(十七)変容する幸福観
ホステス寮の自室で英姫は考えた。
……私は日本にいるのに韓国を離れた気がしない。〈復学の費用を稼ぎに日本に来ているのだ、それ以外に私が日本にいる理由はない〉そう帰国の当日まで自分に言い聞かせて過ごすものと思っていた。でも、そうしなければならないほど日本の生活が辛くない。順調すぎて緊張感の糸が切れてしまったのか。どこか安心しきっている。復学して勉強についていけるのかという不安がまったくないのも不思議といえば不思議だ。韓国語を教えれば日本語も英語も教えてくれる先生がいる……。
〈先生?〉と言い直して彼女はふふっと笑う。
……達也さんは私の先生じゃないわ。少しも厳しくないし、先生なら女を幸せにするわけないもの。自分が女でよかったと思うのも達也さんの愛を受入れてからだわ。英語教師の夢を捨ててはいないけど、勉強への集中力は確かに落ちてきた。でも、日本に来る前と違って、私は今の私を責める気になれない。頭の中で〈こんなじゃだめよ〉と言う声がする。すると次には別の声が〈なぜ英語教師になりたいの〉と問いかけて来る。それに答えようとすると〈教師になって幸せになりたい〉という答しか出て来ない。教えることの充実感は幸せの一つには違いない。でも、形は違っても達也さんとのことを考えている今が決して不幸じゃない。トゲトゲしくガムシャラに勉強しなくたって、心がこんなに満たされて来るじゃないの。達也さんはあと半年、〈無窮花〉の契約が終れば、私と一緒に韓国に行くのよ。そして母さんに挨拶と結婚の報告をするのよ。これが幸せでないなら何が幸せなの? 達也さんは私と話すために韓国語を始めたわ。「太古に言ありき」の言って、そこから愛が育っていく何かを言ったもののような気がする……。
英姫はエメラルドの指輪をくるくる廻しながら取り留めなくそんなことを考えた。
しかし、娘を日本にやるのは断腸の思いだと言った母のことを考えると、英姫の心は曇ってくる。
……日本に来てすぐに男とつき合い出して、半年そこそこで結婚まで決めてしまった娘を母はどう思うだろう。〈お金より、復学より大事なものを見つけたのだから〉そう喜んでくれるだろうか。母さんにわかってもらうには誤解のないように私の気持ちが説明できなくてはならない……。
日中の熱気で生温くなった水が流れる八王子浅川の岸辺。店に出る時刻を気にしながら落ち着かない私に目をつぶらせて、達也さんは私の指に指輪をはめた。そして目を開けた私に言った。
「僕らはお母さんを騙すわけじゃない。報告が早すぎると逆に心配するだろ? 半年後に契約が明けたら、すぐに僕は君のお母さんに会う。僕の実家ならまったく問題ない。それは言い切れる」
そう言って達也さんは私の肩を抱き寄せた。
「本当に僕でいいね?」
秋風が立って、容赦ない陽射しの残暑が忘れられた頃、英姫は達也に連れられて千葉に住む義母になる人を訪ねた。彼女はたまの休みに達也と出かける所はどこも楽しかったが、この日はさすがに緊張していた。群青色とクリーム色のツートーンの総武本線は達也の故郷の佐倉市に向かっていた。
「クィシン(鬼神)でもトッケビ(お化け)でもない、少しうるさいけど普通のおばさんだよ」
「そうじゃなくて……」
「何さ?」
「私の母にも分かってもらわなきゃいけないことだけど『ちゃんと考えたのか?』と言われると、うまく説明できないのよ。達也さんと知り合ってまだ半年よ。後先を考えない向う見ずな女と思われないかしら。私がホステスだって言ってあるのでしょう?」
「あゝ、隠しても仕方ないからね」
「きっと無分別なはすっぱ女だと思われるわ。私、なんで今日、来ちゃったのかしら」
「ウチの母さんはそんなこと思わないさ。会ってみればわかるよ。僕が心配してないんだから、君は心配してない僕を信用すればいいんだ」
玄関に出迎えた母親の早苗は、面影が達也に似ていた。英姫は少し安心した。
「初めてお目にかかります。英姫です」
「まァ、あなたが英姫さん? コマスミダ」
「……?」
「ひどい田舎でしょ、コマスミダ」
「……??」
「お口にあうかしらねえ、コーヒーはインスタントよ、コマスミダ」
「……???」
早苗は初対面のわずかな時間のうちに〈コマスミダ〉を連発して英姫を困惑させたのだった。
──そおぉ、じゃ、お父さまは亡くなられてぇ、コマスミダ。──お母さんはご健在なのね。早くお会いしたいもんだねぇ、コマスミダ……。 英姫はニタニタ笑っている達也の上着を引っ張った。
「私、困るわ。お義母さまはなぜ〈ありがとう〉ばかり言われるの?」
「〈何事にも感謝〉ってのがおふくろの口癖でね、〈コマスミダ〉しか教えてないんだ、あっはっは」
「お義母さまをバカにしてるの? とんでもないわっ。いやよ、私、そういうのっ」
英姫が怒った口ぶりになって、早苗が心配しだした。英姫は説明した。
「お義母さま、達也さんはバカですっ」
「え?」
「コマスミダは〈ありがとう〉です。〈そうですか、そうですね〉は〈クロッチヨ〉と言います」
「〈駒墨田〉って言ってれば間違いないって達也が言うもんだから。そう〈黒千代〉って言うの?」
「こらあっ、達也っ。おっまえ親に恥じをかかせてっ」
早苗はおおげさに拳を達也に振り上げて、笑った。
「おまえなんかよりこちらの娘さんの方がよっぽど先生だ、黒千代っ。英姫さん、駒墨田」
英姫は初対面の早苗に親しみを覚えた。……すてきな方だわ……。
「達也、先様にはいつご挨拶に伺うんだい、私もいっしょに行ったほうがいいだろ?」
「いいよ、僕ひとりで。半年先」
「こういうことは人を立てるのが筋ってもんだよ。だいじょうぶかねえ……」




