(三十一)訪問団の来校
樫山学園の正門を入るとマイクロバスが停まっていた。
……訪問団だな。でも、まだ八時じゃないか……
この日、二限目の英文法の授業で生徒たちが騒々しくなった。顔がいっせいに校庭を見ている。
「静かにしろ。どしたんだ、お前ら?」
「先生、女だよっ、しかも団体っ!」
「先頭は校長だぜ。ヘっ、うれしそうな顔しちゃってぇ」
「俺、あの紺のスーツ、学食に招待しようかなぁ」
「バカか、お前。あそこのを喰わせりゃ招待じゃなくて虐待だよっ」
「おらあ、騒ぐなっ。カーテン閉めろ、失礼だぞっ」
「先生、だれなんだ、あれ?」
「韓国から来た女子高の先生たちだよ。ウチの学校を見学に来たんだ」
カーテンの隙き間からは一行の後ろ姿しか見えなかった。生徒が言うように校長がうれしそうにしていたのなら〈歓迎の辞〉はうまく行ったのだろう。校内を一通り案内した後、理事室で懇親会が予定されている。……レセプションの通訳といっても、雰囲気が出来上がった後半だから何てこともあるまい……。
地味な紺スーツを着た四十代前半と思われる女性が一行の通訳だった。ミス姜と言った。彼女は梶井校長の説明をメモに取りながら的確に訳していった。韓国も北方系の長身の美女に校長は機嫌がよかった。説明にも力が入った。図書館を案内しプラネタリウムを案内した。化学や物理の実験室、社会科の資料室、LL教室、生徒一人一台のコンピュータルーム……。訪問団一行は樫山学園の充実した設備のいちいちに控え目な嘆声をあげていた。校長は饒舌になった。
「教員室もご覧になりますか? 樫山学園の財産、優秀なシンクタンクです。もうボチボチ授業から戻って来ますよ」
通訳のミス姜が韓国語に直した。訪問団長の教頭先生がうなずいて、一行は空き時間の教師が何人か残っているだけの教員室に入っていった。
教務助手のおばさんが立ち上がって一行に会釈した。彼女が顔を上げるとミス姜も彼女に向けた会釈から顔を上げるところだった。おばさんは眼をまん丸にして素頓狂な声をあげた。
「ああっ、ああーーーっ!」
「どしたんだね、何事だね?」
校長のことばにおばさんは、ミス姜と乱雑な達也の机を交互に指差した。彼女によれば、ミス姜は韓国で子供が三人いて賑やかに暮らしていなければならない女性だった。
何事かと校長を先頭に訪問団の一行も達也の机に近づいて来た。
「きったない机だな。だれのだ?」
「校長先生、今のは通訳しなくていいですね?」
ミス姜はククッと笑った。
梶井校長は机の上の『尹東柱』という本を開いて、すぐに閉じた。本はハングルで書かれていた。
「韓国語か。勝又先生の机か……」
「ムォラゴヨ、キョジャンニム? タちゅヤシガヨクシヨギケーシヌングニョ!」
「に、日本語で言ってくださいよ、ミス姜」
机の上の写真に目をやった彼女の顔が硬直した。
「あ、いえ……」
ミス姜はフレームを取上げて、ぎゅっと胸に抱きしめた。顔を上向けて眼を閉じた。彼女の耳の脇をつっと涙が伝い、彼女の手に落ちた。そには長い年月の間にすっかりなじんでツヤを失ったエメラルドの指輪があった。
「あなたを思わない日は一日もなかったのよ、達也さん……」
二限終了のチャイムが鳴って、高校教員室の東と西の二つのドアから授業を終えた教員たちが次々に戻って来た。通路をふさいだ訪問団一行のために教員室はいつになくゴタついた。達也も授業を終えて帰ってきた。
……この人たちが訪問団だな、今はレセプションの時間のはずだが……。
「達ちゃんっ!」
入り口で待ち構えていた岳志が達也を小声で呼び止めた。肩をたたいてアゴをしゃくった。達也の机で女が目を閉じて椅子に座っていた。達也は目を疑った。
……えっ! まさか?
達也の驚きを押さえつけるように岳志がうなずいた。達也は目眩がした。
ミス姜が目を開けて立ち上がった。美しい顔が歪んで何か言おうとしているが声が聞こえない。彼女は達也に両手を差し出した。写真が床に落ちてガラスが割れた。達也の手はミス姜の手をを握った。
教員たちのそれぞれがやりかけていたことの手を止めて音のした方を見ると、手を取り合ってじっと見つめ合う男女がいた。広い教員室がしぃーんと静まり返った。二人の姿はだれの目にも自然だったし、静寂は、オーケストラの指揮棒が振られる直前の、楽器の音色が今にも聞こえだしそうな静寂で、起こるべくして起こった静寂のように思えたのだろう。教員室は声をたてるのも割り込むのも憚られる空気に満たされていた。
岳志だけは以前にもこの静寂に立ち会ったような気がしていた。──デジャヴュ? ……英姫と達也は二十秒ほども見つめ合って、まばたき一つしなかった。それも二人の意志で見つめ合っているというより、何か二人の背後か頭上かに一つの意志が働いて、一組の男女が向き合わされたといった妙な感じだった。初めて出会った男女はお互いの瞳の奥に、どれだけ自分たちの未来を読み取るものなのだろう……。
岳志がゆっくり大きな拍手を始めた。教員たちも彼に倣った。訪問団の先生方もそうした。団長の教頭先生が岳志に負けじと大きな拍手を送ったからだ。……姜先生、やっと会えたのですね……。
教員室の拍手が退くと二人はようやく手を離した。ミス姜が岳志の前に進み出て一礼した。
「畑中先生っ、お久しぶりです」
「おおっ、英姫、俺を覚えてるかっ」
「もちろんですよ。先生もお元気そうで……」
彼女の晴れやかな声と笑顔に、充血した岳志の目から涙がこぼれ落ちた。姜英姫は彼にハンカチを差し出した。




