八章 理想の都市の理想の生き方
暗闇の中で待機状態にあった中枢システムがわずかに火花を散らす。
――起動。
中枢システムが起動すると、背骨――脊髄を中心にして、ゆっくりと神経が待機状態からアクティブに変化する。外部の状況を読み取るのは皮膚で、空気の流れと気温、大気の組成を分析して周囲の状況を告げる。
状況、屋内。大気、正常。空調の入っている部屋の温度は適温。
機能停止から再起動までの経過時間は、二四時間ちょうど。
QXはゆっくりと目を開けた。柔らかな光に目を細める。光は一面ガラス張りになった窓から降りそそいでいた。
ここはどこだろう。上体を起こしながら周囲の様子を確認する。
QXの身体は、蓋のない棺の中に横たわっていた。棺は遺跡で自分が封印されていた棺と構造と機能が共通していた。ここの主は魔女の取り扱いを心得ているらしい。
頭上を仰ぎ見ると、深い樹木の色をした天井があった。
状況と経過時間を元にQXは顎に手を当て、思考を巡らせる。
何故自分は機能を停止したのだろう。兵器であるウイッチフレームが機能を停止することは自分自身が無防備になることであり、早々ありえないことだ。機能停止してから再起動までの間、QXは自分自身が制御不能の状態に陥っていた。
確か、最後に見たのは――。
「お、気が付いたか」
QXの傍らには椅子に座ったニコラがいた。気が付かなかった。手に文庫本を持っている。自分が起きるのを待っていたのだろうか。
「……ここは、どこでしょうか」
「ドミナントの中枢、本棟の図書塔さ」
「……そうですか」
自分はマスターと共にドミナントまでたどり着いた。そこまでは覚えている。
しかし、その直前が思い出せない。機能を停止した経緯も不明。時系列がシャッフルされたように曖昧だった。
「QX、わたしにキスをしろ」
ニコラの言葉を聞いた瞬間、驚きのあまりQXの身体は石のように固まってしまった。
「な、ななな何をいきなり言ってるんです!」
「だから、キスだよ」
「もっ、もしかしてニコラさんはそういった趣味があるんですか? めしべとめしべがくっつくのは生物学的に不自然なんですよ? ましてやわたしは魔女、ウイッチフレームですし!まさか同性愛でロボ萌えという二重属性?」
「おいおい何言ってるんだ、QX」
「イケメンなマスターとねんごろにならなかったのも、そういった性の倒錯があってのことなんですか? いや! 不潔! 百合百合レズビアーン!」
「……おまえが何を言っているのか私にはまったくわからん。マシン語か何かか」
手の平で赤面した顔を覆うQXに対して、ニコラは困ったように渋い顔をしていた。
「マスター登録には遺伝子採取とナノマシンの共有が必要だろう。私だって、好き好んでおまえとキスなんかしたくないさ」
「では、ニコラさんがマスターとくっつかなかったのは何でですか?」
「レイン君は弟のようなものだよ。向こうだってそう思っているはずさ」
「そうですか。ではわたしが見た、マスターの視線がニコラさんの胸元を秘かに凝視していたのは錯覚だったのですね」
それを聞いたニコラの顔色が驚愕に染まった。なぜか頬も赤くなっている。
「な……! レイン君はああ見えてムッツリだったのか!」
「そうですよ、私を見る目だってエロかったことがあります!」
「まあ、あの年頃の男の子はそうだからな。それにしても……つかぬことをきくが、QX、おまえはレイン君と性交渉はしたのか?」
今度はQXが驚く番だった。あまりにストレートな質問だったからだ。顔色の変わったQXに対して、ニコラは悪戯そうに微笑んでいた。
「それは、その……」
「どうした、もじもじしていては分からんぞ。いまさら恥ずかしがることでもあるまい」
「わたし、手を出されたことがないんですよ」
「……なに?」
「だから、手を出されたことがないんですって。私に魅力がないんでしょうか」
「さあな。おまえのことは大事にしていたようだったから、魅力がないということはあるまい。ただな」
「……ただ?」
「関係性を変えたくなかったのかもしれん。一線を超えたところで結びつきを強くする恋人もいれば、飽きて愛想を尽かす奴もいる。人それぞれだがな」
「人間が関係性を変えたくない、つまり現状維持を望むのはなぜでしょうか」
「その人とより長い時間一緒にいたいからさ。もう過ぎたことだがな」
「……過ぎた、こと?」
過ぎたこととは何のことだろう。それになぜニコラは自分とマスターのことを過去形で語るのか。自分にはレインというマスターがいるのにニコラがマスター登録しようとするのも、改めて考えると変だった。
ここにはなぜマスターであるレインの姿が見えないのか。
「マスターは、どこですか」
混乱する自分を尻目に、ニコラは平静そのものの顔をしていた。それがかえってQXを不安にさせる。ニコラは自分の知らないことを知っている。
「しかし、驚いた。もっとレインくんに、捨てないでくれとか言って泣きつくかと思ったのにな。まあ、おまえにそんなこと言っても始まらんか」
「……ニコラさん、あなたがなにを言っているのか分かりません」
「おまえが前のマスター……レイン君と別れた時のことさ。流石ロボット。事務的であっさりとしたもんさ。さすがにレイン君が可哀想になって来たよ」
「ニコラさんが何を言っているのか、私には分かりません。記憶にありません」
「そりゃ、フォーマットが終わっているからな」
「フォーマット? なんですそれ」
「知らないのか。マスター解除した魔女は、前のマスターの記憶をすべて失う。鹵獲した敵の魔女を使う際に、いろいろと不都合があるからな」
