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(二)噂の発端

 二十年前、達也には韓国に結婚を考えた恋人がいた。習い始めだったが韓国語も少しならできた。樫山学園高校で専任教員だった彼は、長期休暇中や週末に割り当てられる校務を、気の弱そうな後輩に押しつけ、買収し、拝み倒して代わってもらい、韓国を往復しなければならなかった。それは韓国人の女性との恋愛でしかなかったのだが、周囲はそう受け取らなかった。

 当時、妓生(キーセン)パーティは一大ブームの観があった。円高を利用して物価の安い韓国に出かけては女を買い(あさ)る男たちの韓国旅行は、そう呼ばれていた。職場では韓国のカの字も口にしたつもりはないが、達也の韓国通はいつの間にやら教職員に知れ渡り、女子事務員たちは挨拶するのも汚らわしいとばかり軽蔑の色を目に浮かべて一歩退く。とたんに呼吸する空気が薄くなる。事務室に給与明細を取りに行くのもおつくうだった。現に梶井校長がこんな話を持ち込むのだって、ふた昔前の〈勝又達也=キーセン狂い〉という噂をいまだに忘れていないからだ。

 英姫(ヨンヒ)が日本の女で、仙台とか大阪にでも住んでいたなら、ごく普通の遠距離恋愛でしかなかった。達也は韓国に住む一人の女を愛しただけで、相手かまわずのキーセン旅行の団体に加わったのではなかった。達也と英姫の二人は恋をして愛を育てようとした。そして男性の多くがそうするように、達也も結婚が本決まりになるまで、英姫のことは周囲には伏せておきたかった。

 しかし、一度おかしな噂が立ってしまえば、どう取りつくろおうにも他人の口に戸は立てられない。二人は噂に負けまいと健気(けなげ)にあわただしい逢瀬(おうせ)を重ねた。それだけのことだ。


「勝又君、単刀直入に聞く。君が妓生(キーセン)に夢中だというのは本当かね?」

 渕上校長にそう言われて達也は答えた。

「事実とは異なると思います」

「どう違うのだね」

「僕がつきあっている女性はキーセンではありません」

「じゃ、韓国女とつきあっているのは事実だな」

「む……、はい」

「水商売か?」

「え、まぁ」

「悪いことは言わん。()めろ」

「お言葉を返すようですが、僕のプライバシーですので」

「私は君の身を案じて言ってるんだ。権利がどうこうの問題じゃない。韓国女で水商売となれば、不法就労じゃないのか? 君は教師なんだよ」

「…………」

「飲むな、遊ぶなと言っちゃいない。目立つなと言ってるんだ。分かるな? 分かったら帰れ」

「わかりました。以後気をつけます」

 渕上校長の話は承服できない。達也は校長の〈韓国女(かんこくオンナ)〉という言い方にムッとした。この一言で彼の常識の古さ、韓国に対する無理解と蔑視は明らかだ。

 ……僕の身を案じてだと? 大きなお世話だ……。

 邪魔が入ると余計に燃え立つのが昔も今も変らない恋心だ。彼は英姫との交際を止めようとは思わなかった。


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