オータム ラヴ ~ ジョーが描いた設計図 ~
明るく生きるって大切なこと。それでいてたまには暗く沈んだ気分に浸ることも、人として長い人生を歩んでいく上ではカンフル剤としての役割を果たしてくれたりする。
両親が離婚したとか、辛い思いをしたとかの経験も、今の私には立派な通過点になってくれているはずだ。そう信じたい。
中学時代からの流れを引き継いで高校でもクラブはバスケットボール部に入った。勉強よりも青春したい、クラブで美しい汗を流すんだ、なんて勝手な言い訳を授業と親にぶつけての春夏秋冬。二年生になり後輩の指導が毎日の日課となりつつレギュラー争いの激化の中、学年を超えてのバトルもあった。それでも止めようなんて思わなかったのは、自画自賛かも知れないが、持ち前の負けん気が、見え隠れしていた怠惰な自分に勝っていたからだと思う。その負けん気があるからこそ、今、こうやって自身の置かれた運命を受け入れつつ腐らずに生きていると思う。
よくは覚えていないけど突発的で大きな事故だったらしい。何しろ気がついたときには病院の集中治療室のベッドで寝ていたんだし、何よりも未だに感覚もなく全く動かない私の両足が、その事故の悲惨さを如実に物語っている。車に跳ね飛ばされた私が車椅子にお世話になっている。いつの日か、車椅子で車を跳ね飛ばしてやりたいとさえ思う。叶わぬリベンジの夢。車に乗る人なんかとは絶対に結婚しねー、とでも強がっていれば、自分らしさをも消し去ることだけはないような気がして、ちょっとだけ元気になれる。
二年生の秋が始まる頃、クラブのマネージャーとして部員復活を遂げた。クラスでも車椅子の私に配慮してか、又はどうせ授業中に寝てばっかりいる私へのこじ付けか、一番後ろの窓際に席が改められた。これはこれで嬉しかったりする能天気な自分がいたりする。
何事も明るく腐らず前向きに、だ。かつて父親という物体がまだ我が家に存在していたとき、よく聞かされた。思い出してみて自身の現状と照らし合わせてみると、やはり納得以外の何物でもないことに今更ながら気付かされる。以前にテレビで見た車椅子の花嫁、という番組。明るく頑張っていれば、私にだってきっといいことあるさ。
親友を兼任している悪友の綾香と私は昼休みに体育教官室に呼ばれた。体育のジョーこと城島というクラブ監督でもある熱血漢の先生に呼ばれた私たち。私みたいなミス・能天気でも教官室に来いと言われて褒められに行くとは思っていない。でも、思い当たる節もない。もっと言えば、こんなに人をびくびくさせるような呼び出しをせずに、こういう理由で来てくださいとでも放送して欲しいものだ全く。
「何だろね、せっかくの休み時間にうぜー」
「綾香、何かした?」
「いやぁ、多分何もしてないと思うけど」
「何よ、多分って」
「乙女の心は一分前のことは思い出せないように出来ているのよ。でも怒られるんじゃない感じがするけどね」
「何で」
「サチも一緒だし。私だけなら呼ばれた瞬間、稲妻のような腹痛に襲われましたぁって言って保健室に逃げ込むわよ。確実に何か言われるんだろうし」
乙女もどきが二人、長い廊下をわたって、隣の校舎まで歩くことになった。私立だけあって校舎がでかい。つまり、廊下も長い。その分、緊張感と何とも言えない恐怖感が次第に増幅されてくるのが分かる。
いつも私の車椅子を押してくれるのが綾香だ。事故の当日も二人での帰宅だったのに、彼女は掠り傷。何というのかな、変に私に申し訳なく思っているらしい。別に気にしなくてもいいじゃん、綾香に跳ね飛ばされた訳でもないんだしとは言ってはみても、何となく、私も複雑な気分になったりする。これも乙女チックな、という既存の言葉を使うのは悔しい限りだし、乙女しいという新語ででも形容しておこうか。
渡り廊下から校庭が見える。昼休み時間で天気も良いからみんな校庭に出て遊んでる。みんな、自分の足で歩いたり走ったりボールを蹴ったりしている。体育祭の時にしか出番のない可哀想な鉄の演説台の階段にも、何人かの女の子が自分の腰で座って普通に談笑している。みんな綺麗な笑顔だ。国旗を掲げるポールでさえも何となく羨ましく思えた。秋なんだなって思った。
そんな空気を呼び寄せていたとき、後ろから呼ばれた。
「綾香ぁ。ごめん、ちょっと手伝ってよ」
あ、そうか、ここは三年生のクラブでお世話になった先輩の教室だ。ここ半年、私はこの廊下を通っていなかったんだなあ。
「こんちゃす。何すか」
「サチ、久し振りやん、元気そうやね。ごめん、ちょっとだけこいつ貸してね」
「サチ、ごめん。ちょっと待っててね。ブレーキかけておくよ。校庭見とく?」
「うん」
「ごめんなサチ。大事な力仕事があんねん。こんなんは綾香に頼まな」
「ひっどぉい」
力仕事か、あはは。どうやら一階上の空き教室からマットを運んで欲しいらしい。私には手伝えないケド・・・
窓から廊下に入ってくる風は心地よかった。何も必要としない空間だけが私個人を支配しているような妙な時間を感じていた。目で風景を見ながら何も聞こえていない私。
「何やってんだよ一人で」
ふいに横から怖そうな男の子の声がした。振り向いたら学ランが見えた。学ラン、細いまゆ毛、同じクラスの泉君だ。あまり学校にも来ないから忘れかけていた。喧嘩も強く勉強は出来ないししない。教科書も新品のまま。
「あ、いや何も」
「どこか行く途中か?」
「え、うん」
「どこ行くねん?」
「体育教官室」
「体・・・何で?」
「知らない」
「何かしたんか?」
「何も、してないと思う」
「じゃ何で呼ばれんだよ」
「知らない」
「訳分かんねぇ」
「私も」
「ジョーの奴だろ」
「うん」
「ビビった顔してんじゃねーよ」
「だって、怖いもん」
「ふんっ」
「でも、何かしたのかなあ?」
「弱い奴には強く言うんだよ、ありゃあよ」
「そんなぁ」
空気の流れって、変わるんだなって感じた。一匹狼の不良で喧嘩も強くて、道を歩いていると前から来た他校の不良も道を避けるって聞いたことがある。話をしていて校庭から入ってくる爽やかな空気の中に煙草のにおいが入り込んでくる。でも何だろう、嫌いじゃない。ストレートだし嫌味もない。そして多分、敵でもない。変な感じ。
「俺が一緒に行ってやるよ」
「え、いいよそんなん。綾香が一緒だし」
「ほら見ろ」
「何?」
「女二人呼び付けてんだろ。セン公同士で何かあってはけ口にでもしようとしてんじゃねーのか、あいつ」
「そんなことないよ」
「何で分かんだよ」
「勘。女の勘」
「ふっ、何だそれ?」
「男には分からない偉大なる女の勘」
「ふんっ、男の勘の方がグレイトなんだよ」
「何でよ」
「うるせー。押すぜ」
「あっ、ちょっ・・・」
男って勝手な生き物。そして、煙草臭い。高校生の分際で親からお金をもらっておいて煙草を買うなんてサイテー。
長い廊下、車椅子を押してもらいながら風を感じていた。まだまだバリアフリー化されていない校舎だから、微妙な場所に微妙に段差があったりコードが打ち付けてあったりする。そこをまたぐたびに微妙に車椅子がガッタンする。小さな振動が腰から上を襲う。
私の方が先を向いているから前方の障害物が彼よりも先に目に入る。廊下を渡らせて貼り付けてあるコードカバーが普通に視界に入った。いつものガッタンの準備にかかった。両手で肘置きをしっかりと支える。ちょっと腰を浮かし気味にする。何しろ、顔は見えないけど後ろで私を押してくれているのは有名な荒くれ者。
さあ、いよいよ、というとき、静かにほんのちょっと身体が浮いた。そして静かに着地して同じリズムに返り咲いた。
何となく、季節は秋なのは分かっていたが私の中に、小さなタンポポが咲いていた。
「泉君」
「あ?」
背後から悪魔のくせに春を呼ぶ太い声がした。
「ありがと」
「何がだよ急に。気色悪ぃ」
「何でもない」
ガッタンで慣れていた私。もちろん贅沢なんか言えない。押してもらわなければ私は進むこともできなければ下がることもできないんだから。
でも、教室に入るとき、廊下の移動のとき、決して小さくはない振動が私の体を走っていたのも事実だ。気にはしていなかったけど気にはなっていた。
人って、外見じゃないんだなぁ。クラスの男の子の中で車椅子を後ろから押してくれたのも彼が初めてだった。それまで私の後ろに立つ男の人は病院の関係者か学校の先生だけだった。その中でも断トツに悪い奴、煙草臭い不良に押してもらっている今が、一番幸せで安心していられるというのも複雑なものを感じる。単純に感じた本物の気遣い。
「サチぃ、ごめぇ~ん・・・あ」
「こいつ放っといてどこ行ってたんだよ」
「ごめんなさい。あの、先輩に呼ばれてて」
「先輩? 誰だよ、それ。馬鹿じゃねーの」
「ごめんなさい。でも、何で泉君がこんな」
「何だよ」
「綾香、泉君がここまで押してくれたんだ。そんでね、ジョーのところにも一緒に行ってやるよって」
