(二十一)失意の中で
……結婚どころじゃない。英姫は、いや、先日集まった親戚一同のだれひとり納得すまい。しかし、こうなったからには、英姫にだけは事実を告げて結婚の延期をわかってもらわなければ。週末にも韓国へ行こう……。達也は生きた心地がなかった。
達也が半月も経たずに再びソウルの家を訪ねたことに、母親の良枝は胸騒ぎを覚えた。義母になる人にろくな挨拶もせず、達也が駆け上がった英姫の部屋から、やがて、拳で激しく床を叩く音と号泣がもれてきた。良枝は階下の仕事場でそれを聞いた。……やっぱり……。
英姫の泣きじゃくる声を背にして、達也は、入り口に立った良枝の足元に平伏して詫びた。
「申し訳ありません。結婚を少し延ばしてください。お願いしますっ」
口惜し涙がボタボタと床に落ちた。
「アイゴーッ。何の恨みがあってアンタは私の娘を騙したんだっ!」
達也は良枝から頭やら肩やらを何度も拳で叩かれた。それが少しも痛くないのがつらかった。良枝は廊下に坐りこんで英姫と同じように拳で床を叩いて「なんで騙した」と喚きつづけた。
母親は奥の部屋に引きこもったきりもう出て来なかった。
「ごめんよ、英姫。うっうっ」
達也は堪えきれずに英姫の胸に顔を埋めてむせび泣いた。
「私たちがどんな悪いことをしたと言うのよ……」
英姫は惚けたように達也の髪をなでた。
噂は更にひどくなった。教職員たちは達也のキーセン遊びが高じて韓国に通っているのだと校内のあちこちで噂した。その噂をかい潜るようにして彼は韓国の英姫に会いに行くのだった。噂は事実になっていった。
達也は職探しも始めなくてはならなくなった。予備校をいくつも駆け回った。予備校で要求されるのは、学校以上に難解な文章を文法的に解説する技量で、直感的な実用会話ではない。それでも達也は必死に何度も面接と筆記をくり返した。
「勝又のやつがよォ、ボクの通ってる塾の塾長と話してるのを聞いたぜ」
「なんでお前の塾へ?」
「樫山学園の先生がウチのような二流予備校へ、なァんて皮肉言われてやがんのさ。アイツ、うちの塾を受けて不採用になったんじゃねえのォ。あっはっは」
達也は陰口に屈辱を感じているヒマはなかった。状況は予断を許さない。七月半ばに夏休みを待って、達也はまたソウルへ飛んだ。
貞鐵伯父が達也ににじり寄った。
「一体どうなってるんだっ。私らをバカにするのもいい加減にしろっ」
「…………」
「もとはと言えばお前だ、良枝っ。英姫を日本の水商売などに出しおってっ。弟が草場の陰で悔し泣きしとるのが見えんのか、ええっ。こんな男はさっさと日本へ追い帰せ。わしゃ帰るっ」
伯父が義母を面罵する剣幕に、達也は胆を抉られる思いがした。彼の腹の中は実際、ズキンズキンと痛んだ。その腹を抱えて伯父を追いかけた。
「貞鐵伯父さん、話を聞いてください。必ず何とかしますから、お願いです」
「女房一人を養えんおまえなどと話すことなどないわい。失せろ、ウェノマ(倭奴め)!」
倭奴という日本人への蔑称を聞いて、達也の思考が停止した。脚から踏んばる力が抜けた。英姫の家へ戻り、良枝に声を掛けたが、プイッと横を向かれてしまった。
「うおあぁーーーっ」
達也は狂ったように道路に飛び出して行き、そこに洗面器に一杯ほど茶色い液体を吐いた。吐血だった。腹の中の重苦しかったものがなくなって、気分は悪くなかった。体が宙に浮くような感じがした。達也を搬送する救急車の中で、英姫は冷えた彼の手を泣きながらさすっていた。
「血圧、六十っ」
救急隊員の声が遠くに聞こえ、彼は意識を失った。
達也は病院で目を覚ました。英姫は両手で達也の手を包み、額でそれをベッドに押しあてて眠っている。
「目が覚めましたね、学校には私が連絡しときましたよ、ミスト・カスマタ。飛行機を遅らせるのはこのお嬢さんが手続きしました。あと二日はこの病院にいてください。英文カルテのコピーを差し上げます。日本で引き続き加療してください」
主治医は日本語を話した。
……学校に連絡した? また噂に……
英姫が目を覚ました。
「達也さん、何度も韓国へ来れないね。飛行機代も……」
〈無窮花に較べれば安いものさ〉そう笑えた時期はとうに過ぎていた。
「お金がもたないでしょ。私は大丈夫、電話してくれれば。私、待つから、待てるから。韓国の女はやわじゃないわよ。達也さん、お酒少しにしてがんばってね、がんばるのよ」
英姫のことばに達也はベッドで男泣きした。……生涯この女をはなすまい。でも、どうやって……。