「わたしはマスター解除されたんですか?」
「ああ」眼鏡越しのニコラの視線が、わずかに同情の陰りを見せた。
自分のあずかり知らぬところで事態が勝手に進行していることに、QXは困惑よりも怒りを覚えた。
何でマスターは勝手に自分を放り出した。なんでわたしは知らぬうちにそれを受け入れた。自分で選択し、苦悩した結果ならそれを受け入れることもできるはずだった。しかし、わたしは何も知らない。
「マスターの馬鹿!」
叫ぶなりQXは弾けるように立ち上がっていた。身体にくくりつけられた計器の端子やコードが音を立てて床に飛び散るが、構っている余裕なんてない。
「わたしはマスターのことを忘れてなんていません。マスターはどこですか!」
「……おまえ、フォーマットはどうした? 初期化が済んでいないのか?」
「フォーマットだかゴムマットだか知りませんが、そんなのはどうだっていいです! マスターの名前はレイン・カリフ。性別男。年齢は一七歳。身長一七〇、二センチメートル、体重五六、七キログラム。血液型はRHプラス。わたしは、マスターのことを忘れてなんかいません!」
唖然としているニコラを尻目にQXは頭から湯気を出しながらのっしのっしと歩きだした。生き先は部屋の外であり、マスターであるレインのもとだ。ここがドミナントなら、マスターもどこかにいるはずだ。マスターも仕事を探すためにここに来たのだから。
どうして自分はマスターを追おうとするのか。簡単だ。マスター解除、捨てたという事実が納得いかないからだ。理由がどうあれ、事情があっても、この目で見て確かめる必要がある。ひとまずここを出なければ。
図書塔の一室は板張りの床で構成され、とても広い場所だった。波の人間が全力疾走しても端に行き着く前に途中でへたばるほどの広さだ。だがその空間は巨大な書架が整然と並んでいて、走るには障害が多すぎる。
そのなかをQXは走る。文字通りの全力疾走だ。風を切り、書架の表面がびりびりと震える。
「!」
書架の林の間から、長身の人影が進路上を横切るのが見えた。床に全体重を乗せ、急ブレーキをかける。それでも勢いがすぐに収まることはなく、甲高い摩擦音と共に足元が少しだけ滑ってから止まった。
焦げ付いた匂いがQXの足元に漂っていた。煙が足元にうっすらと立ち込めるが、消火設備が作動する気配はない。床からゲル状の水が染み出し、燻っていた火は収まった。
「あらあら、元気な娘ね」
QXの目の前にいるのは、白いローブに身を包んだ長身の人影だった。女性で、紫の髪、近の瞳。猫のような雰囲気を持った彼女は間違いない、魔女だ。
QXは違和感を覚えた。魔女には必ずマスターがセットになっているはずなのに、彼女のマスターはなぜそばにいないのか。空気の流れからこの広間にいる人間の数を瞬時に観測するが、ここにいる人数は自分を合わせて三人。
見ると魔女の右腕、袖から先にあるはずの手首がなかった。肉体の損傷を自動回復できていない彼女は、Feと同じいわゆる「壊れた魔女」なのだろうか。
QXの目の前に立ちはだかる魔女は、笑みのかたちをした口を開いた。
「どこに行くというの? あなたのマスターはあなたを放棄したというのに」
「だから、抗議しに行くんです! なんで放棄したのか理由が知りたいんです!」
「抗議したとしても結果は変わらないわ。事実にあなたは打ちひしがれることになる。あなたは砂塵の魔女なのだから」
「砂塵の……魔女?」
「そうそう、自己紹介が遅れたわね。私はVA。よろしくね」
VAが左手を差し出すのを、QXは恐る恐る握った。
VAは「砂塵の魔女」、つまりQXが暴走した顛末を語り始めた。まるで楽しむような口調が癇に障ったが、聞き終えた時にはQXは平静ではいられなかった。膝が力を失いかけるが、なんとかこらえる。
何故か知らないが、この魔女の前で弱みを見せる気になれなかった。
「……マスターはわたしを戦わせたくなかったんです。ですが、私が行かないと砂賊の皆さんが」
喘ぐようにQXは弁解を口にした。それを見たVAが悲しそうに目を伏せる。
「台無しにしてしまったのね。あなたがやったことは、結果的により多くの死者を生み出したのだから」
「……そんな」
「あなたが間違っていたのよ。暴走したあなたは、魔女狩りの軍勢を退けた。でも、そこで暴走が止まることはなかった。あなたは私が止めなければ、もっとひどいことになっていた。守ろうとした砂賊の人々や、自分のマスターまで手に掛けようとしたのよ」
「……そうなんですか」
「あなたを引き受けられるマスターなんていない。現にあなたのマスターはあなたを手離した。いまさらどうやって会いに行くというの?」
「……それは、」
「いいマスターだったのに……もう暴走はしません、忠実に命令に従いますから、と言っても無理よね。命令に従わず、暴走した事実が消えることはないのだから」
「ですが、わたしはマスターを忘れられません……!」
「奇妙な娘ね。検査したときは何も、誤作動らしき兆候は見えなかったというのに……ここにはマスター候補がたくさんいるわ。私が集めたんだもの。ここでゆっくりと次のマスターを見つけるといいわ」
「……」
QXは打ちひしがれ、床に這いつくばっていた。全身から力が抜けていた。その様子を見て、VAは微笑の表情をまったく変えずにQXに背を向け、去っていった。
ひとりきりになったQXの肩を、ニコラの手が優しく触れた。
「……よく考えることだ。君がレイン君のそばにいることが、レイン君にとって本当に幸せなことなのかを」