「つまらんこと言ってんじゃねー」
「泉君が?」
「何だよ」
「だって」
「どーせ俺みてぇなのが押しても似合わねーとか言うんだろーが」
「え、そんなぁ」
「気ぃ変わった。あとはオメーが押してやれよ。じゃあな立花」
「ジョーのところに一緒に行ってくれるんじゃないの?」
「女の勘に付き合ってるほど暇じゃねぇ」
「あれ、ビビってるん?」
「しばくぞ。誰があんな奴にビビるか」
ミスター不良殿はここで颯爽と立ち去って行った。
「ごめんねサチ。ジョーに会う前にあんな奴に押されていたんじゃ厄日やね」
それでも私は、心からの安心感を与えてくれた泉康平というクラスメートに、少しだけ、他のみんなとは違う感情を抱き始めていた。
「泉君ってさ、案外いいとこありそうよ」
「サチ大丈夫? 脅されたの?」
「やだ、違うよお。本当にそう感じただけ」
教官室の前に来た。コンクリートの打ちっ放しの別館のような作り。無造作に転がっているサッカーボールが、なぜか寂しい。
「二年二組、山崎と立花です。失礼します」
ノックをして挨拶をして室内に入った。ジョーは机に向かって何やら書類に目を通しているらしかった。表情は見えない。
「おっ、来たか、悪ぃ悪ぃ」
おもむろに振り向いてこう言うと、中へと手招きをした。表情は明るかった。
「お前等を呼んだのは、今度のインターハイのメンバーについてな、ちょっと聞きたいことがあってな、それで呼んだんだ。悪いな」
バスケットボールのチームは府内でも強豪の仲間入りをしている。その顧問、監督がジョーだった。とりあえず、呼ばれた内容が理解できたことで、気持ち悪さや怖さは完全に払拭された。
「立花にも来てもらって悪いな。マネージャーの立場からも聞きたかったものでな。山崎、サンキュっ。押してきてくれたんか」
「途中から」
「途中?」
「泉君が押してくれました」
「泉? 来てるのか学校」
「はい、午前中は見なかったんですけど」
「そうか、来てるのか」
「ジョ・・・あ、城島先生に呼ばれているって言ったら俺が押して行ってやるって」
「何? 外にいるのか泉は」
「いえ、途中で気が変わったとか言ってどっか行っちゃいました」
「ふっ、あいつらしい」
どちらかと言えば鬼のようなタイプで恐れられている城島先生の顔が一瞬、綻んだ。
「先生」
「ん?」
「あの、ちょっと聞きたいんですけど」
「何だ」
「あの、その、泉君って、本当に不良なんですか」
体育教官室には似合わない空気が流れた。コンクリートの壁にかかった掛け時計の秒針の音だけがこだましている。
「お前はどう思うんだ、立花」
「サチ、どうしたの? 変よ、さっきから」
「・・・」
「不良だと思うのか、泉を」
「よく分からないけど、悪ぶっているだけで本当は優しい良い人なんじゃないかなって」
「なぜ、そう思うんだ。何回も警察沙汰にもなっているし他校の生徒からも一目置かれているらしいぞ、あいつは」
「なぜって言われても・・・車椅子を押してもらっていて、何となく」
「そうか。車椅子、か。何となく、か」
「はい、何となく」
「あいつは京都から転校してきたってのは、知ってるな」
「はい」
「中学のとき、バスケットボール部のキャプテンやっとったのは知ってるか?」
「え、泉君が? 綾香、知ってた?」
「初耳」
「高校からも推薦が来るほどの選手だったんよ、あいつ。勉強も出来たんだぞ、信じられんだろ」
そこからインターハイのメンバー決めの件は等閑にされ、泉康平という一少年の昔話を聞く羽目になった。
中学に入ってすぐ両親が離婚し、母親が彼を引き取って一緒に住んでいたらしい。一人っ子の彼は寂しさを紛らす意味でも益々バスケットボールに熱中したと。そして昼も夜も働いて彼を推薦してくれている私立高校に入れてやりたいと頑張っている母親を、よく手伝っていたらしい。
「頑張り屋さんでな、人にも優しく、いわゆる好青年だったらしいんだ、あいつ。それが今ではこの辺りで知らない奴は居ないほどの不良だ。信じられへんやろ」
「でも、何で急に」
「お母さんを亡くしててな。中三の秋に。無理がたたったんだろう、癌だったそうだ。その頃の奴の担任だった先生と俺はちょっとした知り合いでな、よく聞いていたんだよ。学校にも弁当は自分で握り飯作って持って行って授業受けてクラブやって、そして毎日病院に見舞いに行って母親を車椅子に乗せて病院内を散歩してあげるのが日課だったそうだ」
涙が溢れる、涙が止まらない、という表現は事実として存在するものだと初めて知った。母一人子一人の家庭で、その母親が他界するということが、その後の彼の人生をどう変えてしまうのかくらいは想像に容易い。
彼は、母親がこうなったのは自分のせいだと思ってしまったらしいと先生が言った。
私には、車椅子に乗せてあげた母親を、病院内の散歩に連れて行ってあげている彼の優しい顔が思い浮かんだ。ガッタンしないように気を遣いながら、ゆっくりと母親のペースで歩いてあげていたんだろう。押してあげながら決して涙は見せず、母親が心配しないように弱気にならないようにしながら、僕は大丈夫だからと、だから早く良くなってねと言いながら歩き続けてあげていたんだろう。
「授業中に母親が危篤との連絡を受けて病院に行ったんだが、結局、最期には間に合わなかったんだそうだ」
彼が荒れだしたのはそれからだという。その後、父親方の親戚に預けられたが、結局たらい回しのような感じで、最終的には母親の実家で落ち着いたらしい。
へたな映画よりも格段に悲しい事実。本当に泣いた。先生の目も真っ赤だった。
「どうだ。あいつを不良だと思うか?」
先生の問い掛けに二人とも返事が出来なかった。ひょっとすると、さっき車椅子を押してもらっているとき、泉康平という少年は、私の背中を見つめつつ、母親と同化させていたのかも知れない。そう思うと煙草臭い不良、なんて思っていた自分が恥ずかしくさえ思えてきた。
自分が感じていた安心感や優しさは、母親に向けられていたものだったのだろう。心の中に咲いていたタンポポが・・・増えた。
学校にあまり顔を見せない理由も今日初めて知った。朝、彼は新聞配達のアルバイトをしているのだ。このことは学校の教師全員が知っていての黙認らしい。警察沙汰に何回なっても、もう五回も謹慎処分になっていても彼が退学処分にならないのは、そういった環境に対しての配慮が根底にあるみたいだ。
そして、城島先生が付け加えた。
「あいつの謹慎処分もそうだが、この学校の生徒にはただの一度も手を出していないんだよ。逆に、うちの生徒がどこかの学校の生徒に金銭を取られたとか、殴られたとかっていうときに、敵を討ちに行くんよな、あいつ。何て言うのかなあ、とことん他人のために何かをしてやりたいってタイプなんだな。考えてみりゃ昔堅気のガキ大将だな。番長だな」
不動明王という仏様について聞いたことがある。あの恐ろしい外見上の憤怒の表情は悪を懲らしめるためである、と。内面は実に慈悲深い仏様である、と。泉康平、彼はまさに現代の不動明王であるのだろう。
話を聞きながら、鬼のようなジョー先生が彼に対してやけに同情的なのも、何となく引っかかった。まだ、何かあるのかな。
インターハイの出場メンバーに関しての意見交換が終わり、私たちは目と鼻の頭を真っ赤にしたまま教官室を出ようとした。そのとき、ジョーが諭すように言った。
「不良と、悪との違いは理解してやれ。いいな。それから・・・多分、あいつも本当に教官室に来るつもりだったんだろう。強がって見せるんだが根は寂しがり屋なんだよ、あいつ。いつも一人ぼっちではいるが、一人ぼっちに完全に慣れるなんてことは出来ないだろうしな誰だって。お前たちに会わなかったら多分、来てたな、ここに。あの野郎」
そう言って、ジョーは悲しそうに笑った。
幸せって何なんだろうか。そんな問い掛けをされているみたいだった。そして、何を不幸であるとするのだろう。哲学じみてはいるけれど、それでも何よりも大切なことに対して、自分たちなりに答えを出さなければならないような気がしていた。
「サチ、どう思う?」
「どうって?」
「ジョーの話。泉君の」
難しい質問だった。悪友らしいと言えばそうなんだけど、今の私にはとてもじゃないが答えられなかった。さっき車椅子を押してもらっていたときに感じていた風を思い出してしまっていたから。
「分かんない」
「そうやんなぁ、分かんないなぁ」
偶然というものが何か大切なものを奪い去ってしまったのかも知れない。
私たちに会わなかったら、廊下に私がいなかったら泉君は教官室に行っていたのだろうか。不良と鬼が、冷たいコンクリートの壁に囲まれた空間で、一体、何を話すことになっていたのだろう。私には、泉康平という少年について、もっと知りたいと思う気持ちが芽生えていた。最後に見せたジョー先生の悲しそうな顔が胸の奥にしっかりと刻みこまれ、鼓動とともに走馬灯のように頭の中を駆け巡っていた。
