から俺を助けてくれ……。
「……はぁ。まあ、本人がイイって言ってるんだから何でもいいか」
完全に俺を置き去りにして一人得心したように頷き、その場で自分の名前を改名してしまった少女あらためシオンの間の抜けた様子に、俺は状況も忘れて思わず嘆息してしまう。
シリアスな場面のはずなのに、どうしてだろう。一度、緊張感に穴が空いてしまったからか一気に脱力感が襲い掛かって来た。感情があっちこっちに行って忙しかった為か、ここへ来て疲労感もドッと押し寄せて来ている。
得体の知れない寒気も、不吉さ漂う彼女の言葉も、何もかもどうでもよくなってくる。
それは、彼女の気の抜けるようなマイペースな態度がそうさせるのか。それとも……。
俺は、目の前の非現実的な非日常をくだらない日常の一部へと貶めてしまうかのように、心底面倒臭げに尻についたゴミを叩きながらその場で立ち上がると、
「……もう名前は分かったから。それで、結局お前は一体なんなんだよ。どうして俺の名前を知ってる? 祈りって一体何の話だ?」
もう何でもいいから解放してくれと、あえてウンザリとした態度を隠そうともせずに投げやりな調子で尋ねる。するとシオンと名乗る少女は、最後に自らの正体に関してこう告げた。
すなわち。
「わたしは祈りに生まれし存在。『星喰い』として、この惑星に滅びを齎しに来た。わたしを願ったアナタたちの祈りを叶える為、わたしと一緒に地球を食べよう。コーイチ」
己の目的を告げたその瞬間、少女の大きな黒目は見たこともないような虹色に輝いていて、彼女が単なるモノクロの世界からの来訪者でない事だけは、確かなようだった。