(十一)篠山隆蔵というVIP
「お、ニューフェイスだな、ママ?」
「あら、篠山先生ったらお目がはやいのねえ。大学生の英姫です。お呼びしますか?」
「そうしてくれ。たいした美形だ。年を取ると気が短かくなってな、欲しいものはすぐにも欲しい、ヒッヒッヒ」
「いやですよぉ、先生。ホホホ」
フロアマネージャーのマイクの声が流れた。
「英姫さん、英姫さん。V2へお願いします」
篠山は太い葉巻きをくゆらしながら英姫を待った。
「おう、来たか。よしよし、ここに座れ」
「いらしゃいませ。英姫です。よろしくお願いします」
英姫は愛想良く微笑んで、篠山が手のひらで叩いた席についた。
「ことばがまだですのでね。私、いや、店の子が通訳しますから、だれか指名してやってくださいな」
「英姫を頼んで指名料が二人分か。相変わらず細かいね、あっはっは」
英姫には二人の日本語がわからない。 ……酌をするだけだわ。ことばなんか要らない……。
「社長様、どうじょ」
英姫は眼の前のコニャックの瓶からママに教わった分量を注いで、再び篠山の顔を見て微笑んだ。これだけが英姫の仕事だ。ママが韓国語で英姫に注意した。
「篠山先生は病院の院長先生よ。社長はまずいわね」
「しすれしました、いんちょせんせ」
「むふふふ、可愛いいァ。もっと近くに来いっ」
篠山隆蔵は韓国クラブ〈無窮花〉が八王子に出店して以来の客で、大きな個人病院の所有者だった。店はこの男を別格に扱う。篠山の人脈があって〈無窮花〉は潤っているからだ。医者や弁護士が多く出入りするが、みな黒塗りの高級車でやって来る。同じ韓国がついても〈家庭料理の店〉や〈居酒屋〉には見かけないVIPたちだ。
達也は英姫が呼ばれていった中二階を見上げた。
この店に初めてやって来たとき、会計は岳さんに任せた。翌日、折半にしてくれと申し入れると、四万だけ手伝って欲しいと済まなそうな顔で言われた。〈だけ〉と言うからには岳志が譲っているのだから、二人で十万は取られたろう。ここは高級クラブだ。店内を見回しても若い客は一人もいない。若者が迷い込んだところで、料金に懲りて二度と来ないだろう。ホステスをいつかモノに出来ると踏んで通いだしても、美人で教養もあるクラブの女は高くつく。資金が続かない。いい思いが出来るのは資金の続く者だけだ。教師やサラリーマンが遊べる場所ではない。〈無窮花〉のホステスは粒ぞろい。人件費の安い韓国から調達してくるので、美人度は相対的に高い。それで日本人クラブと同じかそれ以上の料金を取る。韓国クラブは利幅が大きい。
篠山はこのところ贔屓にしている純美を通訳に呼んで、命じた。
「純美よ、ヨンヒちゃんが何を欲しいのか聞いてやれ。そこそこ値が張るもんでもかまわんとな」
篠山の無神経さにムッとしたが、純美さすがに顔には出さなかった。……私はもうお払い箱か……。彼女は鼻にかかった声で甘えた。
「あら、パパ。通訳は無報酬じゃないんでしょう?」
美女であってもすでに金の亡者に成り下がった彼女は名門梨花女子大で日本語を学んだ才媛だ。〈無窮花〉にやって来たのは、今までいた世界を見返すための金が要るからだというが、詳しいことは分からない。
「いいか、ママには内緒だぞ」
篠山は葉巻きをくわえたまま、親指と人さし指をなめて三枚を純美に渡した。純美の、篠山にねだりながら英姫を見る目は〈新入りに負けたのではない〉と言いたそうだが、篠山は女を使い捨てる。新しい娘を見初めれば、古い娘に容赦はない。純美は自分が入店して間もなく世貞オンニを追い落として篠山の女になったのを思い出さないわけにはいかない。役目は終わった。……それならそれで、少しでも稼がなきゃ……。純美のホステス根性が動き出した。
「弁護士の田中先生がねえ、話がまとまると成功報酬っていうのがあるんですって。私が話せばさ、英姫は絶対OKだからね、パパ。もう少し色をつけてよぉ、ねぇ〜ん」
初物を狙う老人は通訳に頼らざるを得ない。篠山は彼女の手にさらに二枚を握らせた。
「わぁ、パパァ。だ〜い好きっ」
「現金なヤツだな。間違いなく取次ぐんだぞ」
純美は篠山の葉巻きを取上げて、顔を両手ではさみ、英姫の眼の前で〈んむぅ〜〜むっ〉と汚い口髭の下の唇にキスをした。
……梨花女大まで出て何でこんな虫酸の走るような老人に? 学歴不問の水商売が、欲が女を裸にしてしまう。母さんが心配したのもこれだわ。いいえ、母さん、私は大丈夫よ……。
純美がテーブルを回り込んで英姫の隣りに来て耳打ちした。
「たった一晩のことじゃないの。他の客からじゃそうは稼げないわ。ねっ、頼んだわよっ」
「アンデヨ、オンニィ。チョルテロ(絶対に)アンデッ」
「ケンチャナー」
篠山にも〈アンデ=だめ〉と〈ケンチャナ=構わない〉くらいは分かる。彼は純美が英姫を押し切ったと見た。
……金で転ばぬ女などいない……。
老人は、さっそく通訳を人払いした。
ブースの中で篠山と二人きりになって英姫は、気を張っているつもりでも、どんどん心細くなって、泣き出したくなった。……何をされるんだろう? 身体が硬直して思うにまかせない。老人の腕が彼女の首の後ろを這い、大きな手が肩をわしづかみにした。英姫は必死に身体をよじり顔をそむけて、篠山が飲もうとしないコニャックをゴボゴボと注いで〈どうじょ〉を繰返した。篠山は男の力で、右手を英姫の太ももの間に割り込ませ、英姫の唇を求めて口髭を乗せたぶあつい唇をとがらせてきた。
ギャアアァァーーー!
