(十四)七十六日目
英姫は達也の出費を気づかって、二人は木曜日の昼間に会うことにしていた。私立学校では土曜日も授業をする学校が珍しくない。樫山学園の教員にも日曜日以外に各教科ごとに決められた研究日があった。達也が英姫に英語と日本語を教えて、英姫が達也に韓国語を教えるのが木曜日だった。
英姫は〈無窮花〉を一歩出れば、街にあふれるジーンズにTシャツ姿の大学生と変わらない。そして二人はどこにでも見かける恋人どうしだった。二人はこの日もありふれたファミリーレストランで言葉を教え合った。
達也は英姫が誤解するのを恐れて少しためらったが、自分のことは二人のことでもあるので、やはり知らせておくほうがいいと思った。
「ねえ英姫、近ごろ僕のまわりの様子が変なんだ。嫌な噂が立ってさ。RUMOR」
「ソムン(所聞)マルスミンデヨ(のことですか)?」
「ネー(そうさ)」
達也は辞書を引いて〈うわさ〉を指差した。英姫がその指先をおし退けた。チョッチアヌンソムニピジョッタ=よからぬ噂が広まった、という例文がのぞいて見えた。彼女は顔をしかめた。
「僕がキーセンに夢中なんだとさ」
「まっ」
英姫の唇が震えた。達也といるときの彼女には〈無窮花〉は頭にない。思いがけない話題だった。日本人が韓国人売春婦の意味でキーセンと言うことを知っているだけに、英姫にはショックだった。
「誤解するなよ。僕は君のことをキーセンなんて思っちゃいないんだから……」
達也の慰めはうれしかったが、英姫は慰められる自分が悲しかった。浮かない顔で辞書をめくっていた英姫の顔に明るさが戻った。
「タちゅヤシ、じしょキョファンしてあげますっ」
「キョファン? ムスントゥシエヨ(どういう意味)?」
「エクスチェンジしましょ。ここ見て」
彼女の辞書に、ソムネイリリシンギョンスジマ=噂をいちいち気にするな、という例文が載っていた。
「あっはっは。クマリマジャヨ(その通り)だね」
「わたしのじしょガすばらしいでしょ」
「そうだな、噂なんて気にしなきゃそれまでだものな」
二人は笑った。
「君に会うと元気になれるよ。そ、人の噂も七十五日さ」
「どして、ななじゅうご日?」
「ことわざだよ。現代の僕らに役立ってくれる古人の知恵さ。僕らは七十六日目が来るのを待てばいいんだ」




