(三〇)英姫の亡霊
達也は校長の最終特訓につき合った。
……校長はテープを持ち帰って家で練習したんだろうか。そうは思えない。挨拶原稿はカタカナをふったままだ。梶井校長はカナから離れない。韓国語はことばだ。人声だ。音だ。人から出たそれは魂だ。愛だ。詩だ。生命だ。時空を超える想念が空気をふるわせて魂を通い合わせる神の業だ。僕の英姫の身体だぞ。韓国語をカタカナで陵辱するな……。
達也は簡単に頼まれて気楽に引受けたことを後悔した。校長が韓国語に達也ほどの思い入れがあるはずないのだ。最初からそう頼まれたのだ。……挨拶ならせめて気持ちを込めてくれっ。
校長室での最終特訓を終えた達也は、西八王子駅前の屋台で、一皿のおでんとコップ酒で空きっ腹を一時おさえて帰宅した。彼は英姫の手が握ったノブを回した。
部屋の電話が鳴った。千葉にいる母親の早苗からだった。
「はぁい、達也です」
「達也、いい人がいるんだけどね」
「なんだ、母さん。またそれかよ」
「なんだまたかって言ぐさはないだろ、おまえ……」
「僕はもう五十だよ。まともな神経の女が僕んとこなんか来るわけないじゃないか。すまないけど、その気はないからね。まったく何度言ったら……。じゃ、切るよっ」
「こら、達也っ。お前が五十ならアタシゃ七十五だっ。言っとくけどアタシがお前の葬式を出してやるわけには行かないんだからねっ、この親不孝ものがっ」
早苗はいつものように憤慨と落胆で電話を切る。
……何でもくっつけりゃいいってわけのもんじゃないだろに。しかし、母の勧めただれかと結婚していたら、生活も今と違っていたんだろう。いや、自分が振り向きもしなかった見合いを、あったかも知れないチャンスのように考えるのはあさましい。たしかにな、母親に自分の葬式の心配させる息子がどこの世界にいる……。
早苗は一度しか会っていないが〈英姫はいい娘だった。あの娘をおまえの嫁にさせてやりたかった〉そう口癖のように何年も言い続けた。それがいつからかピタッと彼女の名を口にしなくなった。それからだ、そうは転がってもいない見合い話を探して次々と持ち込んでくる。達也は母には感謝しなければと思いながら、口からは、どうしても正反対のことばが出てしまう。……母さん、七十五なのか……。
達也はワンカップを片手に、アルミ鍋でインスタントラーメンを煮ながら、陰気な部屋で孤独死する自分を想像した。その晩自分が横たわる棺に取りすがって『英姫の亡霊が達也を殺しちまった』と肩をふるわせて泣く老いた母の後ろ姿を夢に見た。
……英姫の亡霊か──。そうか、僕は未だに韓国語をやっている。英姫はいないのにやっている。韓国語は彼女を思い出すためにやるのか? 韓国語を続けるために彼女を思い出すのか? どっちでもあるような、どっちでもないような……。




