後編
夏樹はまず、入江清良にメガネを忘れた正確な位置を訊いた。他のクラスに行っていた時間は20分くらい。運動部はもう部活に出ていて、まだ戻る時間でもない。掃除当番で最後になったのが入江で、他に誰もいなかった。
失せ物探しの基本は紛失現場で依頼主と同じ状況に立つこと。教典の古語が勝手に訳されて夏樹の頭に蘇る。
――これがコンタクト奪った理由なんだろ、親父どの。いいよ、乗せられてあげる。こんなことでメガネが見つかるというんだったら、やってみてもいい。
昼食時に、メガネが消えた位置を背にしてクラスを見廻した。
――もしも今この教室内にメガネを持っていたら、自分の席を離れたくないだろう? そのためにわざわざ、『持ち物検査』なんて物騒な言葉吐いてみたんだから。
それにしても、メガネが他のクラスの人に持ち去られていたらどうしようもない。ただ、置き忘れた場所は掃除道具入れの影になっていて、教室に入ってこないと外からは見えない。持って行った人がこの中にいると賭ける根拠はたったそれだけ。
既に焼却炉に投げ込まれたとか、持ち帰って宝物にしているとかだったら、もう戻ってこないかもしれない。
入江を困らすためじゃないとしたら、返さない理由って何だ?――
「ちょっといいかな? 失せ物探しさせてくれる?」
「ウセモノ?」
「なんだよ、夏樹、おみくじでも引くのか、当たるも八卦ってやつか?」
「それともおまえんちの神さまでも召喚すんのかよ?」
「あんなひと連れて来ちゃったらめんどくさいだけだよ。普通にお弁当食べててくれればいいから。僕が言うこと聞き流してて」
すうっと息を十分吸ってから腹式発声で話す。
「付喪神って知ってるかな? 生き物でなくても100年たつと物や道具も霊魂を持って動きだしたりするらしい。そんな長い時間かけなくても、人との繋がりが密接な物だったら、その人の魂が乗ることもあると思うんだよね。メガネなんて毎日かけてれば身体の一部。魂を持つまでに100年なんて要らない。魂まで行かなくても、持ち主との間に赤い糸が見えるかもしれない」
夏樹はクラスメイトの反応をつぶさに観察した。友人と机をつけて、顔をこちらに向けている女子たちは目を丸くしている。大事なのは背を向けている大多数の中で、内心表情を読まれたくないと思っている人の肩の動き。
――父さんだったら絶対、指で印を結んでもっと成り切ってる。メガネを手繰り寄せるような身振り付き。僕は静かで理詰めな先代の祖父ちゃんの流儀が好きだけどね。
「戦国時代、首実検ってのが行われたのは知ってるよね。敵将の御首級を取って主君に見せ、大物のだったら褒美が増えたわけだけど、結果として首なしで埋められた死体がたくさんあったんだ。逆に首塚っていって、首だけ集められて埋葬もされた。別々に埋められてしまった死体はお互い呼び合ったらしい。首は胴体を胴体は首をね……。そんな感じでメガネと持ち主の間にも呼び合うものがあるのかもしれない」
「楽しい弁当時間にヘンな話するなよ」
夏樹と付き合いの長い級友が、与太話には左右されないぞと突っ込んできた。
それが合図になったかのように、ほとんど全員が顔を振り向けた。
夏樹はすっとメガネを外した。眩しい。すぐには焦点が合わない。ゆっくりと顔を上げる。
実はこの瞬間のこの目つきが、真実を見据える弥勒菩薩半跏思惟像のようだ、神童だなどと氏子さんにもてはやされたものだった。ただの小学生だったのに。
だが今はこれを利用しない手はない。
見えもしないのにゆっくりと教室を見渡した。
「うん、もう済んだ」
「なんだよ、メガネ見つかったとかいうんじゃねぇだろうな?」
「目が見えないと他に見えることもあるんだよ」
思わせぶりに微笑んでみせたが、夏樹の裸眼では皆の表情までは見えない。
「上手くいったらメガネは今日か明日、僕の机の中に戻ってくる。土曜日の演奏会、僕も行ってる音楽教室主催だから、入江さんいないと困るんだ」
夏樹はこっそり返却方法を指示してから席に着き、すごい勢いで弁当をかき込んだ。
◇◇◇
どうしようもなかった、ぞっとした。身体のほうがもう怖がっている。入江と入江のメガネの間に糸が見えるだなんて信じちゃいない。いないのだけれど、阪口夏樹にそれが見えるとも思えないのだけれど、弁当仲間にアイツのうちは神社で、神主になる修業を毎日していると聞いてしまえば、全否定することができない。バカ話だと笑うこともできなかった。
阪口は阪口で、別にメガネの出現を待っている様子でもない。午後も全くいつも通り楽しそうで、男女の区別なく会話している。
入江と打ち合わせしている様子でもない。
メガネを取ろうとしたわけじゃない。入江を困らそうとも思っていない。