私は車椅子の人生を今後も歩むことになる。でも、優しい母親もいるし自分の部屋もある。説教ばっかりしてくる心優しいオネーサマもいる(ふんっ)
彼には親がいない。頼れる兄弟もいない。どうしても行き詰って困り果てたとき、一体誰に相談していたんだろう。どうにもならなくなったとき、一体、どうやってきたのだろう。ほんのちょっとだけ寂しそうな表情を見せる泉康平少年の姿が、今の私にははっきりと見えていた。
教室に戻って周囲を見回してみたが、彼の姿はなく、机に座った形跡もなかった。もうすぐ終わる昼休みの喧騒だけが教室内を完全に支配している。
泉君が何回か座った椅子。何回か使った机。ほんのちょっと触れてみる。彼の心の叫びが聞こえてくるような気がした。助けを求めているような悲痛な叫び声が、自分の細い薬指を通して伝播してくる。何だろう、どうしちゃったんだろう、私。
不良と悪との違いは理解してやれ、か。考えれば考えるほど分からなくなった。
その日の晩、私は夢を見た。まだまだ小さな子供の泉康平少年が、大きな大人たちに囲まれて大声で怒鳴られている。大粒の涙を流しながらじっと我慢し続けている少年。その少年の前で一人の男の人が土下座をして謝っている。こいつを助けてやってくれと泣きながら訴えている。よく晴れたよい天気なのにそこだけ雨が降っている。
次の日、朝早く目覚めた。そして母親にそのことを話した。朝食の準備に忙しい母親がこう言った。食卓にはまだ姉の姿はなかった。
「サチ、あなたねぇ、きっと恋をしているのよ、その男の子に」
「やぁだ、お母さん。そんなんじゃないのよ」
「助けてあげたいなって思ってるでしょ?」
「うん。何となく」
「私ね、一度見たことあるわよ、その子」
「えっ、どこで?」
「踏切」
想像もしていなかった場所だった。
「何で?」
「仕事で支社から車での移動中にね、踏切で引っかかっていたのよ。目立つじゃない、あの子。背も高いしキンキンの茶髪だし。そして何となく見てたらね、遮断機が上がって歩き出したのが急に立ち止まってね、手押し車のお婆さんを誘導し出したのよ。段差が大きい踏み切りだし、よく事故とかも起こってるじゃない。何か、ホッとしたのよね、見てて。お婆さんの横について一緒に歩いてあげている顔がとっても綺麗だったわよ」
「へぇ~、泉君が。そんなことしてたんだ」
トーストが焼ける匂いがする。母親との女同士の時間が纏わりついてくる。
「先生に聞いてみたら?」
「先生って、ジョーに?」
「そう。お母さんの勘だけどね、あの先生、きっとその子のことを助けてるんじゃない?でなきゃ普通ならとっくに退学よ、学校」
「お母さんの勘?」
「そう、勘。偉大なる母親の勘」
親子だなって思った。同じこと言ってる。
「聞いてみよっかな、今日」
「そうしなさい。少なくとも人間として悪い子じゃなさそうだしね、サチの意中の人」
「やめてよ、誰があんな不良と」
「はいはい」
私もいずれは母親に・・・なれるのかな。でも、母親って自分の子供のことはやはり何でも分かってしまうっぽい。彼の母親も最期を迎えたとき、愛する息子の今後が見えていたのだろうか。何もしてやれなかったと後悔しつつ無言で息を引き取って行った彼の母親が、あまりにも不憫で可哀想でならなかった。
今日もいつものように母親の運転する車で学校まで送ってもらう。繰り返される日常ではあるが、昨日と今日では明らかに違う心情変化が心の中に芽生えていた。はっきりとした目的が出来たということか。
車椅子のまま後ろから乗るタイプの福祉車両。運転する母親の背中を見つめながらふと思った。私の背中って、泉君にはどう映っていたのだろう、と。私が今見ている母の背中は、少なくとも守ってあげたい対象としての見方でないことだけは確かだ。逆に守ってもらっている訳なんだから。
でも、彼が押した私の車椅子は全く逆だ。守ってあげている状態で彼は私の背中を見ていたんだ。ちっちゃなことかも知れないけれど、あの、ガッタンの衝撃を感じさせずに押してくれたのは、彼が初めてだった。ただ、普通に目的地に押して行くだけなら、そんなところまで気が回るものなのだろうか。
それとも、病に伏していながらも我が子の行く末を案じた母親から、人の優しさというものの本質を身をもって教わったのだろうか。それか・・・彼が、ジョーが言いたかったと思われる彼の本当の優しさ、というものを最初から持っている人間だったということなのだろうか。
何となく、本当に何の根拠もなく何となく、今日は運転席で機嫌よく明るく鼻歌を歌いながら運転している母親の背中が、とても大きくたくましく見えた。
姉は多分お嫁に行くだろうな。偉そうに説教ばっかりの姉だけど、妹から見てもべっぴんさんだ。古風な姉は弓道の世界に邁進中。男勝りで礼儀にうるさくて、でも、きっとお嫁に行っちゃうんだろうな、私を置いて。
そうすると、我が家は母と私、二人ぼっち。年老いていく母に、私はいつまでお世話になっていられるんだろう。泉君と何となく似ている境遇だけど、決定的に違うこと、それが、自分で歩けるか否か、だ。母の実家の人たちも優しい。たらい回しになんかされないと思うしそう信じたい。でも、車椅子は誰かに押してもらわないと私は何もすることが出来ない。しかも左手の力はそのままだが、右手の方は微妙だ。
きっと、この母親の性格からすれば、自分の足がちぎれても熱があっても何があっても私の世話はやり遂げようとするだろう。目の前の母親の綺麗な後ろ姿が滲んで見えた。
授業中、今日はいつにも増して全然集中できなかった。先生にばれないように教科書の方角に正確に視線をやりつつ寝るのが得意な私も、今日は全然寝られなかった。かと言って、授業も参加だけしている状態。窓際の自分の机の周りの空気だけが霞んでいる。
昼休みが待ち遠しい、ただ、それだけを思う午前中。いつもなら怖いと思う城島先生のいる体育教官室に早く行きたいと、それだけを思う午前中。
男の勘の方がグレイトなんだよ、か。泉君ったら偉そうに。ふふ。
待望の昼休みになった。
「綾香ぁ、ごめん。あのさ、体育教官室に連れて行って欲しいんだけど」
「あら、何で又あんなところに」
「うん、ちょっと」
「呼ばれたの? ジョーに。又」
「ううん、違うの。ちょっと聞きたいことがあるのよ。そんだけ」
「聞きたいことって?」
「うん、ちょっと」
「サチ、ひょっとしてさ、泉君のこと?」
「・・・」
悪友を兼任する親友の綾香には、目の前の少女が今何を考えているのかが手に取るように分かった。
「分かったよ、でも、私は入らないよ、中に」
「うん。ごめんね」
「はぁい、分かりましたよお嬢様」
天高く空気も澄んでて爽やかな風を感じられる長い渡り廊下を、昨日と同じ渡り廊下を押してもらって教官室に向かった。途中で迎えたいつもの腰に響くガッタンタイムも、今思えば、逆に爽やかな思い出を蘇らせてくれるとまで感じていた。
「サチぃ」
背後から綾香が問い掛けてきた。
「なぁに」
「あのさ、ひょっとしてさ。泉君のことをさ」
「何よ」
「あのさ、好きなんでしょ」
困ったな、何て答えよう、でも嘘は嫌いだしなあ。彼のことを好きとまでは言えなくても決して嫌いではなくなっている。
「知らない」
「あはは、知らないの?」
どうやら私は、周りのすべての人に知り尽くされているっぽいな。そんなに分かり易い単純な女の子なのかな、私。
「でも、お似合いかもね。いいじゃん、地域最強の不良の彼女が地域最上の車椅子の美女なんてさ、絵になるやん」
「馬鹿、やめてよ」
「はぁい、地域最上の馬っ鹿でぇす」
勝てないなぁ、綾香には。こいつが今後を背負って立つバスケ部が心配だ。
教官室の前に来た。
「私がノックしてあげるよ」
「ごめん。お願い」
何回来ても慣れないなあ、この雰囲気。教官室の扉だけが職員室とは違う分厚さと威厳と、そして立ち入りを拒むような威圧感を漂わせている。
ただでさえ怖い先生ばっかり揃えているんだから、逆に入口くらいはドラエモンの絵を描いて迎えてくれるくらいの優しさと配慮が欲しいものだ。
「二年二組、山崎と立花です。失礼します」
「おうっ、入れっ」
もっと普通に言ってくれよなぁ、ジョーさんよぉ。
先生の表情は気持ち悪いくらいに明るかった。そして、こう言った。
「来るんちゃうかと思うとった」
「え?」
「泉のことだろ、聞きたいのは。山崎、お前もそうか」
「え、いえ、私は別に」
「まあいい、バスケつながりでお前も入れ」
昨日と同じ。違ったのは先生の方から椅子を二脚出してくれたこと。
見透かされているみたいな気分だった。城島先生みたいに教師一筋三十年にもなると、目の前の子供が何を考えているのかくらいは分かるようになるものなのかなあ。
「お前ら飯は?」
「まだです」
「しゃあねーな、これ食え」
