(二十五)短い結婚生活
岳志は八王子の韓国人教会であわただしい結婚式を挙げた。質素というより他なかった。達也は新郎の介添え役をつとめた。玉姫側からはホステス時代の仲間だった池善子が出てくれた。この教会の信者には水商売の者が多かったので、教会有志のエキストラをたのんで何とか格好をつけた。
岳志は身内も、職場の人間もだれ一人招待しなかった。玉姫の両親も、事実のほどは分らないが、高齢と健康上の理由で不参加だった。
達也は厳粛な気持ちで出席した。無精子症の新郎、発達障害の新婦。神は二人にどんな祝福を与えるのか。
式はとどこおりなく進み、締めくくりに牧師が言った。
「お集まりの皆さんのなかに、この結婚に反対の方が居られますか? 居られましたら申し出てください。私どもは式は挙げますが、二人を結びあわせ給うたのは我らの神です。反対の方は居られませんね?」
……反対するにも何も関係者は僕と善子の二人じゃないか。牧師さんも形式通りに進めなきゃならないんだな……。
「これでお二人は神の前にご夫婦です。これより先、神の御業に異を唱えてはなりません。では、お二方、誓いの接吻をどうぞ」
岳志はいきなり玉姫をがばっと抱いて濃厚なキスをやり始めた。みな呆気に取られた。
「ち、ちょっと、あなた、何もそこまで……」
牧師は岳志の肩を叩いて、顔をしかめた。そして、下を向いて「ぐふっ」と笑いをかみ殺したおかしなな声を出した。
達也は、牧師に似合わない不謹慎な笑い方だと思った。
新郎新婦が列席者に振り向くと今度はエキストラたちが大笑いした。岳志の口のまわりは玉姫の口紅でまっ赤になっていた。花嫁も同様だった。ひとり達也だけが笑わなかった。
「私たちがバカに見えますか? でも幸せにも見えるでしょう?」
岳志は赤い口でそう言い、自慢そうに玉姫の肩を抱き寄せた。エキストラたちから拍手がわいた。達也だけが涙を流した。
結婚式の前日に、岳志が一升瓶を持って達也のアパートを訪ねていた。
「達ちゃん、明日は迷惑かけるけど、よろしくな」
「結婚が決まってから聞くのも変だけどさ、岳さん、ずいぶん急いでいない?」
「ああ、急ぎてえ訳もあるのさ」
「玉姫が妊娠したとか?」
「ばぁか、冗談言うな。それだけはねえよ。じつぁ、玉姫のやつは白血病でもう長くねえ」
「ええっ」
「あいつとつき合い出したのは、英姫と達ちゃんがソウルに発つのを駅に見送ったときで、二年前だ。英姫が言ったな、『何かあったら畑中先生に相談するのよ』って」
「うん」
「寮で英姫によくしてもらってたんだろな。帰り道にあいつは『オンニのいなくなった部屋にはどうしても帰りたくない』とダダをこねやがった。ホテルに誘うとあいつはすんなりついて来た。俺たちは男と女になった。翌朝、仕事の俺は床に脱いたズボンを探したが見当たらねえ。はいてなきゃおかしいパンツもねえ。玉姫を揺り起こして聞くと『靴下と一緒に昨夜洗った』って言うんだ」
「最初の晩にそれかい?」
「あゝ。『いっしょにいてくれてありがとう』ってな、『面倒かけたから何か出来ることをしようと思った』んだとさ。シーツの下からズボンを取出したら、寝圧しに失敗してシワだらけ。俺もすれっ枯らしばかりを見て来たからな、愛いやつじゃって思ったんさ。失敗を気にして『ごめんなさい。叱ってください、お願です。叱ってください』ってしきりに謝るのさ。変な娘だと思ったね。習って覚えたのか地がそうなのか、ますます玉姫が愛しくなってきてなァ」
岳志は遅刻を気にしながら、ペコペコ頭を下げる玉姫を慌ただしく優しく、もう一度抱いてから、生乾きのパンツの上にシワだらけのズボンをはいて、何年かぶりですがすがしく誇らしい気持ちで出勤したのだと言う。
「ふうん。そういう家庭的な娘なら結婚したがるだろうし、子供だって欲しがるだろ?」