「たしかにわたしは、戦うべきではなかったのかもしれません。でもあの時戦わなければ、砂賊の人たちが死んでいました」
「そうだな。私も死んでいたかもしれん。感謝しているよ」
「これからわたしはどうすればいいのでしょう」
「レイン君がおまえを戦わせようとしなかったのには、結果として正しい。確かな理由があるんだ」
「……なんですか」
「QX、魔女が戦い続けるとどうなるか分かるか」
「戦闘経験が蓄積される……?」
「そう。戦闘経験が蓄積されていくことで、魔女はさらに強くなる。そのかわりに、失うものだってある」
「……なにか、失うのですか?」
「人間性だ。思考が高速化されることで、人間で言う躊躇いや逡巡を失い、効率化へと走る」
「それのどこがいけないのでしょうか。優秀だということではないのですか?」
「人間性を失った魔女は、人間の側に居られなくなる。人間とかけ離れた存在になることは危険なのだ」
「それでは、私はどうすればよかったんですか。自分勝手です、人間って……!」
血反吐を吐くようにQXは呻いた。
マスター、レインが望むQXの姿は、兵器としてのものではない、普通の人間の少女のものなのだろう。しか、QXの本質は兵器であり、自分はその能力をマスターの望む形に行使しただけに過ぎない。
なのに、どうしてマスターは自分を手離したのか。どうすればマスターに会えるのか。
理由が知りたい。
「……ニコラさん、わたしはここを抜け出したいのです」
「そう言うと思ったよ」
ニコラがわずかに微笑んだように見えたのは、気のせいだろうか。
独立都市ドミナントにレインが迎えられて、約二週間が経過していた。
穏やかな生活だった。朝起床して、工場に赴く。工場では大河のように延々と続くラインのなかでの流れ作業。仕事は交代制で、引き継ぎを終えると夜になっている。そして手配された寄宿舎に帰宅する。その繰り返しだ。
このドミナントでは、兵器に内蔵される電子回路の製造をしている。
作業の内訳は、主に電子部品のチェックだ。チェックは電子顕微鏡を使って行うが、今のところ不具合はひとつも見つかっていない。
作業員の一人が言うには、この作業に実際的な意味はないらしい。ラインの上流に立つのは機械で、流れてくる部品に人の手はかかっていない。チェックするのは、根本的なところで人が機械を信用していない証拠なのだという。
単に、人が手持ち無沙汰になっているだけではないのか。そして、有能な機械に対してわずかでも優位性を見せつけたい、上位に立ちたいと張り合っているようにも見える。虚しい努力だ、と断ずる自分は人間としてのプライドがないのだろうか。
作業は立ち仕事で、立ちっぱなしだと膝下に血が凝り固まったような感覚になり、時々屈伸をしないと歩みがどこかおかしくなる。顕微鏡に向かっているが、やはり目が疲れる。レインは作業机に置いているペットボトルの水を手に取り、喉に流し込んだ。じわりと発汗量が増し、わずかながら血流が促進した実感がある。
人間は、もっと複雑で創造性のある仕事をするべきではないだろうか。いまレインがしている細かで単調な仕事、危険な仕事は機械に任せた方が正確で、しかも機械は疲れを知らない。
ノルギスの言うことはもっともで、確かに人間の感覚や正確さには限界がある。どこかで魔女がそういった作業をしているのだろう。目の前にある半導体も、魔女が製作したものなのかもしれない。これが魔女と人間の共存なのだろうか。
都市に入ってからレインは魔女を見かけたことがない。いったいQXはどこにいるのだろうか。せめて幸せにしていてくれればいいと思うが、レインにQXの消息を確かめる術はなかった。
この都市で暮らす住民たちはお互いのことに無関心で、箝口令を敷かれているかのように噂話すら立つことがないからだ。
まるで去勢された家畜のようだ、とレインは思った。
工場を出ると、薄ぼんやりとした太陽がレインの頭上にあった。有害な紫外線を防いでいるらしいが、見慣れないのでどことなく落ち着かない。
今日は早番で、夜も明けきらないうちから出勤する代わりに、夕方になれば仕事は終わりだ。
工場の煙突から煙が立ち上るのが見える。その足元に、いくつか簡素な棺が立ち並んでいるのが見えた。
鋼材を燃やす焔のなかに、人間の遺体が使われているのだ。
「……えげつないな」
レインはぼそりと口にした。
生命活動を終えた人間は、たんぱく質やカルシウムからなる単なる物体だ。よって、焼却炉に投入される。
もちろん、燃料として使われるのだ。確かに燃料として使われれば、その焔は人の役に立つ。場合によっては、凍えた人の身体を温めるかもしれない。
しかし、違和感がある。レインの住む港街では、人が死ねば必ず葬式をし、遺体は火葬にされた。火葬によって生ずる炎は、人の心を慰めこそするが、実質的に何らかの利益を生み出すことにはならない。
きっと市長であるノルギスは、そんな感傷は斬って捨てるだろう。
レインが今まで過ごしてきた生活は無駄の多いことなのかもしれないが、それがレインにはとても価値のあることのような気がしてならなかった。
ふと、砂上戦艦で行われた葬式を思い出す。あのイノシシ女は、立ち直っただろうか、元気にしているだろうか。
Feたちの砂上戦艦は、数日後にはドックから姿を消していた。別れを言いたかったが、QXとあんな別れ方をしてしまった自分がFeたちに歓迎されるとは思えなかった。
街を歩いていると、いつになく人出が多い。それになにやら騒がしい。表どおりを見ると、長い隊列によって一般市民の通行が遮られていた。
“兵器を製造するドミナント市長、ノルギスを許すな!”