英姫の悲鳴が店内に響き渡った。客もホステスもみんなV2を見上げた。中二階はV1からV3の独立した三つのブースで、真ん中のV2は言わば〈無窮花〉の玉座だった。
達也はV席に駆け上がった。ママもすっ飛んで来た。
「せんせ、どうなすったんですか?」
「英姫っ、何をされたっ?」
篠山に不機嫌になられてママは顔色をなくしている。
「どうもこうもないな。OKしておいて何てこった」
ママが訊いた。
「英姫、どうしたのよ。あなた、先生に何か失礼なことをしたのっ?」
「したのはこのジジィよっ。いきなりアタシの股に手を突っ込んで来てさっ。冗談じゃないわっ、スケベジジィ!」
英姫はママをきっと睨んで続けた。
「こういうことは絶対ない高級クラブだと言ったのはママでしょ?〈無窮花〉は紳士の社交場で安キャバレーじゃない、安心よって言ったじゃないですかっ!」
ママは呆れて溜め息をついた。
……水商売をやろうって娘がいつからそんなことを真に受けるようになったのかねえ。だれだって察して、あきらめて覚悟を決めるんだ。英姫、お前はいったい何様のつもりだい……。
英姫は息を荒げて興奮している。
「ちょいと、英姫。あんた、アタシの顔をつぶす気ぃ? 後でエルメスでもプラダでも好きなのを買ってもらえるからって言ったでしょ、さっき」
いつの間に現れたのか、純美が口をはさんだ。
「あれだけハッキリ断ったのに、聞こえなかったとでも言うんですかっ! それを、まァまァとか言っちゃってオンニが勝手に話を決めたんでしょうにっ。私が日本語わからないと思ってトンデモナイ話よっ」
達也が篠山の胸ぐらをつかんで締め上げた。
「ジイさんっ、ふざけたことをすんじゃねえよっ」
「だ、だれだ、おまえは! ぼ、暴力はよせっ。ここは貴様のような若造が来るところじゃないぞっ」
篠山が息をつまらせた。
「勝又さん、止めてっ!」
ママがすかさず身を投げて二人の男を分けた。
達也は英姫を落ち着かせようと両肩に手を置くと、彼女の頭越しに篠山を睨みつけて吠えた。
「金を払えばジジィも若造もねえだろうがよっ」
「なによ、ピーピーがえっらそうにっ」
純美のことばに英姫の両肩の達也の手がビクッと動いた。達也に火の粉が降りかかると直感した英姫は語気を強めた。
「純美オンニっ、ジイさんから巻き上げた五万円をママにちゃんと説明しなさいよっ」
「えっ?」
ママの眉毛が吊り上がってキッと純美を睨んだ。
……英姫も英姫だが、純美の利権侵害は放っておけない……。
客とホステスの間を取り持って手数料を稼ぐのは、ママの独占権で店の子には許していない。
「純美っ、英姫っ、二人とも今日は帰んなさいっ」
純美は四つ折りにした五万円をポンとテーブルに放り出すと、プイッと店を出て行った。大方どこかの屋台で機嫌直しだろう。
英姫はロッカールームに入っていった。
篠山にペコペコ詫びて取りなしていたママが、達也に振り返った。
「勝又さん、英姫を寮まで送ってくださらない? いつまでもそんな恐い顔してないで、下で待っててくださいよ」
達也は店を出て外で英姫を待った。店内では機嫌の直らない篠山がママに訊いていた。
「あいつはどこの若造だ? あんな不愉快なのがこの店に出入りしてるのか?」
「いえ、ほんの二、三回ですよ。樫山学園の畑中って教師が連れてきて、仲間だと言ってましたから学校の先生でしょ。あんな若い人は長く続きゃしませんよ。ほっときましょ……」
「樫山学園だと? さっき、カツマタと言ったか?」
老人はニヤリと意地悪そうに口もとをほころばせた。
「センセもセンセ、初めての子にあれはないですよ。そのうちに何とでもしますから」
篠山隆蔵はもうママの言うことは聞いていなかった。