「あゝ。結婚するには自分の心は相手のために無防備でなきゃいけねえ、とかみ砕いて説明してさ、お互いに一番の秘密を打明けることにしたのさな。俺は無精子症だから子供は出来ないと教えた。初めのうちはキョトンとしてたが、そのうちに泣き出したな、泣いて、泣き疲れて言ったな。『先生の子がアタシみたいなバカじゃ困るから、これでちょうどいいんだ』ってさ。神様がそう決めたんだそうだ」
「で、玉姫からは何だって? いや、僕は知らない方がいいのかな」
「『いっぱいあって、どれが一番か分か分からない。でも、一番言いたくないのは』とまた泣き出した。はあっ。玉姫の最初の男はウチの副理事長だとさ。入店と同時に手込めにされたんだとよっ」
「な、何だよ、それはっ!」
「俺は頭に血が上ってさ。気づいたときには玉姫を怒鳴りつけてた。頭の中を篠山の野郎の嘲笑が駆け巡った。人に殺意を持ったのは後にも先にもあのときだけだ。この俺を信じて一番聞かれたくないことを話したのにさ、玉姫にしてみりゃ俺にだまされたと思ったかもなあ。『許してください、勘弁してください。畑中先生と結婚出来なくてもいいから、許してください』って謝るんだよ、俺に。結婚出来なくていいなら何も俺に謝ることじゃねえ。『先生とこうなってやっと忘れられるところだったのに、思い出せって言うんだもの。アタシがどれだけ困ったか分かりますか?』って真剣な眼で聞かれてさァ」
「そんな」
「いや、今は落ち着いてるさ。玉姫は俺と知り合ったのが初めての幸せだったんだな、のろけじゃねえよ。朝から晩までうれしそうに家事ばかりやってる。借家を磨いても無駄だっていうのに、アパートをピカピカに布団をふかふかにする。あいつには自分だけの楽しみってのがねえ。あるのは俺を快適に暮らさせることだけだ。
そのうちに玉姫は『貧血らしい』と言うようになった。朝もつらそうにしてることが多くなった。嫌がるあいつを無理やり医者に連れて行った。医者は紹介状を書いて、大学病院に入院を勧めた。白血病だと言われた」
「……むごい」
「入院はさせたい。でも、もって半年と宣告されたからには玉姫の望むようにさせたい。でも彼女の頭がどう考えるかと思うと、俺には病名を教える勇気がない。自分の好きな事をやってくれるのが一番なんだがなあ。でも半年が一ヶ月、一週間しか残ってなくても、動きまわって俺の世話を止めないよ、あいつは……」
「それで玉姫ちゃんにしてやれることが結婚だったのか……」
「親父は俺の身体のことなど知らねえからな。今どき流行らねえ義絶、勘当ってんだから笑わせる。戸籍を汚すってさ。三十過ぎの男が勘当されたくれえでビクつくもんかい。憲法二十四条も知らねえで人の親をやるなってんだよ、ははは」
「…………。岳さん、身体のことを親父さんには言わなかったのか。やっぱり言わないよな、岳さんなら、な」
「不幸を親子二代で背負い込むこたァねえさ。そんなこと言やァ、親父は切腹するよ。ご先祖さまに申し訳ねえってな」
「…………」
「で、戸籍を独立させて玉姫を俺の戸籍に入れた。あいつが死ぬまではせめて俺のそばで生きて欲しいのさ。『俺たちのママゴトみてえな新婚生活は楽しかったよなっ』って送ってやりてえのさ」
「ううっ、岳さんっ」
玉姫は岳志と結婚して半年後、夫ひとりに看取られて死んだ。自分を少しも不幸だと思わずに死んだ。
岳志がやっと無宗派の墓地を買ったというので達也も行ってみた。
「達ちゃん、俺みてえに死に別れってこともあるんだ。音信不通ってのも蛇の生殺しだけど、希望がねえわけじゃねえと思うよ」
「あゝ」
「俺たちゃ、どうなっちゃてんだろな、まったくよ」
茜色に染まった西空を見上げて、岳志は玉姫を、達也は韓国の英姫を想った。