隊列を成す人々が持っているのは手作りのプラカードや旗で、人目を引くように原色や毒々しい色で市長を糾弾する文句が並べ立てられている。板を持っているのは、工場の作業員の制服を着た連中だ。着ている制服はどれも機械油の汚れがこびりつき、使い込まれた跡があった。きっと彼らはこの街に来て長い、古参の連中なのだろう。
プラカードの要求から察するに、政治的なデモをおこなっているようで、珍しいことだった。
デモ隊が目指しているのは大通りの突きあたりにある、巨大な煙突のかたちをした工場の本棟だった。そこには図書館や役所、そして市長の執務室があると聞く。
デモ隊を目の前にして、警備員たちが横に列をなしている。彼らは暴徒鎮圧用のガス銃を持っていて、半透明の盾を前方に掲げていた。今のところ手を出す気配はないが、デモ隊が少しでも急な動きを見せれば容赦なく発砲する。
デモ隊も武器を持っていないわけではない。銃こそないが彼らは燃料を入れたペットボトルや電動工具、鉄骨などを懐に持っていた。
デモ隊と警備員たちの列はにらみ合い、一触即発の状態だった。ふと人ごみの中に顔見知りの作業員を目にしたので、話を聞いてみる。
「何があってるんですか?」
「このプラントで作られているのが兵器に転用されているって話さ。集光蓄積機関なんて、別にそれ以外でも使われているだろうに」
吐き捨てるように言う男は、このデモのせいで工場に入ることができないことに明らかに不満を抱いていた。
今目の前にいるデモ隊連中の数は相当なもので、レインや作業員にとって同僚にあたる。デモ隊が工場に押し入ることがあれば、きっと後にしこりを残すことになるに違いない。
「やあ、おはよう皆さん。なにかご相談ですかな」
閉鎖されていたはずの工場の正門から出てきたのは、灰色のスーツを着た男だ。特徴のない風貌がかえって印象に残る。その姿はこの市に入るときにレインも会ったことがあった。
彼がこのドミナント市の市長、ノルギス・カミングマンだ。
「ふざけるな、よくも騙してくれたな!」
デモ隊の男がノルギスの前に走り出る。警備員がつまみ出そうと動きを見せたが、ノルギスはそれを手で制した。
「騙すも何も、私があなた方に何かお約束をいたしましたかな」
「これだ!」
男が何かを路地に叩きつける。それは加粒子ライフルの砲身だった。
「お前は言ったではないか、この街で作っている物は電子機器で、輸出先の発展に役立てていると!」
「はい。確かに言いましたね、私は」
男の激高する様子を風と流すノルギスは、涼しい顔だ。
「それがなんだ! こんな、人を傷つける兵器なんか作らせやがって! こんなもんが輸出されてみろ、輸出先は発展どころか、衰退させているじゃないか!」
「おや、話がかみ合わないようですね。あなたのおっしゃる発展とは、どのようなことを言うのでしょうか」
「決まってるだろう、発展は発展だよ。都市が拡張し、人口が増加する。それが発展だろう!」
「おや、奇異なことをおっしゃる。発展するのはなにも都市に限ったことではありません。戦争行為は野蛮なものです。古くは拳で相手を殴りつけることから始まり、人は剣を手に取り、そして今銃を手にしています。
私たちの商品は、戦争という状況の発展を促しているのですよ」
立て板に水の勢いで持論を展開するノルギスの表情を全く変わることがなかった。対する男は反論する論拠を見失っているのか、鼻白んでいた。
「……詭弁だ! そんなもん、ただの屁理屈だ!」
「ですが、その屁理屈によってこの街は潤っているのですよ。それに、兵器を製造することにどんな後ろめたさがあるというのです。
兵器はひとりでに動いて人を殺すわけではありません。使うのは人なのです」
「それは、しかし……」
「兵器はこの世に溢れています。綺麗な兵器というものは存在することがないのがこの世の常ですが、私たちは売る相手も選んでいます。私たちは弱者の味方であり、兵器は弱者にこそ必要なものです。なすすべもなく自分を、家族を犯され、殺されようとしている弱い人々に、その残酷な運命を覆すことさえ許されないというのですか、あなたは」
