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(三)畑中岳志という漢文教師

 アイツはペラペラしゃべるだけで、授業は下手だし、担任もうっかり任せられない──学校で達也はそう陰口を叩かれていた。教員たちばかりか生徒の一部からもそう思われているのを彼は知っている。とにかく、ほめられた例しがない。

 ……仕方ないさ、無能教師は事実だしな。僕がほめられるとすれば、だれかが僕の能なしを利用するときだろう。上っ面のつき合いだけで、やつら仲間だなんて思っていないからな……。 

 居心地のよくない職場でも、一年先輩で漢文を教えている畑中(はたなか)岳志(たけし)だけは違った。岳志は一流の国立大を出た敬虔(けいけん)なカトリックで、同時に徹底したエピキュリアンだった。彼は食を愛し、女を愛した。エピキュリアンは快楽主義者と訳されてイメージが良くない。快楽という用語が誤解され易いことをこの語の元になったエピクロス本人が(うれ)えている。身体がよろこぶことをストレートに善とする岳志の思想は、建て前というタガのはまった職場で当然のように誤解された。

 男子校の気安さもあってか、岳志はある日、性欲に日夜もだえる男子高校生たちを前に、風俗店での自らの体験のなかから、慎重に良質な部分を取出して、ぶち上げた。『精神と肉体の理想的バランスの上に男女が結合することこそ生へのオマージュに他ならない。幸福は書物や議論のなかにはないっ。実感の中だっ』そう男女が仲良くすることの悦ばしさを語って聞かせた。しかし、これが〈不運の火種〉になった。生徒のなかに岳志の率直さを卑猥(ひわい)だと受け取る者が混じっていた。岳志の体験談は汚らわしい話となって生徒の家庭に持ち帰られた。電話連絡網で家庭から家庭へと飛び火した。一クラス五〇軒を焼き尽くして、大袈裟な被害報告になって校長の耳に届いた。

 渕上校長はさっそく臨時の教員会議を召集し、三十分かけて、こってりと岳志の油を絞った。

 ぞろぞろと会議室を出る教員たちは〈また、あいつか……〉といった素振りで、だれも岳志の個性に近寄ろうとしなかった。達也が岳志を居酒屋に誘った。


「謹慎は三日間だったよね。初日だとまずいかな」

千秋楽(せんしゆうらく)よりマサカの初日のほうが安全なんだよ。しかし、ウチのバカ教師どもは仲間でも何でもねえなァ。ウンコでも見るような目でジロジロ見やがってさ。あいつらナニをやらねえとでも言うんかよっ」

「まァまァ、あんなの会議じゃないよ、儀式だよ。PTAの手前さ。校長に握りつぶす器量がありゃ元々なかったもんだろ。岳さんがしょげることないって。校長の話だもんで、みんな一応は関心ある風をして集まったけだけさ。それにしても岳さんの弁護をするヤツが一人も出なかったのには驚いたな。僕もその一人だから、謝る。ただ、ひとつだけ言い訳させてくれ」

「いいよ、今さら」

「あそこで岳さんを弁護したら、火に油を注いで校長の話を長引かせるだけだった。岳さんの孤立無援は同情したよ、けど、意味のない会議を早く終わらせるには黙ってやり過ごすしかなかった」

「無言の同意を装った、そう言うんか?」

是的(シーダ)。長いものには巻かれないと生きちゃ行けない。腹ン中じゃ〈そんな一方的で表面的なもんじゃねえだろ〉ってね、僕の本音と校長の建て前が食いちがう。僕らは商売がら建て前に縛られて、なかなか岳さんみたいな本音で言えない。羨ましいと思っても、ああいう場じゃ意思表示できないんさ。黙っててもさ、自分が〈飼い馴らされたな〉って思った先生たちも多かったと思うよ」

「まったく、高校生にもなって自分で考えねえんだから嫌になるなァ。中学生にもなりゃ親の偽善を見抜くもんだろ。バカ息子は親の言いなりだ。俺が大事な息子を悪の道に誘いこんだとでも思いやがったか、くそっ。教師が教育ママと同じことしか言えねえなら学校なんか意味はねえっ。家庭で()かねえ一皮を俺がむいてやっただけのことじゃねえか」

是的(シーダ)。チクる生徒がいる・いないは偶然だからね、こんなの災難だよ」

「ん、少し気が楽になった。サンキュ」

 達也の同情に〈ありがとう〉ではしんみりしすぎると思ってか、照れくさいのか、岳志は〈サンキュ〉とアゴをしゃくり尻上がりに言った。岳志は気分を変えたり話に勢いをつけるのに時折そんなふうにエイゴを使う。達也も岳志から習った是的(シーダ)=そうだ、没有(メイヨウ)=ない、不要(プーヤオ)=要らないなどを(あい)の手に使う。

「達ちゃんの英語は本物で、すげえんだってな。相手はやっぱ金髪?」

「何だよ、いきなり?」

「岡本の爺さん、あの年でアメリカの大学出てんだって?」

「ミッション系ウィッティア大。ピューリタンのコチコチだ。ねちねちな性格のくせしてな」

「コチコチでねちねちってのはどういうウンコだ、あっはっは。ま、その岡ジイがさ、達ちゃんのLLの授業を隣の準備室で立ち聞きしててだよ」

「ち、スパイかよ、あいつ」

「最後まで聞けよ」

「留学もしてねえのにあれだけ流暢(りゆうちよう)なのは信じられねえってさ、そう言ったぜ」

「主任が? うすっ気味悪ぃな」

 英語科主任の岡本は、事あるごとに〈教案を工夫して授業臨んでいるね?〉と釘を刺して来る。評価がきびしいので達也が一番苦手な相手だ。

「金髪とネンゴロでペラペラねぇ。そんな色気のある話だといいな。主任の腹はその先だ。ほめちゃいないよ。裏を返すまでもない、しゃべるしか能がないって皮肉だろ。僕は教える英語なんてカラッキシ。頭の悪さは英語科じゃ有名だよ、ははは」

「俺の中国語は台湾の女の直伝だ。NHKは空々しい上にまどろっこくていけねえや。達ちゃんは金髪だろ、な?」

 女性を間に置くと岳志には何かが見えて来るのか、エピキュリアン仲間に引き込もうというのかは分からないが、ともかく達也を話相手として対等に接しようという岳志の態度は好感が持てる。

 ……想像は勝手だけど、岳さん、英語=金髪女は短絡だよ……

 達也は身の上話をするハメになった。


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