昨日は進路のことで理科の先生に会いにいったんだ。海洋生物学者になるにはこれからどうしたらいいか聞きたかった。先生がそっち方面の勉強をしたと聞いたから。先生は高校受験先と日本の大学の名前をいくつか、そして「いずれはアメリカかオーストラリア留学も視野に入れたほうがいいかもな」と笑った。
うちの教室に戻って誰もいなくて、でもメガネは彼女のだとすぐわかった。思わず掴んで別棟4階にある合奏部の部室へ走った。そこにいると思ったんだ、楽器ケースが整理棚になかったから。学生鞄を確かめなかったオレがバカだけど。
「入江先輩は、今日は来ていません」
と言われて困ってしまった。
家に届けようにも住所も知らない。何の連絡先も。
元の場所に置いておくか、職員室に届けるかだと思って渡り廊下を戻り、階段を下りた。その途中で数段踏み外して手すりに右手が激突した。痛かったが持っていたメガネだけは取り落とすまいとして。痛みが引いて手を開いてみると片方のレンズにひびが入っていた。
――最初っから手に取らなければよかった。いつものように、影薄く知らないフリをしていれば。
後悔が押し寄せた。憧れている入江に詳細を説明する自信はない。ひと目で入江のだとわかったというのが恥ずかしい。
帰宅部のオレがなぜ残っていたか知られるのも嫌だ。おまえに海洋学者、留学など無理だろうと嘲笑される。理科は得意でも英語はからっきしだから。
でも黙って返すと気持ち悪がられるか、故意に壊したと思われるかだ。壊れたのは確かに自分のせいではあるんだが。
直接入江に、手渡すのが一番男らしいと思っても二の足を踏んでしまう。
それで朝から悩んでいたところに阪口のあのパフォーマンスだ。
「ああ、もうどうとでもなれ」
ぐるぐる考えて午後の授業はそっちのけだった。もういい、腹をくくろう。
こっそり阪口の机に入れておくという手もあるらしい。だが、言い訳をさせて欲しい気がした。忘れて困ってるんじゃないかと善意からの行為だったこと、自分もメガネだから心配だったこと。それを入江本人には言えなくても。
放課後部活へ向かう阪口を追いかけた。コミュ障気味な自分でも、男同士ならまだ何とか話せる。誰も来ない屋上への階段を少し上がってもらい、そこでポケットからメガネを差し出した。
「あ、ありがとう、板野くん。こんなに早く見つかるとは思わなかった」
「でも壊れてて」
「壊そうと思ったわけじゃないんだから」
「わかるのか?」
「だって、壊したかったらもう捨ててるでしょ」
「あ、そうか」
阪口の眼はメガネのレンズの向こうで、いつもより丸く明るく大きく見えた。
オレが昨日のことを話そうとすると止められた。
「返すつもりだったんでしょ、大丈夫だから」
にっこり笑われて二の句が継げない。
阪口は逆に饒舌になった。
「ほんと、どうなるかと思った、学校であんなことしたくないんだよ。恥ずかしいしバカにされるし、もし見つからなかったらこっちはとんだピエロだ。どっか他のところで見つかっても間抜けだし、ほんと散々」
「……慣れてるんじゃ?」
「慣れてる? ウセモノ探し? 冗談じゃない、生まれて初めて」
「でも神主なんだろ?」
「僕はまだ見習いだよ。神主の父親にハメられただけ。僕でも神官の衣装をつけるとちょっとそれっぽいこともできるんだけど、それも神社のセッティングと雰囲気があればこそだし、教室でなんて……」
「すごいのな……」
「全然だよ。とりあえず、入江に連絡入れるから。板野が見つけてくれたって言っていい?」
「え? いやオレが悪いから……」
「悪くないって」
入江のケー番を持っているのを見せつけられて少し羨ましかったが、阪口はオレが見つけてくれたと言い張っている。
レンズのどちらにヒビがいっているか、訊かれたようだ。
「えっと、右目のほう」
電話の向こうの返事を聞いて、阪口はぱあっと笑った。
「やったね。わかった、今から持って行く」
「阪口、入江と付き合ってる?」
通話が終わった途端、言葉が勝手に出ていた。
「付き合って? ないな。僕の彼女は入江のクラリネットの伴奏をするピアニストのほうだよ。あ、土曜日演奏会来てみない? 明日チケット持ってくるよ。じゃ」
廊下を走り出した阪口の背に訊いた。
「メガネ、間に合うのか?!」
阪口は振り向くと、
「うん、壊れたレンズ、度の入ってないほう。メガネ屋さんですぐ入れてもらえる!」
と叫んで手を振った。
見送った後でオレは、実は、その場に……、
へたり込んでいた。
―了―
読了ありがとうございました!
もし、万が一、阪口信也、夏樹親子、夏樹の彼女がどんな娘か知りたい、とかありましたら、同シリーズ内「音楽室と音楽教室」を覗いてもらえれば、と思います。作中3年の時間が過ぎてます。
「おやしろの信ちゃん」が本編の1年前、夏樹が中二の時期になります。