「……俺はそんなことを言っているんじゃない!」
「ならば、どうだというのです。私は貧しき者をこの都市に集めました。救済のためです。兵器を製造する仕事は確かに、必ずしも弱者を救うことがないかもしれませんが、ならばあなたはどうしようというのです」
一息にしゃべってからノルギスは固唾を飲んで見守っている群衆を見渡した。
「また外に出て、いわれのない暴力や略奪にその身をさらすというのなら好きにすればいい。ですが、この市民を守るのは私の義務です。破滅へ導こうととするならば、容赦はいたしません」
「……この、偽善者が!」
男は懐から拳銃を取り出した。衝動的に身体が動いたのかもしれない。だが、その行動は自ら話し合いを放棄したという風にしか見えなかった。
「俺の家族は、この銃に殺されたんだ。この街に呼び寄せようとしたが、住んでいた街は瓦礫の山になっていたんだ。どう思うよ、自分の作った兵器で自分の家族が殺されているのを見る気分はよお!」
男は銃を持つ手つきは確かで迷いがなかった。その様子をノルギスは微笑とも、怒りとも判別できない表情でない表情で凝視していた。
銃声がその場に響き渡った。
「なんだ、おまえは」
震える声で男が呻くのが聞こえた。
男の銃は銃口から硝煙を上げていた。銃弾は正確な狙いだったにもかかわらず、寸前でノルギスに届いていなかった。
男とノルギスの間には長身の女が立っていて、銃弾は蛇のように動く紫の髪に鷲掴みにされていた。
紫の髪の女は魔女、VAだ。
「あなたはお疲れのようです。休養をおすすめいたしますわ」
上品な口調でVAが言った。
「……そうだな。うん、そうしよう」
どういうわけか、男は即座にのろのろと銃を懐にしまい、姿勢を元に戻していた。
「調べたところ、君の有給は三週間ほど残っている。引き継ぎは他のものにやらせるから、一度カウンセリングを受けてみてはどうかね」
「……はい、そうします。市長」
人が変わったような男の無気力な声は、まるで生気を吸い上げられてしまったように見えた。一時の勢いを失ったデモ隊はリーダーを無力化された今になってざわめき出し、判断に迷っていた。
「では、解散。皆、持ち場に戻ってくれ。VA、遅れた行程は夜の操業時間で対処できるか?」
「はい。二日で誤差の範囲内に抑えることができます」
VAはノルギスの質問に的確に答えていた。彼女はノルギスの危機に迅速に対応した。VAのマスターはノルギスなのだろうか。
デモ隊は半日と経たずに解散された、と聞いたのは工場内で聞こえる放送の中でだった。
工場は平常通りに稼働していた。しかし、人数が減った実感がある。レインは電子顕微鏡から目を離し、眼を揉んだ。
デモが行われた日を境にして、交代時間が長引いている。交代時間が長引くということは、人員が確保できていないということだ。もっとも仕事はしてもしなくてもいいという程度のものだ。もしかして自分の待遇は、QXを引き渡した対価によるものなのかもしれない。
そう思うと、なにか落ち着かなくなる。どういう風に取り繕ったとしても、自分がQXを売り渡してしまった事実に変わりはないのだ。
QXに会いたい。せめて、元気にしているかが知りたい。
だが、会ってどうしろというのだ。もう一度マスター登録でもするのか。あんな手酷い捨て方をして、今さら勝手すぎる。
ひとつだけレインの頭の片隅に引っ掛かっていることがあった。QXと別れた時の、人が変わってしまったような態度。あれはどういう意図によるものだろうか。
マスター解除した魔女は、どれもあのように振る舞うようにプログラムでもされているのだろうか。それとも、あれがQXの本当の姿なのか。
確かめるには、やはりQXを見つけるしかない。
「よし」
衝動的にレインは席を立ち、机に備え付けの受話器を手に取った。
“はい、こちら事務所。不具合の報告ですか?”
