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(十六)夜明けの女神

 英姫は学資稼ぎの日本で、まさか恋をするとは思っていなかった。

 ……達也さんはいい声で話す。韓国語はまだ下手だけど、日本語も英語も彼の声を聞いているだけで楽しい。あの声は私の心にまでしみ込んで来る。彼はやさしい眼差しで私の心を捉えて放さない。……韓国に帰ったら、私は達也さんのことを忘れてしまうのだろうか。復学して大学を出て、社会人になって、新しい恋をして、結婚して、幸せな生活がこの人を忘れさせてくれるだろうか。考えただけで心が(ふる)える達也さんみたいな人が私の人生に、また現れるんだろうか。私の心はすでに達也さんと同居を始めてしまったようだ。なんで日本を一年限りなんて決めてしまったんだろう。なんで韓国に帰らなければならないんだろう……。


 英姫の休みの日に達也は、相模湖で夜景を見て来ようとドライブに誘った。彼は仕事帰りで、すでに夕刻だった。甲州(こうしゆう)街道を西に進むレンタカーの助手席で英姫の心は乱れた。

 ……いったい何を遠慮してるのよ、おかしいわ。達也さんも私も、お互いに遠慮しあってるのが、これほどありありと分かっているのに、どうして戸惑うの。どうしてためらうのよ……。

「富士山は遠いですか?」

「河口湖か。今からだと帰れなくなるかもしれないよ」

 英姫は(かす)かな声で言った。

「トラガゴシプチャナ」

 ……帰りたくないって?

 達也はアクセルを踏んで追い越し車線に出た。


 二人は河口湖畔のホテルに泊まって、翌朝は夜明け前に甲州街道を東に戻った。英姫は頭を達也の肩を持たせかけて微睡(まどろ)んでいた。英姫の顔が金色に輝き出して、達也は肩を揺すった。

「英姫、見ろよ。オーロラだ。夜明けだよ」

「ははは、やだ。オーロラは北極でしょう?」

「黄金色のアウローラはローマ神話の夜明けの女神さ。金の元素記号は?」

「Au」

「な? 僕は黎明(れいめい)の女神に一生を捧げる身になった。女神は後悔してないだろね?」

「バカなこと聞かないで」

 ……一生を捧げるですって? 私は昨夜のことを結婚と結びつけて考えたのではなかった。私は後悔したくなかった。達也さんと何事もなく別れるようなことになれば、むしろその方を、この先、後悔するだろうと思った。あんなことをしなきゃよかったと思う日に、私が今より幸せなはずがない。達也さん、あなたは私の今の幸せをずうっとこのままにして、幸せの格好をした不幸を寄せつけないでくれると言うのね?

「バカなことって、英姫ぃ、バカがバカなことを言っただけだから少しもおかしいことないだろ?」

 達也はにこにこしながら前方を向いたまま運転している。

「もう、いやっ」

 英姫はうれしかった。今までに、こんなにもうれしいことがあったろうか。二人の乗るレンタカーを、行ったことのない地中海に浮かべたヨットのように思った。じょじょに昇ってくる太陽を反射してキラキラと黄金色にさざ波だつ海面を想像して幸せだった。

 ……オーロラよね、達也さん……。


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