(二十四)英姫の決心
達也の電話が間遠くなるのは日本で頑張ってくれているからだと英姫は思っていた。それにしても間隔があきすぎる。家からかけても公衆電話からかけても達也の電話はつながらなかった。
英姫は結婚式のあるはずだった夏をうつうつとして過ごした。物思いにふけってばかりで、まったく口をきなかった。家の小さな庭をぼんやり眺めては、だるそうにため息ばかりついた。庭の隅の無窮花はまだいっぱい蕾をつけていて、秋半ばまで色とりどりに咲きつづけた。無窮花に代わってコスモスが咲き出したころ、英姫にようやくひとつの決心が生まれた。
英姫は一年半振りに母校のキャンパスに立っていた。
……懐かしさがこみ上げて来るのかと思ったけれど、そうでもないのね……。
正門から見える校舎のビルはどれも彼女の目には小さくしか映らない遠景だった。
……私が日本へ行ったのはここに戻って来るためだった。夢だった英語教師になるためにここで勉強した。幼い恋もした。でも、私にはここでの思い出は要らない。私はこれから私の信じた道を行かなくてはならない。感傷に浸ってはいられない……。
英姫は文学棟の学生課で、退学手続きの書類に淡々とボールペンを走らせた。四十を過ぎた女事務員がいかにももったいないと言いたそうに「復学もできるんですよ」と言った。
「こちらに日語科があれば、そうしたいですけどね……」
「二年次までは全部単位は取得されていますから、書類が必要なときはご連絡ください」
英姫は事務員に目礼して学生課を後にした。校舎にもそこで学んだものにも未練はなかった。
……来年の受験に間に合うかしら。とにかくやってみるしなかい。達也さんも苦しいのだから連絡がなくても仕方がない。だれが何と言おうと達也さんは私をだましてなんかいない。みんな、今に見てなさいよっ!
「母さん、私の貯金ある?」
「手付かずで残ってるよ。どうするの?」
「大学を受け直すことにしたわ」
「復学じゃなくてかい? 新しく入るにゃ足りないだろ?」
「いいの、国立を受けるから。ソウルじゃなくて地方の」
「やっぱり英語を勉強するの?」
「いえ、日本語よ」
あっけらかんと英姫が言うのを聞いた母親の良枝は、まだ懲りてないのかと心の半分で呆れ、ずっとふさぎ込まれるよりはマシだろうという気持ちで残りの半分を埋め合せた。
英姫はその晩から猛勉強を始めたが、四ヵ月の勉強で受かる国立はなかった。しかし、英姫が決意をひるがえすことはなかった。翌年、再挑戦して、清州国立大学校文学部日語科に合格した。同級生よりも四つ年上の大学一年生だった。
英姫の大学合格を知った貞鐵伯父が家にやって来て、良枝と話していたが、英姫の入学を祝ってのことではなかった。
「英姫も、もう二十三だろ。今度の大学で必ずものになるとも言えまい? また途中で止めでもしたらどうする? あれだけの器量だ、若いうちに嫁にやる方がいいだろうよ」
英姫は、事が済んでから何か言い出す伯父が好きではなかったが、良枝はそうでもないようだ。達也との結婚話がダメになってからは、伯父とウマが合うように見えなくもない。
……英姫がどう思っていようと、もうあの男とは一緒にはさせられない。だからと言って、この人の話に乗ってしまうと、ウチの事情などお構いなしに、本家がどうのシキタリがどうの言い出しては引っ掻きまわす。英姫を日本にやったときがそうだった。韓国を発った後になって『なぜ相談しなかったか。金なら都合をつけたのに』と責められた。今回だって破談になってから『わしは最初から賛成しちゃいなかった。日本人など信用なるか』と言って来た人だ。
英姫は私の娘、夢は叶えてやりたい。学校の先生になりたがっていた娘が再挑戦を始めたばかりじゃないか。でも、日本に出してあんな馬の骨を連れて来たのだから、甘やかし過ぎたと言われても仕方がない。当てにできない伯父にうっかり頼ろうとする自分に良枝はあわてて首を振って考え直す。
英姫は少し痩せたようだ。十八で大学生になりたての頃の子供々々したところがなくなった。英姫の勉強する姿を見ると良枝は我が子ながら勉強好きな娘だと思う。貞鐵伯父のように日本語など勉強のうちに入らないなどとと反対すれば、あの娘の将来を閉じてしまうことになる……。いや、英姫は同じ過ちは繰り返さない娘だ……。