「はい、人間の不具合です。俺、気分が悪いので、早退させてください!」
夜の工場は、暗闇のなかに巨大な積み木が無造作に置かれているように見えた。
申告さえすれば工場から抜け出すのは簡単だった。カードを通し、退勤手続きをする。
QXがどこにいるか、情報はまったくない。そんな中で飛び出してきたのは無謀だと言えたが、少しだけ心当たりがあった。
街の中心にある工場本棟だ。行政施設のすべてが集約されているそこなら、QXがいるとしても不思議ではない。
幸い、医療施設も同じ本棟にあったのでレインは迷うことなく脚を速めた。
夜の街は人通りが少ない。店らしきものもあるにはあるが、生活必需品を取り扱うだけだ。この街には娯楽の類がひとつもない。無菌の街と形容してもおかしくないほどだ。そんな街の生活に拒否反応を起こしかけている自分は、世間の汚泥に汚れきってしまっているのか。デモ隊の連中の不満は兵器の製造ではなく、こういったことにもあるのかもしれない。
しばらく歩いてゆくうちに、巨大な石臼のような建物がレインの視界に飛び込んできた。
工場の東館は、警備のためかスポットライトで下から照らし出されていた。
「……」
ここにQXがいる、と感じるのは何故だろうか。思い込みや錯覚と言うには、あまりに確信に満ち溢れている。もしかして、QXと共有していたナノマシンの残滓がそのありかを告げているのか。
「……?」
なにやら様子がおかしいと気が付いたのは、裏手で人の気配がしたからだ。
資材搬入口と書かれている長いスロープに、人々が列になって並んでいる。誰も無表情で、一言も話すことがない。
何が行われているのだろう。近くによると、その異様さはさらに加速した。
誰もこちらを見ることがないのだ。視界にレインの姿が入っているはずなのに、気に留める者が誰もいない。
「……どうなってるんだ」
まさか集団で夢遊病にでもかかっているのか。虚ろな表情をした人々の顔をよく見ると、彼らにはある共通点があった。
彼らが支給された工場のつなぎを着ていることと、先のデモに参加している人間が多数を占めていたことだ。
「……この前のデモ隊の人たち?」
間違いない。彼らはデモ隊の面々だった。デモは解散したはずなのに、なぜ今になってこんなことをしているのだろう。再び騒ぎを起こそうというには眼の力がなく、肩が垂れ下がっている。脚を引きずりながら前に進んでいる様は、まるで死人が動いているようだった。
レインは人々の列に紛れ込んだ。横入りをとがめる者はいなかった。レインが入り込んだ隊列は牛の歩みの速度でスロープの先、資材搬入口に入っていった。どうしてそんなことをしたのかは分からない。しかし、直感が告げていた。
ここには何かある。
建物の中に入ると消毒液の匂いと白熱灯の光がレインを迎えた。
建物の天井は高く、工場のような病院のような、殺風景な場所だった。列に並ぶ人々が白衣を着た医師風の者たちに検診を受けていた。
大勢の人々が検診を受けているにもかかわらず、衣擦れの音一つもらさないほど静かなのは異様だった。指示を受けることがないのにデモ隊の人々は列に分かれ、淡々とツナギを脱いで下着の状態になる。彼らが通る長いゲートは体内をスキャンする装置であり、ゲートの出口でさらに枝分かれが進む。入り口からいったいどれだけの人数が通ったのか分からないほど多数のツナギが脱衣籠には山積みになっていた。
ふと、頭上を仰ぎ見ると、そこには水槽があった。レインが住んでいた村のプラントと基本的な仕組みは同様だが、大きさは桁違いだった。今まで気が付かなかったのは、それが水槽とは認識できないほど巨大だったせいだ。ドミナントに供給される水を賄うのならこれくらいあってもいいかもしれない、と思った刹那、水槽の中に影を見つけた。
「……なんだ、あれ」
水槽の中に浮かぶ棒のようなもの。水流に洗われ、ゆらゆらと泳いでいるように見える。
それは二の腕だった。二の腕はそれ自体が命を持つように動き、傷口から絶えず血液を垂れ流している。
水の中にあって何故ふやけないのか、腐らないのか。血を流しているが、その血液はどこから来るのか。吐き気を抑えつつレインが考えを巡らせたあげくに出た結論は簡単だった。
あれは、魔女の腕だ。
魔女、ウイッチフレームはナノマシンによる自己修復機能を備えている。あの腕は斬りおとされたのちに水槽に入れられ、自己修復機能によって生きながらえているのだ。
そこまではわかった。でも、何故?
「わっ」
不意に背中を押され、レインは床に倒れてしまった。後ろを見ると多数の半裸になった人々がいた。ただ無言で脚を動かし、こちらを身もせずに踏みつけようとしている。
「なんなんだよ!」
転がるようにレインが列の脇に抜けると人々は体勢を整え、再び歩き始めた。まるでベルトコンベヤで流される製品だ。
「おや、君は」
白衣の男が歩んできたのに対して、レインは自分が列に横入りしてきたのがばれてしまったと観念した。
白衣の男はノルギスだった。なぜ市長ともあろう人がこんなところにいるのだろう。
「……いや、道に迷ってしまって」
「そうかい。ちょうどよかった。具合が悪いそうだね」
「はあ」
「よかったら見ていくかい」言いながら歩き出すので、レインはノルギスの背を追った。長い階段を上ると眼下には多くの人々がひしめき合う様が一望できた。
「何が行われてるんです?」
「何って、最適化さ」
「……最適化?」
