(三十二)逝く者、来る者
達也は梶井校長からの復職依頼を断った。
「母の具合が思わしくありません。千葉の往復がこれまで以上に頻繁になろうかと思います。お気持ちがおありでしたら、非常勤で今少し樫山学園においてもらえませんか。専任ではご迷惑をかけますので」
「わかりました。学校の方はご心配なさらずにお母上のご看病を専一に……」
校長は頭をさげた。
達也が韓国に電話すると通話中でつながらないことがしばしばだ。やっとつながると、英姫は早苗と話していたのだという。
……また母さんが早く日本に来て顔を見せろとせっついているんだ。入院生活が長引いているからな。無理もないが……。
英姫は一度早苗に顔を見せておかなくてはいけないと思っていた。
……会えるうちに会っておこう。夏休みでは遅いかもしれない。達也さんにも報告しなくちゃいけないし……。
英姫は六月に入ると、週末を利用して達也が看病している義母を病室に見舞った。二十年ぶりに見る早苗の体はひと回り小さくなっていた。英姫は老女から実の娘のように迎えられ、甘えられた。しわだらけの早苗の両手が彼女の顔を包んだ。
「英姫、おまえは本当に奇特な娘だよぉ。長かったねぇ。よぉく待っててくれたねぇ。これで安心だ。ウチのバカ息子をたのむよ」
「たのむだなんて、お義母さま。ねぇ、いいお話ですの。お医者さまがお腹の子供は三ヵ月ですって。お正月まで待っててくださいね」
英姫は腹をさすって早苗に微笑んだ。
「そおかい、赤ん坊が。そりゃ、よかったよお。英姫、授かりものだからね、身体は大事にしなきゃだよ」
「はいっ」
「ひどいな、僕より先に母さんに報告かい? それにしても、飛行機だなんて無茶すんなよ」
高齢出産を気づかいながら笑顔を隠しきれない達也を見て、英姫は夫の優しい眼差しはつくづく早苗ゆずりだと思う。早苗が言った。
「英姫……」
「はい?」
「……駒隅田」
英姫が二十年ぶりに聞いた懐かしい早苗の〈ありがとう〉だった。英姫が初対面の早苗に親しみを覚え、尊敬するきっかけになったことばだった。
「……チョヤマルロ(私のほうこそ)」
英姫は早苗のことばを噛みしめた。
秋、十月の朝焼けの朝、病室の早苗は韓国の英姫を思い浮かべながら、赤ん坊の顔を見ずに息を引取った。老女の両手は毛布の下で祈るように組み合わされていた。
新しい墓標の前に立った喪服の英姫は腹が大きくせり出していた。彼女は声をかけた。
「お義母さま、赤ちゃんは女の子だと言われました。さっそく達也さんと相談して暁子と名前をつけました。あなたの初孫です」(了)