そう言って先生が私と綾香の前に出してくれたのが、サンドイッチ二つ、アップルジュース二つ、そしてストロベリー味のドーナツが二つ。どう考えても鬼の食料ではない。逆にこんなアリスの国の食べ物みたいなものを食べているジョーを想像するだけで吐きそうになる、とは言い過ぎか(ゴメン)
「あはは、先生こんなん食べんねやぁ」
「ちょっと綾香っ」
鬼の目にも涙、ならぬ恥じらい。
「やかぁしい。さっさと食え」
そう言って顔を真っ赤にして私たちを怒鳴りながらコーヒーカップに口を近づけた。
そして、何となく何気に目をやった机の上に一通の封書を見つけた。
「退職願」―そう書かれた封書。
綾香は絵に描いたような満面の笑みで美味しそうに早速ドーナツに噛り付いている。
「先生、あの。それ」
「これか。見ての通りだ」
「え、何々、何?」
「机の上の」
「あっ」
隠そうとした形跡がなく堂々と置かれていた。そして、体育教官室には四人の強面の先生がいるはずなんだが、ジョーしかいない。しかも、この私たちへの昼食も最初から計画通りに用意されていたとしか思えない。きっと、奥さんにでも聞いて、今どきの女子高生が一体何を好んで食べているのか調べてでも買ってきたんだろう。
「あの、何で、そんな」
「まあな」
「まあなって、そんな」
「隠し事は嫌いだと言い続けてきたもんなあ、俺。今日はこの時間からこの部屋は俺しかいないしな、正直に話すよ、お前らには」
「ほかの先生たちは?」
「緊急の職員会議。グレイトなこった」
「え、先生は?」
「用無し」
「何で?」
「議題が俺と、もう一人のことだしな」
私にはすぐに分かった。もう一人って、きっと泉君だ。そして、今朝母親と話していた内容が鮮明に頭の中に蘇る。
「あの先生、その子のことを助けてるんじゃない。でなきゃ普通ならとっくに退学よ、学校」
自分勝手な判断をして、勝手に手が震えた。
「先生、もう一人って」
「泉だ。分かったみたいだな立花」
先日見た夢が一気に襲いかかってきた。大人に囲まれて泣いている少年と、助けてやって欲しいと身を楯にして泣きながら守ろうとしている大人。そこだけに降っている雨。
私はもう泣いてしまっていた。さすがの綾香もドーナツを握り締めたままフリーズしている。二人とも、目の前の心優しき先生から目が離せないでいた。
「先月のな、事件の件だよ」
先月の事件、この学校の生徒がクラブ帰りにカツアゲされて、殴られてお金と携帯電話を取られたこと。新聞にも載った。
当然のようにそれを知った泉君が相手の無職の少年グループを血祭りにあげたこと。そして、携帯もお金も取り返してきたこと。
「でも、それって相手が悪いんじゃ・・・」
「そうはいかんよ、法治国家としては」
「大きな問題になったんですか?」
その質問の際、一瞬、ジョーの眉間にしわが寄って険しい表情になった。
「不良グループの一人がな、警察に訴えたらしいんだ。今回のは裁判になる」
「そんな、でも、それっておかしいと思います絶対っ」
珍しく綾香も声を荒げている。最初に犯罪を犯しておいて自分に都合が悪くなったら警察に訴える。その不良なんかより、その親の顔が見てみたいものだと思う。
「まあ、熱くなるな。飯食いながら聞け」
冷静を装おうとしている、ジョーは。きっと、腹の中は私たちと同じ気持ちなんだろうな。自信がある。
「昨日な、来たろ、あいつ」
「はい」
「噂を聞いたらしいんだ、俺のこと。これ」
そう言って退職願の封筒を指差した。
「今回の件は問題が大きくなり過ぎてな、学校としてはかばい切れないと判断したみたいだ。学校の立場としては当然だ」
「当然って、そんな先生。最初に犯罪を犯したのは相手の方でしょ?」
「犯罪行為をされたから犯罪行為でやり返していいという訳にはいかん。特にあいつの場合、リストにも載っとるからな、警察の」
今回は相手が数名の高校生ではなく無職の十数人の不良グループ。こっちはいつもの如く一人。数が数だけにあいつもいつにも増してやり過ぎたんだろう、と言ってジョーがコーヒーカップを机に置いた。
時間が悪戯っぽく過ぎていく。アップルジュースはストローさえも差してもらえていないで寂しそうな表情のままここにいる。
「俺もこの件では熱くなってな、教頭とかなり議論したんだ。あとから聞いたら一触即発の状態だったとよ、俺の顔。当然こんなこたぁ耳に入るさ。当事者だからな、泉。学校も色々と話を聞いたりするしな。それで来たんだろう、昨日。俺を止めに」
「じゃ、私たちのせいで、昨日」
「多分、そうだろう」
今頃、職員会議はどんな内容の話になっているんだろう。気になって仕方がなかった。
「昨夜、あれ十一時過ぎかな、電話があってな、泉から。ちょっと話したんよ」
「泉君、何て?」
「お母さんが死ぬ前日にも病院に行っていたらしいんだが、そこで母親に言われた言葉が心に響いて残っているらしいんだよ。その日はもう車椅子に座らせてやることも出来ない状態だったそうだ。そこでな、お母さんはこの先もずっとあんたのこと見てる。だから、辛いことがあっても男の子は絶対泣いちゃダメだって言われたそうだ。そして、正しいと思ったことはやり抜いて、強く優しく生きなさい、とな。分かってたんだろうな、お母さんは。もう長くないってこと」
素晴らしい人生哲学を持ったお母さんだったんだな、と感じる。私みたいな未成年が言っても説得力に欠けるが、多分、人として正しいと思う。
「お母さんには絶対泣くなって言われたんだけど、って言いながら泣いてたな、あいつ。俺のことを馬鹿だって言いながら泣くんだよ、あいつ。恰好つけて先生してんじゃねーよだってさ、あの野郎、偉そうに馬鹿が」
このままなら退学処分はほぼ間違いないらしい。城島先生が心配していたのは、その後の彼のことは放っておくのか、それが人として教育者として正しいのか、と言うことだった。それでバトルを繰り広げたらしい。その結果が退職願の持参となっていた。
特に、相手は告訴の動きを見せている。彼の家庭環境を考えてあげるなら、ここで放り出すのはあまりにも残酷だと、自分のクビを掛けて最後のチャンスをやって欲しいと懇願したそうだ。次に何か一つでも問題を起こしたら、全責任は俺が持つ、とまで言い切ったそうだ。
「大馬鹿野郎だよ、あいつは、本当に。可愛くてしょうがないほどの大馬鹿野郎だ。こんな状態になっていても俺のこと心配しとんねや、あいつ」
男の勘の方がグレイトなんだよ、だ。きっと、泉君も覚悟を決めて先生と話そうとして来たんだ、学校。先生同士のバトル、その対象が自分であることと、一人の熱血教師が自分のせいで職を失う羽目になることを阻止するつもりで来たんだ。
男っていいなぁ。何となく恰好いい。
「今のところ本気で心配してくれているのはお前らだけだな。で、一体どっちを心配してくれてるんだ?」
「そんな」
「まず涙を拭け。山崎は手ぇ拭け」
綾香の手には握り潰されてべとべとのドーナツがほどよい光景を作り出したまま居座っている。ジョーの笑顔が眩しかった。
「先生、この後・・・」
涙は拭けても泣き声は収まらない。乙女二人の心の琴線に触れる出来事だ。
「会議の途中で呼ばれることになっとる。やるだけやってみるさ。どうなるかは分からんから偉そうには言えんが任せとけ」
ジョー先生のことを今まで勘違いしていたのかも知れない。ただ、怖いだけのすぐに怒るバスケ馬鹿としか思っていなかったことを心より詫びたいと思った。そして、こんなにも頼もしく感じられる先生が目の前にいることを誇りに思った。
「お前らの涙、本当に綺麗だ。それでいい、それで。誰かのために泣いてやれる人間っていい。これからもそうしろ」
返事は心の中でした。何もかも先生は分かっているっぽい。任せるしかないが自分たちも何か出来ないか、そんな風にぼんやりと思った。
特に今日は金曜日。明日と明後日が休みになってしまう。何がどうなったのかも知らないまま悶々と過ごすという離れ業は、二人にはとてもじゃないが出来そうになかった。このままでは月曜日までに、胃に四つは穴が開きそうで辛かった。
教官室から教室に戻るとき、ジョーがこう言った。
「泉ってな、髪黒くしてジーパンでもはいて街歩いたら結構なイケメン野郎だぞ、立花。背ぇ高いし、面倒見もいいし優しいしな、はっははは」
変な言われ方。やっぱり嫌いじゃ、ジョーなんか。何日も洗っていない汚れた足のまま可憐な少女の心の中に入ってきやがった、そんな感じ。ふんっ。
でも、何て形容したらいいのかな。泉君のこと、誰かが守ってあげないとどんどん歯車を狂わせてしまうような気がする。好きとか嫌いとかじゃない。守ってあげたい対象なのかも知れない。一人ぼっちの一匹狼君。
朝、母から言われた言葉を私は思い出していた。
「助けてあげたいなって思ってるでしょ?」
助けてあげたい、か。私よりも格段に背も高くて喧嘩ばっかりしている不良のことを。
じゃあ、嫌い?