「そう、最適化。この世界で人が生きていくための、最適化さ」
ノルギスが顎を振った先には工場の生産ラインがある。ベルトコンベヤに部品が載せられ、いくつかの行程を経てコンベヤから降ろされる時には、商品が完成しているというものだ。
「嘘だろ……!」
レインはラインに乗せられている「商品」を見て愕然とした。
ラインに乗せられているのは、人間そのものだからだ。
使い回されているのだろう、血糊の付着した椅子に人が座るや否や、椅子はベルトコンベヤの上をゆっくりと進む。その間に椅子に備え付けられている拘束具が人の四肢を関節ごとに抑えつける。姿勢や頭の角度が固定されていくのは、その先にあるものが「作業」をやりやすくするためだ。
機械の腕の先にくくりつけられているのはバリカンと剃刀だ。物言わぬ人の頭を素早く丁寧に、皮一枚になるまで削ぎ取る。次に待っているのはスプレーで、頭部の一点を見分けがつくように正確にマーキングする。まるで人間に値札をつけているように見えた。マーキングされた部分は硬貨ほどもない極小の○で、何かの狙いを定めるのだろうか。
「……!」
その次にあるのは、回転するドリルを備えた機械の腕だった。錐のように鋭いドリルは消毒用アルコールの刺激臭と例えようもない禍々しさをはらみ、躊躇なく人の頭にドリルを突き立てる。
機械の甲高く無慈悲な音が、人の悲鳴のように聞こえた。
それから先を見ることはできなかった。膝が震え、胃がねじくれ曲がる。レインはその場にうずくまり、胃の中にある全ての物を吐き出していた。
「……こんなこと、人権はどこに行ったんだよ!」
「涙目で言われてもねえ。だから最適化、と呼んでほしいな」このような景色を見慣れているのか、ノルギスはにべもない。
「こんなものが、最適化だって」
「そうだ。人間の攻撃衝動や情動を極限まで抑える、それこそが現代の混乱に満ちた世界に生きる人間を救う最も適した手段だよ」
「何が最適化だ。あんたたちがしていることは、ロボトミーじゃないか!」
「そうとも言うね。前頭葉の切除手術。意外と物知りじゃないか、レイン・カリフ君」
ノルギスが感心したようにうなずいた。
前頭葉の切除手術は、悪名高いロボトミーとして過去に行われた手術だ。精神病患者や犯罪者に対して行われ、攻撃衝動を抑えることに成功した実例があるが、反面無気力になる、情動に対する障害をもたらす、脳機能の停止という致命的な副作用がある。
こんなことをなぜ自分が知っているのか。レインは記憶にないが、どこかの書物を盗み見たことがあるのかもしれない。
「ロボトミーは人間をロボットにするのが語源だと思っている人もいるが、違う。ローブ(葉) をトミー(切除、摘出)する、の連続でロボトミーさ」
「ご高説はいいからさ。攻撃衝動や情動を抑えるってあんたは言ったよな。それなのに、なんであんたたちは兵器をつくって輸出しているんだ。内の人には極限まで戦いを制限させて外の人々には殺し合いをさせようってのか。そういうのを二枚舌って言うんじゃないか?」
「そうだね」
ノルギスはあっさりと肯定してしまった。屁理屈でまくしたててくることを想像していたレインは二の句が継げなかった。
「戦争は何も生み出すことがない、非生産的行為の代表だよ。それを加速させれば世界はどうなる?」
相手のペースに飲まれてはいけない。レインは質問に答えるべきか悩んだが、打ち負かすことができるならそうしたい。なによりも、力でかなうはずがないのだ。
自分はもうQXのマスターではないのだから。
「……人が死ぬ。世界が、疲弊する」
「そうだ。金と引き換えに相手に武器を与えることは、世界全体から活力を奪う行為だ。でも、武器は私たちが進んで差し出しているわけじゃない。相手が望んでいるのだよ。あいつを殺したいから武器をくれ、とね。こればかりは抑えようのないことさ」
ノルギスの言葉は一見正しいように聞こえる。しかし、そこには穴があった。
「……武器を供給して、その武器があんたたちに向けられないという保証はあるのかよ」
「あるね」
ノルギスはきっぱりと断言した。
「なんでそう言い切れるんだ! そのうちこの街をあんたの作った武器で焼き払われるかもしれないんだぞ!」
「そんな可能性はないといっているだろう」ノルギスの声が神経質な苛立ちをみせる。
「メデューサ現象を知っているかい? 魔女、ウイッチフレームが機装状態に入り、戦術行動を取った時に現れる、制御下以外の下位の兵器が稼働不能になる現象さ。私の作る兵器は、その影響下に必ず入るように設計しているのさ」
「相手がウイッチフレームを、魔女を持ち出してきたときはどうするんだ」
「おや、君は頭の回転が速いね。さすが魔女の元マスターといったところかな。だが、私たちが備えをしていないわけがないだろう」
「……」
「相手が魔女を持ち出して来ようとも、我らの武器の制御は奪われることがない。そのようにプロテクトを掛けていからね」
「……そういうことかよ」
ノルギスの主張は自分勝手ではあるが、よく分かるものだった。外に武器を供給し、争わせる。その間に、自分の街は人間と資源を蓄える。
「戦争は難民を生み出す。この街の人口が増えて手狭になるころには、周りの軍事勢力はすべて共倒れを起こしているはずさ」
「だからと言って、あんたの言っていることを正当化なんてできるわけがない。人に手を加えるなんて。そんなにロボトミーが好きなら、あんたもしたらどうなんだ!」
