(一)翻訳の依頼
創立六十年を誇るの樫山学園高校は都内ではそこそこ名の知れた進学校だ。その校長室のドアを開けて、勝又達也は改めて広いと思った。天井にまでとどく優勝カップやトロフィーを飾ったガラスケースを背にした梶井校長が思ったより小さく見えた。
「あ、勝又先生、お呼び立てしまして、どうも」
「はっ、いえ」
達也は校長室に良い印象を持っていない。ここは先代の渕上校長から何度も罵られた場所だったからだ。
……それにしても非常勤講師が校長からじきじきに呼び出されるのは事件だ。
勧められたソファに浅く腰を下ろして達也は校長のことばを待った。
「一週間先の火曜日ですがね、韓国の女子高から訪問団がやって来るのは知っているでしょ?」
韓国と聞いて達也はビクっとした。
……僕は朝礼でいちいち予定を知らせてもらえる専任じゃないものな……。
「いえ、特には何も伺っていませんが」
「そうでしたか? 仁川の瑞泉女子高等学校。うむ、なかなかの名門らしいです。教頭以下十三名です。それで、私が歓迎の辞を述べるんですが、少し見栄を張りたいんですよ、ははは。で、挨拶の冒頭を先生のお得意な韓国語、と言ってもカタカナにしてもらえませんか。原稿は明日にでも渡しますんで、ひとつ頼まれてください」
……そういうことか……
用件の中身が分るまではやはり校長室は緊張する。
「わかりました。やってみます」
「当日ですが、空き時間ありますか?」
「火曜日なら三、四限が空いてます」
「向こうからも通訳が同行しますが、レセプションの後半だけでもお手伝い願えませんかね」
「わかりました。二限を終えて十一時過ぎには伺います」
「よろしく」
樫山学園の教員にはたまたま韓国語の出来る者がなかった。それで非常勤の達也に校長の気紛れな白羽の矢が立ったというわけだ。
五十歳になった達也は独身だった。妻に先立たれたのでも離婚したのでもない。結婚しようとして叶わなかった。失敗した、いや、あれは失敗させられたのだ──。先代の渕上校長がまだ四十半ばで校長になりたてのときだった。もう二十年が経つ。