「嫌いじゃないかなあ」
一緒に熱くなった悪友に車椅子を押してもらいながら呟いた。
「綾香」
「うん」
「私なんかじゃ助けてなんかあげられないのかなぁ」
「そんなことないと思う。助ける方法を考えればいいと思うよ。多分ね、サチ。さっき帰り際にジョーが言ってたことさ、あれってサチに言ったんだよ。ジョーとしては守ってやって欲しいって思ってるんじゃないの、泉君のことをサチに」
「守るったって」
「好きなんでしょ」
「嫌いじゃないケド」
「好きなんでしょ、サチ」
ジョーと結託しているかのような綾香の尋問には返事も躊躇してしまう。かと言って、確かに嫌いではないとしか言いようもない。
車椅子の私が守ってもらうことはあったとしても私になんか守ってあげられない。
でも、気にはなる。嫌いじゃない。これってやっぱり好きなのかな。
「綾香、泉君って可哀想よね。一人ぼっちって辛いよ絶対」
「泉君がどう思うかはしらないけどさ、傍にいてあげるって言うのも助けてあげてることになるんちゃうの」
「傍に?」
「うん」
「私が?」
「喧嘩しそうになったらあんたが引っ叩いて止めてあげたらいいじゃん。サチがさ、泉君のおかんを兼任してやったらいいじゃん。保護者を兼任したカップルでいいじゃん。逆にサチは世の悪人どもから守ってもらえるんだしさ、すんげぇ強い味方よぉ」
いつの間にか勝手にカップルにさせられてる。このままいくと、数日経ったらウエディングベルを鳴らされてしまいそうだ。
でも、何で立花なんて名指しで私にあんなこと言ったのかな、ジョーは。ま、言われてみれば彼は確かにイケメンではある。でも、先生のくせして可憐な乙女の心も無視したあんな言い方ってないよなあ。
イケメン、でも不良。
家庭環境複雑そう。でも優しい。
背も高い。でも、煙草臭い。
そして、確かに世の悪人どもからは守ってもらえそうだ。田舎の悪路に旅行に行っても彼ならガッタンさせずに車椅子を押してくれそうだ。
逆に喧嘩しそうになったら引っ叩いてやりゃいいんだ。彼のほっぺたを引っ叩くなんて、普通の人がやったら明日はない。でも、私なら、私が彼のことを本当に思っての行動なら、泉君は私の言うことを聞いてくれるかも。人生の歯車をこれ以上狂わせないようにしてあげる私流の優しさを発揮してあげられるかも。
十七歳の心に芽生えたスイートな感覚。はっきりとした目標に出会えたような、そんな気分に浸っていた。
人って面白いと思う。その時々で考え方が変わっていくものなんだなって。
今週という一週間が終わろうとしている今、この時に、先週末というものを思い出してみる。果たして、自分の頭の片隅にでも泉という名前があっただろうか。ガッタンという大事件が起こらなければ、今週は一体どんな週になっていたのだろう。
ただ、単に不思議だなって思った。先週と今週。たった数日の違いだけで、人間関係が絡まった釣り糸のようになっている。
ただ、悶々と越えなければならない四十八時間という長い時間が目の前に迫っているように感じられる。
穏やかな日曜日の朝を迎えていた時、家の電話のベルが鳴った。まだ半分、寝惚けた頭に母親の呼ぶ声が突き刺さる。
「サチ、電話」
「だぁれ」
「何時だと思ってるのよ全く。早く出なさい」
「だから、だぁれ」
「城島先生」
「えっ」
下手な目覚まし時計なんかよりも格段に効果がある。
「大きな日になりそうね、サチ」
「えっ」
キツネにつままれた、みたいな変な感じ。
「あ、お早う御座居ます」
「ごめんな、日曜のゆっくりしている時に。とは言えもう十時だぞ、寝過ぎだバカモン」
「すみません、でも、起きてはいたんです」
「はいはい、さよか。まあいい。あのな立花。今日午後から学校来れるか」
「今日ですか。何かあったんですか」
「来れば分かる。この前の話の続きの実践授業だ。もちろん、無理にとは言わんのだが、お前と山崎は乗り掛かった船だろうしな、どうだ」
この前の話。泉君の今後の件。城嶋先生の退職願の件。
「行きます。お母さんに送ってもらいます」
「悪いな。お母さんには話してあるから一時半に校長室まで。じゃあな」
「あ、先生。校長室って」
電話は切れた。それも体育教官室ではなく校長室って。
お母さんには話してあるって、一体何をだろう。逆に怖くて聞くこともできない。
綾香にも連絡は行っているのかな。ひょっとして。
急いでカバンから携帯を取り出す。メールの着信が三件。その一件目、綾香からのメールが来ていた。
―あーやんです。サチ、起きたかな? まだ寝ている、に千円だぁ。あはは。後でジョーから電話があると思うけど、校長室の前で待ち合わせね。じゃあね。サヨサヨ―
着信は午前九時。確かに寝過ぎだ、私。急いで電話を、と思って、止めた。何となく電話をすることが、このことで誰かと話をすることが怖かった。いつもの綾香のメールと違い、絵文字が一つも使われていない文面というものも妙に引っかかる。
それでも緊急を要し、その重大性を感じさせるには十分なメールだった。
ええい、どいつもこいつも皆が奥歯に物の挟まったような言い方しゃーがる。筋道立てて結論から喋りやがれってんでぇ。
ただ、そうは思ってみても今、誰かに問い掛ける勇気は微塵もない。
「校長室かあ。結論の場やんかぁ。教官室に行くのも怖いのに何でいきなり校長室なんよ」
日曜日にわざわざ呼び出される。その場所が校長室。でも、ジョーの電話口で聞こえた声は決して暗くはなかったなあ。
お母さんにも言ってあるって、何を言ってあるんだろう。大きな日になりそうねって、一体な何が大きくなるって言うのかな。
「お母さん。先生何て」
「あんたに助けてもらいたいことがあるんだって。良い先生ね、あの人。本心で本気で物事にかかって行くのね」
「助けてもらいたいこと?」
「そう、あんたの力が必要なんだって。あ、それからね、これ美紀から。あんたに渡してって置いてったわよ。今日、試合みたい」
「お姉ちゃん? あら、珍しい」
「心配してたわよ、美紀も。そんで頑張れってさ」
「頑張れって、何を」
「さぁ~ねぇ、何かしらねぇ」
「意地悪っ」
「どうするの、サチ。行くの?」
「うん、行きたい。行ってあげたい」
「お母さん、ちょっとだけお買い物に行ってくるわ。そのあとでお昼ご飯食べてから送ってあげるわね」
「うん、ごめんね」
一番身近な妹に対しての置き手紙なのに、表書きは墨書きで大きく威圧感さえ漂わせた太い字で(サチへ)と書かれてる。
「お姉ちゃんらしい。言われてみるとお姉ちゃんも何事に対しても一生懸命だなあ」
半分感動しながらリビングに向かった。手紙は膝の上に。左手で手摺を操作しながら。
母親に入れてもらった紅茶を飲みクッキーを頬張りながら手紙を開けてみた。
【サチ、おはよう。お母さんに聞きました。誰かを助けるって、とても大切なこと。誰かのために一生懸命になるってとても大切なこと。選ばれた人間にしか与えられない経験だからね。悪くとっては駄目だけど、情けは人のためならずの精神で頑張れ。美紀】
たまには説教ではないアドバイスもくれるんだな、姉も。とは言え初めてとも言える貴重な手紙だ。私にとっては宝物になる。その中の一節、情けは人のためならず、が、特に心の奥底に響いていた。
「サチぃ、じゃあ買い物に行ってくるね」
「うん、あ、ねぇ、お母さん」
「何」
「先生と何話したん」
「現在の世界情勢」
「もう、何よ。何を話したのか教えてよ」
「先生ね、嬉しかったみたいよ。泉って言う男の子の件で真剣に彼のことを考えてくれる人間がこれで三人になったって。一人の人間のために泣いてくれる生徒がいることを誇りに思いたいって。だからその子が有名な不良でも心の問題とは別だっていうことを一緒に考えたいんだって、先生。これも職業病ですわぁって言って笑ってたわ。ふふ、良い先生ね、サチ」
「うん」
「じゃあ買い物に行くけど、何かいる?」
「ううん、何も」
買い物に出かけていく母親の後姿を見ながら一人の人間として思う。今回の件については、自分自身を褒めてあげたいなって。
特に、言い方は変だけど泉君に助けてもらった人間がこの学校には何人もいるのに、彼のことを助けたいと行動を起こす人間は三人しかいないという悲しい現実。別に頼んだ訳じゃないと言われてしまえばそれまでだけど、人として、同じ学校に通う仲間としてそれはあまりにも寂しい。
彼は体を張って悪漢と戦って携帯電話やお金を取り返してきてくれたと言うのにな。
三人か、でも、心強い三人かも。退職願まで準備して彼を助けようと動いてくれている城島先生と、綾香と、そして私。三銃士ならぬ、乙女と鬼の不良少年保護活動。
晩秋の色濃く漂う日曜日。大きな日になりそうね、と言っていた母の、なぜか爽やかで奇麗な顔が目に焼き付いて離れない。住み慣れた我が家と通い慣れた学校を同じ空気が支配している。決して嫌味ではない空気。
昼食を軽く取った後、母親に車で送ってもらった学校は、いつもと同じ雰囲気のまま私たちの到着を待っていた。
「お母さん、ありがとう」
「終わったら電話しなさい。迎えに来てあげるから」
「うん」
