(二十九)単独行動
「教頭先生、今回の樫山学園訪問のことですが……」
「何でしょう、姜先生?」
「実は、昔お世話になった方が八王子におられます。我がままなのですが、私だけ前日に発って、当日の朝に向こうの学校で合流するわけには行かないでしょうか」
「学校の予算ですからねぇ。別行動はまずいですが、行きの切符を自分持ちにしてもらえれば差し支えないでしょうよ。学校関係の細かい通訳は貴女でなければ困るが、旅行社の通訳も同行することだし、その辺は心配要りませんよ」
「ありがとうございます」
旅装を整えた英姫はひとり仁川空港でKALの東京行きの出発便を待った。
……あのときは金浦空港からだったわ……
成田からリムジンで東京駅、オレンジ色の中央線で八王子へ。樫山学園のある小平市は下調べが済んでいるのか、気にしないようにしているのか、英姫は一度ぼんやりと窓外を見ただけだった。彼女の気持ちは思い出の八王子に急ぐのだろう。
八王子駅には広いコンコースができ、階段はエスカレータになってすっかり様子を変えていた。駅前をタクシーが四列になってびっしりと埋め尽くし、人が歩くのは地下道だ。……無理もないわ、二十年だもの……。英姫はタクシーに乗り込んだ。
「三崎町の〈無窮花〉お願いします」
「ムグンファ? 聞いたことねえなぁ。三崎町なら歩けるだろに」
……あの頃はこんな失礼な運転手はいなかったわ……
「いったん三崎町に寄ってから寺田町へお願いします」
三崎町の〈無窮花〉は〈古宮〉と名を変えていた。英姫は朝から座りっぱなしで疲れた体を、背筋を伸ばしたり腕を振り回したりしながらほんのちょっと眺めただけで、待たせたタクシーに乗り込んだ。
「寺田公園っ」
運転手は返事もしないで車を発進させた。英姫は窓を過ぎる景色を見るでもなく見て考えた。
……二十年経ったんだもの。達也さんがいくら一途でも、あのぼろアパートにはいないだろうな……。
公園で車を降りて英姫はぐるりと辺りを見廻した。様子が違っている。彼女が通った達也のアパートは影も形もなかった。覚悟はしていたが淋しかった。
公園を走り廻っている女の子の子守りなのか、お婆さんがベンチで日向ぼっこしていた。英姫は軽い会釈をしてベンチの端に腰をおろした。
「お婆ちゃん、あそこにあったアパートはなくなってしまったんですね?」
「十五年も経つかねえ。ほら、反対側の五階建てになったんだよ。あっちに移ったんだ。大家さんが同じでさ」
お婆さんは身をよじって、洒落たマンション風の建物を指差した。
「移ったんですか?」
「そりゃ、そっくりってわけじゃないけどさ。昔っからの人があそこにね」
「ありがとうございました」
英姫は立ち上がった。
……何をしようというの? 後悔するわよ。……帰るの? せっかく見届けに来たのに。
彼女の足は五階建て集合住宅に向かった。コツコツと響くヒールの音がステンレスの集合ポストの前で止まった。三〇四号に〈勝又〉の名があった。じわっと目の奥が熱くなって動悸がした。英姫は外にまわって三階の四番目を見上げた。布団は干してないし洗濯物もない。観葉植物の鉢もない。住人は男の一人暮らしだろう。
……タツヤと決まったわけじゃないわよ、バカね……。
彼女はエレベータ脇の階段をゆっくり三階へ昇っていった。コツコツ、コツコツ。
三〇四号の新聞受けに英字のジャパンタイムズに隠れて韓国紙「東亜日報」が突き刺さっていた。家族の表札はなく、鉄扉に貼り付いたマグネットのフックに、T・KACHUMATAと彫られた古ぼけた木札が懸けてある。T──タツヤだ。英姫はローマ字のイタズラを見て笑おうとしたが、笑えない。……こんな表札を何年かけているのだろう……。間違いない。英姫は我慢できなくなった。
『懐かしい達也さん 歳月は流れても私はここにとどまっています あなたの英姫』
日本語でそう走り書きしたページを手帖から破り取って、紙片の半分ほどを東亜日報にはさんだ。恋人時代に、達也が教えてくれたフランスの詩人の一行だった。心臓が早鐘を打っている。おそるおそるチャイムのボタンに指を伸ばしてみた。奥で微かにピンポーンと鳴った気がしたが、返事はなかった。独身の男が平日の昼間に家にいるはずない。彼女は我にかえるまで、何度もボタンを押してしまったようだ。「達也さんっ」と声に出していたかも知れない。
……さ、ウロウロしてると女空き巣にまちがわれるわよ……。立ち去りかねる自分をそう励ました。期待に膨らもうとする胸を両腕でコートの上からおさえた。
帰りはバスに乗った。薄暮の空に街路樹のケヤキが黒く枝を伸ばしていた。あの頃、木曜日と言えば決まって八王子までこの道を通ったのだ。ひょっとして行き違うバスに達也が乗っていやしないか、そんな虫のいい想像もした。
ホテルに戻って、英姫は達也からの電話を待った。
「あらっ?」
彼女は考えられらいミスをしていた。〈懐かしい〉と書いたメモにホテルの電話番号を書き忘れていたのだった。自分では落ち着いているつもりでも、達也の部屋を訪ねたこと自体が英姫には異常興奮だった。
昔の女から〈懐かしい〉と寝耳に水のように持ちかけられて、その連絡先がないのでは達也さんはパニックになる。自分ならきっとそうなると思うと彼女は居ても立ってもいられなくなった。
英姫はホテルから慌ててタクシーで達也のマンションに舞い戻った。しかし、三〇四号には相変わらず灯りは点っていなかった。彼女は今晩のホテルのルームナンバー、それに仁川の現住所・電話番号を書いてまた手帖の一枚を破った。
……ここに達也さんが住んでいるのは間違いない。でも、こんなに遅くまで仕事? いや──女? 万一、女がいて、留守もその女の所に行ってるのだとしたら、その女と幸せだったりしたら、メモは達也さんの幸福を壊す災いになってしまう。私は執念深い、未練な、現れてはいけない昔の女なのか……。こんなことはただの一度だって考えたことがなかった。せっせと手紙を書いて彼を想い、まるで権利のように彼を思って暮らして来たのに。あんな別れ方をしたのだから彼を愛していけないなどとは夢にも思わずに来たのに──。
しかし、二十年という歳月はここに来て彼女を怯えさせ、逡巡させた。
……私はなんでここへ来てしまったろう……。
英姫は二枚の紙片を丸めてポケットにねじ込むとコートの襟を立てて、バス通りへ歩いた。新聞と表札を見たときの興奮を思い返そうとすると心がずんずん空しくなって、英姫は突然の尿意に襲われた。トイレのない小さな公園の隅にしゃがんで、冷え冷えした月の光の下で用をたした。そうしながら泣いた。
英姫が訪ねて来た証拠を失った達也の部屋は、今日も昨日と変らない。……振り向けば目と鼻の先なのに何という距離だろう……。
英姫は世の中の〈待つ女〉を一人ひとり抱きしめてやりたくなった。賢い女たちは時間を距離に換算しながら暮らしているのだろうか。八王子には私の思い出だけで、達也の思い出はもうここに残っていないのか? 待つというのは思い出どうしが呼び合って巡り会うということではなかったのか。愛を信じるのに待ちすぎるなんてことがあっていいはずないのに……。




