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(五)英姫との出会い

「どっかに行くん?」

「質問になってねえよっ!」

 飲み屋街の冷たい風が吹きぬける道路に達也を待たせて、岳志はとあるビルの二階に駆け上がって行った。サラ金だった。

「よし、行こっ、達ちゃん」

「クレジットカードならあるけど」

「あるなら取っとけ。いいよ、調達した」

「な、どこへ行くん?」

「達ちゃん、カンゴク経験あるか?」

「禁固刑くらって教師もないだろ」

「カンゴクにはな、うんまい酒があるし、きれえな姐ちゃんもワンサカいるぞっ」

「おお、監獄にブチ込んでくれっ」

「だれがブタ箱に入るんだよっ。監獄ガアニラ、こりあイムニダ。サランヘヨのカンゴクだよっ」

「韓国か?」

「マジャヨ、ソンセンニム」

「本物の韓国語、それ?」

「韓国姐ちゃんはカンコクをカンゴクってハチュオンするんだ」

「宗旨を変えて、台湾から韓国へ進出か?」

「そんなところだ。挨拶を二つ三つ覚えるとな、香水プンプンの姐ちゃんたちが()り寄って来て、ウリマルチャラシネヨ(うちらのことばが上手いのね)ってくすぐってくれる。お世辞だけど悪い気はしねえ。あ、踊るときは足を半歩チマ(スカート)に突っ込んで(すそ)を踏まねえようにな。ん? 俺たちゃチーク専門だから心配ねえか、あっはっは」

 岳志は韓国クラブ〈無窮花(ムグンフア)〉のどっしりと重たそうなドアを開けた。暗い店内にまばらに点る灯りの下を女たちが行き来するたびに、色とりどりのチマが大輪の花のようにパッと咲き出る。幻想的な空間だ。

 年の頃六十といった韓服の女性が出迎えた。

「オモ、畑中ソンセンニム。オソオセヨ。オレガンマニエヨ。オットケチネショッソヨ(まあ、畑中先生、いらっしゃい。お久し振りねえ。どうなさってたの)?」

「オットケもほっとけもねえな。オモニ、トワッソヨ(母ちゃん、また来たよ)だ。イブヌンネチング(こっちは吾輩の友人)勝又達也シ。ヨンオソンセン(英語の先生)イェヨ」

 ……岳さん、こんな芸があったのか。ふうん、韓国語が出来るんだ……。

「ようっ、ヨンヒちゃん!」

 岳志の声が聞こえなかったのか、娘は無視した様子ではなく、無反応だった。風ようにスッと岳志の前を通り過ぎて、達也の前でピタリと止まった。一瞬だったと言えばウソになる。英姫と達也は二十秒ほども見つめ合って、まばたき一つしなかった。それも二人の意志で見つめ合っているというより、何か二人の背後か頭上かに一つの意志が働いて、一組の男女が向き合わされたといった妙な感じだった。

〈何なんだ、これは?〉声には出さず、おどけてママに首をひねって見せた。ママも肩をすぼめて、〈どうなってるのでしょうね?〉と無言で岳志に応えた。

 声をたてるのも割り込むのも(はばか)られる空気だった。

 初めて出会った男女はお互いの瞳の奥に、どれだけ自分たちの未来を読み取るものなのだろう。

 達也はやっと半歩退いて「はあっ」とも「ほうっ」ともつかない溜め息をついた。眼はまだ夢に酔っているように見えた。娘の達也を見つめる眼もそのようだった。彼女はまっ青のチマとまっ白いチョゴリに身を包んだうつくしい娘だった。

「これ、英姫。ご挨拶なさい」

 ママの声に英姫と呼ばれた娘はハッと我に返って言った。

「オソオセヨ(いらっしゃいませ)。ヨンヒエヨ(英姫です)。ソーンハムン(お名前は)オットケデセヨ?(何と仰言られますか)」

「先生のお名前は、と聞いています」

 ママはそう言って岳志と連れ立って奥へ歩いて行った。達也と英姫も後をついていった。

「あ、名前ね。勝又達也です」

「チョンチョニマルスメジュセヨ(ゆっくり言ってください)」

 ……くり返せといってるのか? 早口すぎたのかな……。

「マイネームイズ たつや かつまた」

「タちゅヤ カちゅマダらごよ?」

 英姫の口から出た〈タちゅヤ〉は達也の鼓膜をくすぐった。背筋をぞくっとさせて快感が走り抜けた。達也が初めて経験する感覚だった。

 ……成人女性が女児のような発音をするのでコケティッシュに聞こえるのかな。愛くるしい。舌足らずなのが何とも言えずいい。〈タちゅヤ〉がタツヤじゃ惜しいな。英姫さんには〈タちゅヤ〉と呼ばれるのがいいな。人間って人の声だけでずいぶん幸せな気分になれるもんなんだな……。

「英姫さん、いいんだ。〈タちゅヤ〉って呼んでくれ」

 彼女はチョゴリの胸元からペンライトを抜いて、小さな光の輪の中でさかんに辞書のページをめくった。

「タちゅヤシ、わだしにほんごとおかったです」

「遠かった?」

「まだまだです、ってことですよ」

 ママは岳志にオシボリを広げて渡してから、勝又に軽く頭を下げた。

「チョウムベッケッスムニダ」

 達也はママの言葉をオウム返しに発音した。

「チョウmベpケッスmニダァ」

「あらあ? こちらウリマルお出来になるの?」

 ママが驚いた。英姫が驚いた。岳志も目を丸くした。

「なんだよ、達ちゃん。韓国語(ハングンマル)わかるんか?」

「ぜーんぜん、初めてだもん」

「なんで言えるんだよ?」

「挨拶だと思ったからコピーしただけだよ。あの発音でよかったかい?」

「完璧ですわよ。驚いたわ、勝又先生」

 ママがほめちぎった。達也は教師になって初めてほめられた。

「でも、意味わからん。状況的には〈初めまして〉だろうかな。ははは」

「へぇ、達ちゃんすげえ耳してんなあ。俺もカタコトは覚えたけど、達ちゃんなら上達は早えだろな」

「女性がしゃべると何とも言えない色気があるよねえ。習ってみるかな。でも野郎の韓国語じゃ野暮ったいだけか、あっははは」

 達也は米軍基地の食堂(メスホール)を思いだした。……あの時も意味が分からないままオウム返しだった……。

 岳志と達也が陣取ったボックスに英姫が法酒(ポプチュ)の大徳利を持って来た。いたずらっぽく「ククッ」と笑って達也に言った。

「タちゅヤシ、きょそしましょ。どっちはやくこどばおぼえる? わだしにほんご、タちゅヤシはハングンマール、OK?」

「賭けだね、よし。で、僕が勝ったら何をくれるんだい、英姫さん?」

「なにもくれません。あだしかちます」

 賭けは英姫から達也への巧まざる〈無窮花(ムグンフア)〉常連への誘いになった。達也は英姫に惹かれていった。



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