母親に玄関まで車椅子を押してもらいながら、ほんのちょっとの親子の会話。
遠くに渡り廊下が見える。あの、ガッタンを経験した体育教官室への一本道だ。その逆に行くと第一職員室、第二職員室と並び、一番奥に校長室がある。多分、そこに映っている一人の影が、綾香だな。もう来ていたんだな、綾香。早いなあ。
もうじきインターハイだから日曜日も何もなく練習だもんな。
そんなことを考えながら押されていた時、母が言った。
「サチ」
いつもと違う、張りのあるはっきりとしたきつい口調に聞こえた。
「何。どうしたのお母さん」
「あのね、サチ。人を助けるということの本質をしっかりと意識しなさいね。中途半端な優しさや行動は、時として逆に人を傷つけるのよ。いいわね」
「お母さん」
こんな厳しい口調の母親の声を背後に聞いた経験がなかった。
職場では鬼のチーフと呼ばれているらしい営業の猛者でもある母親だ。
保険の営業ではその人のことを本当に考え、何をしてあげるべきかで商品を選択する。生半可な営業は決して実を結ばないのよと、苦労話の一つとしてよく聞かされた。
「自分の気持ちに正直になりなさい」
「うん」
私も将来、こんなに強く逞しく、そして優しい母親になりたいな。頼られるような大人になりたいな。
そして最後にこう言われた。
「何事も一生懸命が一番奇麗よ。そのことが今後のサチの生き方にも関わってくるはずよ、きっと。必死で助けてあげなさい。助けられないからなんて言って途中で投げ出したりしたら家入れないわよ」
そう言って、母は子供みたいに無邪気に笑った。いつもの母親に戻った。
綾香が迎えに来てくれた。バスケのジャージ姿のままだけど、これが又悔しいくらいによく似合うのよね、綾香は。
「こんちゃあ、代わりまぁす」
「いつも有り難うね、綾香ちゃん」
車椅子の押し手が変わって、いよいよ敵陣に斬り込んでいく、と言うほど大袈裟なものではなくても、それに近いような武者奮いは感じていた。
城島先生はどこかな。もう校長室なのかな。泉君も来てるのかな。どこかな。私たちが呼ばれた本質の理由って何なんだろう。
早くも頭の中は、羊の数よりも多い?マークが乱立していた。
「綾香、クラブの途中なん」
「うん、朝から出とってん」
「ジョーから何て電話があったん?」
「何も。とにかくサチと一緒に来いって。そんでちょっとだけ手を貸してくれって、そんだけ。訳分からへんかった」
「ふぅん」
廊下を渡ってくる風が本当に心地よい。首元を抜けていく風がセピア色に染まって、反対側から抜けて出ていく。
綾香の耳にいつものピアスがない。指輪もない。お色気お洒落の必需品がすべて取り払われた派手好きの綾香がここにいる。
その服装だけで今向かっているのが校長室だという雰囲気を、嫌というほど醸し出している。
体育教官室とはまた異質の、別格の雰囲気が漂う校長室。滅多なことでは、というよりも初めての経験に近い校長室への行脚。緊張で胸が高鳴ってくるのがわかる。
「きっついなぁ、これ」
「うん。あまり経験したいとは思わないね」
「賛成」
静かな時を携えて部屋の真ん前に来た。
「校長室の前って言ってたよね、ジョー」
「うん。来たら入って来いとは聞いてない」
「どうする?」
「どうしよ」
ただ、単純に怖かった。でも、ただでさえ静かなこの場所には、アリのくしゃみさえも聞こえるほどの静寂が存在している。聞くつもりはなくても、校長室の中の会話、いや白熱したバトル的議論は嫌でも自分と綾香の耳に届いてくる。
「やだ、始まってるやん」
「どうしよ、綾香。ねえ、どうしよ」
「どうしよったって」
ひそひそ話に花が咲く。砂漠の真ん中に立てられた二本のヤジロベーみたいな状態。
「校長先生のやんなあ、今の声」
「うん」
「泉君の声せえへんな」
「来てんのかな」
「来てへんのちゃう。来てたら一緒にバトってるよ、きっと」
「バトってるって、何よ」
「五段活用よ、バトルの。しかも連用形」
「冗談言ってる場合じゃないよ、どうしよ」
「やぁん、どうしよ」
根性無しのヤジロベーが二人、成す術もなく半泣きの状態で立ち竦んでいる、ここは校長室の前。
「もういいよ先生」
校長室の中から泉の声が聞こえてきた。
「あ、泉君の声」
「うん、聞こえた。もう入ってんねや」
益々磨きのかかったひそひそ声で会話しながら、益々パラボラアンテナのように聞く耳に磨きをかける。
「よくはないんだ馬鹿。簡単に人生を諦めるんじゃない」
「自分のやったことは分かってるよ」
「分かってるなら黙ってろ」
聞こえてくる内容は、泉君の方が折れている感じだった。三銃士ならぬ一人の騎士が孤軍奮闘頑張っている、そんな感じ。
「校長、呼んでもよろしいですか」
「構わん。呼びなさい」
スーッと校長室の扉が開いた。
「居るのなら居るでノックくらいして入って来んか馬鹿」
これ以上ビビる体験は、恐らくないだろうという自信がある。扉の奥から顔を出した城島先生の表情は厳しいものがあった。でも、不思議と安心感をも漂わせている。
「あ、はい。済みません」
「はい、失礼します」
二人とも揃って室内に通された。歴代の校長の肖像画が見守る中、私たちは緊張したままの入室を許された。
泉君もいた。いつもの学ラン、太いズボンにキンキンの茶髪。百九十㎝を超えている身長の泉君が、なぜか校長室の雰囲気に意外なほどマッチしている。一番そぐわないはずの茶髪の番長が、一番、この部屋の主に似合う存在感を放出しながら立っていた。
テーブルの上に退職願が置かれている。先週末に見たやつだ。
沈痛な面持ちで校長先生が椅子に座っている。城島先生も、今日は珍しくスーツ姿だ。だからこそ、逆に事の大きさというものを嫌というほど実感させられる。
「君たちかね、泉君を救いたいというのは」
唐突過ぎて言葉が出ない。はい、と言えばいいのに緊張と恐怖の方が勝っている。
「彼がしたことの意味を理解し、犯した罪と社会に与えた影響を理解し、本学の栄誉と歴史に多大なる傷を付けたことについても理解した上で、ここに来たのかね」
厳しい言葉だ。言い返せない。
「校長」
咄嗟の出来事だった。唖然とする私たちの目前で、城島先生が校長先生の座る机の前にまるで崩れ落ちるかのように土下座をした。
「あっ」
私の口からやっと発せられた言葉は、驚愕、驚嘆におののいた一言だけだった。
綾香にとっても同じことだった。そして、当事者の泉康平にとっても、それは見たことのない、いや、見てはいけないのかも知れない光景だった。
私は、男の人が、大の大人がヒトサマの前で土下座をする姿を初めて見た。つい先ほど聞いた、何事も中途半端はいけないと言っていた母親の言葉が思い出される。
校長先生は全く動じず、机上に両肘をつき顎を支えたまま城島先生に視線を落としている。諌めようともせず、そして、止めようともせず。
「私が書いたこんな紙切れ一枚で、こいつの犯した罪が消えるとは思っていません。単純に相手を見、卑下しての助け船でも御座いません。こいつの家庭環境が云々でもないんです。ただ、人間としての根底部分まで腐りきった男ではないということだけは分かってあげて欲しいんです。人としての優しさとか、今時の若者らしからぬ正しさとか、そこだけでも救いの道標にしてやって頂けませんか」
凄い迫力だった。残りの三人は、何も言えずに立ち竦むことしか許されていない。
「先生、だからもういいよ。俺、いいよ」
「よかぁないんだ、泉。よかぁないんだよ」
校長先生の目線が泉に移動する。
「お前が仲間のことも考えないただの喧嘩好きな悪人でって言うなら誰も助けたりはしない。違うだろ、泉。違うんだろうが」
私も綾香も圧倒されていた。でも、そんな中、中途半端な人助けは逆に人を傷つけると言っていた母親の顔が思い浮かんだ。何となく、自分でも分からないまま、妙な勇気がわいてきたのが分かる。
校長先生の視線が泉君の目に注がれているのが分かる。多分、何かを待っている。
「いいんだよ、もう。俺は悪いことしたんだから退学でいいじゃねーか、退学で。男が土下座なんかするんじゃねーよ」
半分自棄になっているような口調だ。
「泉君、車椅子引っ張ってくれる?」
その時私は行動に出た。優しい、友人の綾香でさえ今まで見たこともないような優しい顔で、泉少年に諭すように言った。
無言のまま、私の横に立っていた泉康平は、少々怪訝そうにしゃがみこんで前から車椅子を引っ張ろうとした。
(パァン)
私の、あまり力の入らない右手が、泉の左頬を叩いた。悪名高き不良の左頬を思い切り叩いた。渾身の力を込めて。
土下座をしたまま城島先生が振り向いた。でも、その顔は満足気に微笑んでいる。
綾香はあまりに咄嗟の出来事に口をあけたまま直立不動で立ち続けている。
そして、泉康平もしゃがんだままの姿勢でフリーズしている。何が起こったのか分からない様子だ。
「校長」
ジョーがそっと顔を上げ訴えかけるように言った。
「分かった。もうよい」
校長先生のこの言葉で、今、起こっている状況にやっと理解ができた。
「詰めるとするかね城島君。二人で」