「さて。考える立場の人間がいなくなれば、この迷える無気力な子羊たちを、どこに導けばいいのでしょうか」
おどけた口調でノルギスが言う。態度がころころと変わる様に、レインはこの男が全く信用できないことが分かった。
「そんなのそれぞれ自分たちで考える! あんたがどうこう言うのは、お門違いじゃないか!」
「それぞれ考える、いい言葉だね。自主性を重んじる、機会、権利の平等。しかし、どんな愚か者に対しても、その権利は同じことだ」
突然ノルギスは甲高い笑い声を上げ始めた。機械の稼働音に満ちた工場で響き渡る声に気を留める者は誰もいなかった。
「なにがおかしい!」
「その平等が衆愚を生み出し、強権なき国家を樹立させた。そして、理性を失った衆愚のヒステリーは戦争と魔女戦争、大変動をもたらした。私は、単にそれを回避させたいだけなのだよ。攻撃衝動を失ったからと言って、人間が生きていけないわけではない。管理された社会では美徳でさえある。特に、大変動以後の世界での攻撃衝動は自身を危険に晒すきっかけになることも珍しくはない。私はただ、人が我欲を出すべきではないと言っているのだよ」
「だから、俺の頭にドリルを捻じ込もうってのか……!」
「そうだ、いいことを教えてあげよう、レイン・カリフ」
ノルギスがにやりと笑う。
「自由とは強者の論理だ。法が生まれてから、弱者の側に立った法などただの一度としてありはしない。一見自由に、平等に見えることこそが、権力者の罠なのだよ」
その言葉がレインとノルギスの会話の終了だった。
いつの間に白衣の男たちがレインの両脇に立っていた。注射針を突き立てられ、二の腕に押し込まれると、すぐにレインは膝が震え、コンクリートの床に崩れ落ちた。
「これで君は無力だ」
レインは勝ち誇るノルギスをただ見上げるしかできない。ノルギスの背後にある巨大な水槽には、澄んだ水の中にひとつの影があった。
魔女の腕だ。
「VAの腕だよ。腕から抽出されるナノマシンは飲み水に浸透する。人々が飲む水さ。ナノマシンの支配を受けた人々はこの都市から逃れられないという寸法さ。麻薬みたいにね。今まで君が正気でいられたのは、以前に従えた魔女の痕跡が残っているからだろう」
「そうかいっ……!」
抵抗するが、手足に力が入らない。頭が熱病のように内側から鐘を打ち鳴らす。意識がもうろうとするなか、血の匂いのする椅子に押し付けるように座らされた。
ガシャリと、手首と首、身体の各所を鷲掴みにするように固定された。
足元の床が動く音が聞こえる。きっと、これから自分は頭の中にドリルを打ち込まれるのだろう。
抵抗したいが出来そうにない。拘束具を振り払うどころか、自分の身体を支えることすら怪しいのだ。
自分はどうなるのだろうか。恐怖が頭の中を駆け巡るが、それもあと数分のことだ。
手術を受けたあとは考える力さえ奪われるのだから。
どこかで激しく音がする。どうせ、デモ隊の誰かが正気に戻ったのだろう。だが、この都市から逃れる術はない。
水を飲んでいない人間などいないのだから――。
「逃げてください!」
懐かしい声を耳にした。素直なのに強情で、柔らかい中に芯のある声。何故自分はその手を放してしまったのだろう。もう聞けないかと思った声。
「キュー……クス?」
「マスター!」
なぜか目の前にQXの姿があった。
なぜQXは自分のことをマスターと呼んでくれるのだろう。あんなにひどい別れ方をしたのに。感情が溢れ出して言葉を紡ごうとするが、酸欠の砂魚のように口をパクパク動かすだけで言葉にならない。
「こんなところに居ちゃいけません、マスターは逃げてください!」
「そんなこと言って、QX、おまえはどうするんだ。反逆すれば、おまえが罪に問われる」
「わたしを誰だかお忘れですか? 砂塵の魔女。大変動を巻き起こした最強の魔女が負けるわけないじゃないですか!」
しかしそれはマスターあってのことだ。QXがレインのことを今でもマスターと認識しているとしても、マスターのいない魔女はどうなるのか。
「そんなことはマスターの知ったことじゃありません、さあ走って!」
QXがレインを拘束していた手枷を力任せに引き剥がす。背中を押されると、手のひらから力が伝達されるような感覚があった。レインは身体に残されたほんのわずかな生きる気力を振り絞り、床を蹴った。
どのように逃げたのか自分でもわからない。ただ闇雲に走り続けた結果、数時間後のレインは小型の砂上船の上にいた。
もうドミナントは砂塵の向こうに輪郭が見えるだけだ。
今できることは一刻も早くドミナントから離れることだ。
なぜQXはあの場に現れたのか。マスター解除したはずなのに、自分のことをマスターと呼んでくれたのだろうか。
わからない。
ただ一つだけわかることは、自分がQXのマスターをまだ続けているということだけだ。
レインは、QXを見捨てることはできなかった。マスターであるというだけの理由ではない。自分はQXを助けなければいけない。自分と同じように、QXもあそこにいてはいけない。戦いがないと言っても、人間が飼いならされるような場所は願い下げだ。
ドミナントは人間らしい生活とは無縁の場所だった。
QXを助けたい。だが、今の自分では無理だ。
QXを助けるために、何が必要だろうか。
QXを救うのは、自分しかいないのだ。
「……ここは逃げるわけにはいかないじゃないか」
外套に隠れたレインの口元は、決意に引き結ばれていた。