「はっ、分かりました。山崎、そろそろクラブに戻るか。今日は居残りの練習はなしにしてやってくれ。泉、立花と二人、ちょっと席を外せ。そして三十分後にもう一度ここに来なさい」
優しい顔と優しい言葉だった。綾香も何が起こり、この後どうなっていくのかの推察ができた様子だった。
「はい、有り難う御座います先生。クラブに戻ります」
「頼む。すまんな」
綾香は私の目を見、にっこりと微笑むと静かに戸をあけ退出して行った。心の通じ合った友人っていいなあ。素直に感じていた。
私自身も何かをやり遂げた達成感を感じていた。大きな山場を越えつつある雰囲気を察していた。そんな中、まだ状況が掴み切れていない男が一人、ここにいる。
「泉、どうした、聞こえなかったのか。立花の車椅子を押してやれ。いいな」
「何で俺が・・・」
「いいから早く行け。三十分後にもう一度二人で戻って来るんだ、いいな」
男って、恰好いいけどドン臭いな。でも、こうやって見ると泉君って可愛い。さっき思わず引っ叩いちゃったけど反撃されなくて良かった。でも、この件で私、ちょっぴり強くなれたかも。万が一にでも反撃されていたら、今頃私は十万億土に旅立っている。
そっと 後ろに回って車椅子を押してくれた。そのまま戸をあけ、おじぎだけして退出した。その際のドアレールを跨ぐ際のガッタンもなく、滑るように室外に出る私たちを校長は目で追っていた。その時校長が何を感じてくれたのかが、今の私には分かる自信がある。校長が何を見ていたのかが分かる自信もある。
「城島君、こっちへ」
「はっ」
「コーヒー飲むかね」
「はいっ、頂きます校長」
校長室の前の廊下に爽やかな大人の会話が響き、それを聞きながら私たちは校舎裏の花壇に向かった。誰も行き先を指定したりしてないのに、彼は勝手に車椅子を押しながら花壇の方向に向かった。
校長室から見て裏側の花壇。その横に駐輪場がありフェンスの向こうは小高い丘になっている。その上にも運動場があり野球部が練習している風景がよく見えた。本当に気持ちの良い秋晴れのいい日だ。
「さっきはゴメン」
「オメーが女に生まれたことに感謝しろ」
「男だったら?」
「ぶっ飛ばしてる」
「痛かった?」
「笑わすな。痛くなんかねーよ馬鹿」
「泉君が悪いんだよ」
「何でだよ」
「嘘つくから」
「嘘?」
「うん。本当は学校辞めたくないくせに退学でいいよなんて」
「ふんっ、男の礼儀っちゅうやっちゃ」
「何よ偉そうに」
秋っていいな。人を大きく成長させるためには必要な季節なのかも。これから冬を迎えるために一生懸命身支度をして冬を越す努力をする。きっと、その後に訪れる春は素晴らしいものになるということを信じて。
「好い先生よねジョーって」
「恰好つけぇの角刈り野郎」
「怖い先生って思ってたけど優しいよね」
「お人好しの世話好き野郎」
「嫌い?」
「ふんっ、もう少しスーツが似合うようになったら好きになってやらぁ。大事な場らしく髭くらい剃って来いっちゅうねん」
「髭?」
「見たろ、ジョーの顔」
「はっきりとは見てないケド」
「普段着慣れないスーツなんか着て来っから髭剃り忘れたんだぜ、きっと。ドン臭ぇ」
「やっぱ好きなんだ、ジョーのこと」
「うるせー」
キンモクセイの匂いにはまだちょっと早い、でも抜けるように高く青い空が今の季節感を嫌というほど出している。
「ちっ」
車椅子の横にしゃがみ込んで何やらポケットを探っていた泉が舌打ちをした。
「何よ」
「るっせーな、いちいち。忘れもんしたんだよ」
「だから何よ」
「男の必須アイテム」
「櫛?」
「馬鹿、癒しのニコチンちゃんだよ」
「ここ学校よ」
「はは、学校じゃなきゃいいのかよ」
変な会話。でも、私としては、こんなに普通にスムーズに男の子と話をすることなんて今までなかったから、これはこれで嬉しい気分に浸っていられる。
「私も吸ってみようかな、タバコ」
「馬鹿、女が吸うんじゃねー、体に悪ぃ」
「あ、心配してくれてるんだ」
「そんなんじゃねー」
「あはは、アリガト」
でも、何なのかな。泉君と一緒にいると心が安らぐ。言葉遣いは荒っぽいのに全然威圧を感じないし逆に安心感を感じていられる。
私の右側にしゃがんでいる茶髪君。左手はそっと車椅子の右の肘当てに添えられている。そして、真っ白で先の尖がった左足の靴を車輪の前に挟み込ませている。車椅子がズレたり不安定になったりしないようにしてくれている。
私が幸せになるためにはこんな人が必要かも。そして、泉君が幸せになるためには私みたいな人間が必要かも。
自分勝手に今後の人生を考えて呟いた。
「リハビリ、又始めようかな」
「又って何やねん。やってなかったんかい」
「うん」
「何で」
「お母さんに送ってもらわないとあかんし、でもお母さん仕事もあるし。それに辛いし」
「おかんは怒らなかったのかよ」
「うん。自分の人生は自分で決めろって」
「馬鹿、リハビリだぞ。やってりゃ歩けるようになるんだろ立花」
「分かんない」
「分かんないって何だよ」
「かなり厳しい状況だって。前に先生に言われたから」
「じゃあ再開しろリハビリ」
「何で。急に」
「かなり厳しい、だろ、言われ方。じゃあ可能性は残ってるじゃねーかよ」
「言われ方?」
「ああ、何事も簡単に諦めんじゃねーよ」
「あはは、さっき自分が言われてた言葉」
「うるせー」
言葉、髭、ほんの些細な部分まで気がつくんだな、泉君って。
そう思うと、朝読んだ姉の置手紙が普通に思い出された。
(情けは人のためならず)
「退学にはならなくて済みそうかなぁ」
「知らん」
「そしたら多分私のおかげよね」
「何でだよ」
「私の心のこもった愛情表現の実行中、校長先生の顔色変わったもん。感謝しろよテメー」
「何言っとんじゃ、似合わねーよ馬鹿、普通に喋れ」
喧嘩チックな遣り取り。でも、お互いに何かは分からない、ほっと安心できるような空気の存在を感じていた。
私の心の中では、タンポポの花が咲き乱れている。散ることもなく、奇麗な小さな花がどんどん増えている。春の季節に外に咲くタンポポ。秋には選ばれし人の心の中に咲くタンポポ。
どれくらいの時間が過ぎただろう。三十分後にもう一度校長室まで来るように言われている。その間にどんな会話がなされているのかを想像しても仕方がない。でも、信頼という言葉を安心して持ちながら待てるこの日この時は貴重な体験だ。
城島先生に全てを託そう。例えそれがどんな結果だったとしても笑顔で受け入れようと思った・・・二人で。
そう思えた瞬間から自分の今後の人生を勝ちにいきたいと思った。
「泉君」
「ん~?」
間の抜けた返事が返ってきた。
「あのさ」
「何だよ」
「三十分経ったかな」
「まだちゃうか」
「うん」
会話が続かない。変な雰囲気。
遠くのグランドが見える。野球部の練習風景が見える。たくさんの白い野球帽が、まるで乱舞している蝶のように映る。
―ドンマイ ドンマイ―
大きな掛け声が、今は自分自身に発せられているようにさえ思える。
「泉君」
「あ?」
「彼女って、居るん?」
「いねーよ、そんなもん」
「ふぅん」
良かった、何となく安心。第一関門突破って感じ。
「でも好きな女の子とか居るんでしょ?」
「女の子とかって何だよ、とかって」
「うん、居るのかなあって」
「ふんっ、いねーよ、そんなもん」
「あら、何で?」
「いねーもんはいねーよ、何でも糞もあるか」
あはは、第二関門突破だ。頬がほんのりと赤く染まったみたい。
この先関門がいくつ続いているのかは分からないけど、今まで必要以上に控え目にして、自分の感情を抑えて大人しくして、でも少し卑屈に自分の人生を恨みながら生きてきた私にとっては、千載一遇のチャンスに違いなかった。
二人しかいない花壇の前で、思いの丈をぶつけてみたいと素直に思っていた。誰にも邪魔されず、誰にも遠慮せず本物の自分を見てもらいたいと思った。本物の自分の思いを聞いてもらいたかった。
好きとか嫌いとかではなくて、素直な気持ちの中で感じた期待と、そして希望。
自分の中で忘れていたものが蘇って来る力強い鼓動を感じる。
私だって年頃の女の子。お洒落もしたいし恋だって・・・したい。でも、今までの私は誰に対しても控え目で可愛くて従順な女の子でいなければならなかった。嫌われる訳にはいかなかった。どんなことがあっても。
誰かのおかげで移動ができて、そしてその度に有り難う、としか言えなかった私。心の中の悔しさとか寂しさとか、辛さや哀しさやもどかしさや不安や不満や痩せ我慢や自分に対する嘘を全てオブラートに包んで、そして何事もなかったように毎日を終えるしかなかった。
何回枕を濡らしても、朝になれば又、見事な女優に早変わりして一日を迎えなければならなかった。満面の笑みで挨拶しながらの日々を仮面の内側に隠した涙とともに送らなければならなかった。例えそれが大好きな母親の前であっても。そして、大親友の綾香の前であっても。
車椅子の上で学んできた処世術。それは遠慮と我慢という文字を礎とした生き方だったのかも知れない。
「嫌だよ、もう、こんなの」
思わず呟いた。
「自分に正直になりなさい」
母に言われた言葉が耳の奥にこだまする。母が言っていた大きな日の意味。それって自分のことでもあったのかも知れない。
「泉君」
「あ?」
「寂しくない? 一人で」
「慣れた」
「そんな」
「一人も慣れちまえば楽だぜ」
「哀しいよぉ」
「俺は孤高の狼っちゅうやっちゃ」
そう言いながらも泉の顔は心からの笑顔を見せてはいない。
「私は駄目だなあ、一人ぼっちって」
「あのな立花。いつも傍に誰かが居て、それが急に居なくなって急に一人ぼっちになっちまったのなら辛いし哀しいし寂しいだろうよ。多分な。でも、何て言っていいのか分からねぇけど、最初から一人ならそれが日常だしよ、それが普通なんだよ。人間なんて所詮そんなものなんじゃないのかって思うけどな」
「そんなものなのかなぁ」
「そんなもんだろうぜ」
「寂しくないの?」
「一人ぼっちのプロだからな俺。寂しいのかどうなのかも最近分からねぇ」
母性愛っていうものだろうか。私にとっては守ってあげたい対象として目の前の泉が目に映っている。
「あのさ、今二人で居ることも嫌なん?」
「嫌じゃねえよ。たまにはいいもんだ、色々喋るのもさ」
今日、初めて泉君が笑った。奇麗な顔、奇麗な澄んだ眼。そして寂しい生き方しか許されてこなかった独特の表情。
それが弾けて無邪気な童顔の少年に戻っている。きっと、お母さんがまだ生きていて一緒に住んでいた頃の彼は、こんな風にくちゃくちゃっと笑う笑顔の似合う男の子だったんだろうな。
彼の今後の生活の中に、こんな奇麗な笑顔を絶やさないようにしてあげたいな。
「泉君」
「ん?」
「彼女欲しいでしょ」
「何やねん急に」
「だって誰かが傍に居てくれたら毎日楽しいよ、きっと」
「そんなもんかね」
「うん、そんなもん」
「ははは、そんなもんか」
「うん、そんなもん」
幸せって感じるものなんだなって思う。形にできないけど自分が幸せだって感じられれば、それが一番の幸せなんだろうな。
「彼女になってあげよっか」
「はぁ、何のこっちゃ」
「私じゃ駄目?」
「馬鹿」
「私じゃ役不足?」
「ぬかせ」
「私じゃ足手纏い?」
「阿呆」
「何で?」
「あのな、俺は髪長ぇ女が好きなんだよ」
「伸ばすよ、私」
バスケ部は全員ショートカットが決まりだ。でも、マネージャーなら髪を伸ばしてもいいかも。いや、いいはずだ。
自分勝手に決まりを作って納得して泉君の顔を見た。彼もこっちを見上げてる。そしてお互いの目が合った。
「何のこっちゃ」
「駄目?」
「あのな、俺は大人しい女が好きなんだよ」
「大人しくするよ、私」
「ほざけ、あのな俺は」
「うっせー、彼女になってやるっつってんだよ」
「だから似合わねーんだよ馬鹿。普通に喋れ」
壊れた蛇口のように目から涙が溢れ出た。全てを曝け出して自分自身に正直な気持ちでの流れだった。気持ちの抑揚が効かなくなって声をあげて泣いた。
今までは泣きたくても我慢していた。声を殺した嗚咽をもらすことはあっても決して声を上げたりはしなかった。泣いてしまえば負けだと思っていたから。
安心できたのかも知れない。心の安らぎを感じ、自分というものに初めて正直になれたのかも知れない。
「立花・・・お前」
「幸せになりたいよ私。泉君だって幸せになりたいでしょ。寂しいでしょ一人なんて」
「立花」
「幸せになりたいよ。一緒に幸せになりたいよ。車椅子の女なんか嫌だって言うの?」
「誰もそんなことは」
「ううっ、辛いの嫌だもん。一人ぼっちなんて嫌だもん。もう自分に嘘ついて生きていくの嫌だもん」
天高く広がる青空に泣き声がこだまし吸い込まれていく。
「分かったよ、涙拭け馬鹿」
ゆっくりと立ち上がった泉は、そう言うとハンカチをポケットから取り出してそっと私の膝の上に置いた。そっと優しく私の両手の上にハンカチをその大きな手で覆いかぶせるように置いた。
私も泉の手の甲に左手を置き直した。大きくて温かい手だった。
「分かったよ。その代わり苦労しても知らんぜ」
「お互い様だもん」
一気に最終関門を問答無用で強行突破したような感じ。いざという時女は強い。
「ハンカチ、アリガト。洗って返すね」
「いいよ返さんでも」
「だって」
「いいからこの先ずっと持ってろ。無くすんじゃねーぞ」
「いいの?」
「ああ」
涙ってどこで作られるんだろうか。出ても出ても止まらない。今まで我慢してきた分まで一気に流れ出しているようにさえ思える。
「テメー俺の女になんならもう泣くな」
「うん」
「うんじゃねー」
「はい」
「おっしゃ」
満足そうな顔で深呼吸して、泉は左の手を私の肩にそっと置いた。
「泣くのは親が死んだ時だけでエエねん。それ以外は泣いたらあかんねや」
「はい。もう泣かないよ」
「約束だぜ」
「はい」
お互いが辛さを隠して生きてきたからこそ、言葉よりも心で感じるものが大きかった。私に対して泣くなと言った言葉も、裏を返せば彼なりの優しさだったのだろう。
「泉君も泣いたことあんの?」
「一回だけな」
「お母さんの時?」
「知っとんのか」
「うん」
「誰に」
「ジョー」
「ったく、何でもかんでも喋りやがる」
「辛かったでしょ」
「まあな、でも、もう泣かねえ。親も居ねーしな」
「何があっても?」
「ああ」
「本当に?」
「次に泣くとしたら・・・そうだな、多分、大事なもん無くした時だろうよ」
「大事なもんって」
「さあな」
「もう何よ。教えてよ」
「ショートカットの訳の分からねえ女」
「ああ、あの美人で優しいと評判の女の子のこと?」
「ふんっ、ブーっ」
「じゃ誰よ」
「偉そうに男の頬っぺたを叩いた馬鹿女」
「あはは、あの世界一の絶世の美女に数えられる女の子のこと?」
「分かったよ、もういいよ負けたよ。勝てねーよ、オメーにはよ」
歯切れのよいオータム・ラブの成立。でも、考えようによっては私って計算高い嫌な女かも。でも、流れの中でお互いが引かれていったのも事実。別に悪くなんかないやい。
運命なんて言葉、それまで大嫌いだった。運がいいとか悪いとか、それなら私はあまりにも悪過ぎだと思っていた。何で私だけがって正直思っていた。ちょっと前までは。
でも、この私に課せられた運命が、彼との出会いをプレゼントしてくれたのは確かなんだろうなって素直に思う。
ガラスの靴は履いていないけど、何と言うのかな、ギリギリのところでシンデレラになれたって感じだ。相手の王子様は正義感溢れるワルだけど、心の底からの優しさを持った男の子だ。私にはこの人しかいない、そう思うし彼にも同じように思ってもらえるように努力しようと思う。
そして、リハビリ・・・再開しよう。母親に今日の出来事の報告を兼ねた通院送迎のお願いをすることになる今日の夕食。何となく、母親も姉も喜んでくれそうな、そんな予感だ。
秋の風が二人を包んで、そして天高く昇って行った。
「ねえ、泉君」
「あ?」
「もう三十分経っちゃったかな」
城島先生、ゴメン。
そして、校長先生、ゴメンナサイ。もうちょっとだけ、本当にあとちょっとだけ、幸せな時間を続けさせてください。
「さあね、まだ五分くらいちゃうか」
「あはは、五分?」
「ああ、まだ二十五分も残っとる」
鼻の奥がツーンとしてくるような嬉しい返事。出会えて本当に良かった。
泉康平。そして立花佐智。同じ高校に通うバスケつながりの出来立てほやほやのカップル。結び付けてくれたキューピットは鬼と異名を持つバスケの顧問、角刈り頭のジョー。
教官室で言われた言葉を私はぼんやりと思い出していた。
「泉ってな、髪黒くしてジーパンでもはいて街歩いたら結構なイケメン野郎だぞ、立花。背ぇ高いし、面倒見もいいし優しいしな、はっははは」
不思議な思い。見透かされていたようなと言うと聞こえが悪いけど、ひょっとすると城島先生には分かっていたのかも知れないな。そして、もっとひょっすると、母親も今日という日がどういう結末を辿るかを見据えていたのかも知れない。
もうすぐ昼間と夕方の境になる。気のせいに決まっているけど、太陽がいつもよりとても赤くて大きく見える。ゆっくりと沈んでいきながら祝福してくれているみたいだ。
二人の見つめる先には小高い丘も山もない。何にも邪魔されずに沈みゆく太陽を見ていられる。
校長室、行かない訳にはいかないかな。でも行かないなら行かないで先生の方から迎えに来てもらえるような、そんな気もする。
私の右手の上にそっと置かれた彼の大きな左手が、そのことを証明してくれているような気分だ。
ただ、単純にこのままの時を過ごして居たいと思っていた。車椅子の私にプレゼントされた神様からの大きな宝物、それはガッタンの衝撃を生まれて初めて消し去ってくれたクラスメート。心の中にスーッと入ってきて、私の心の中に自然に勝手に憑依しやがったみたいな感じ(ゴメン)
私はこれからリハビリを頑張る。
彼はこれから学校生活を頑張る。
そして、一緒に卒業する。
そして、生れて初めて信頼できた運命という素晴らしい言葉に、私たちの今後の全てを託そうと思う。私たち二人の今後の全てを委ねようと思う。
太陽が、夕方を焦がしながら沈んでいく。
明日までの宿題を私たちに残したまま・・・。