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砂塵の魔女  作者: 追儺式
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七章 旅の終わりと別離

見張り台からレインが見る景色は、いつの間にか霧がかかっていた。

砂上戦艦が砂海をゆく。鈍足なのは、エンジンの片方が修復できていないからだ。砂上戦艦の周囲には複数の砂上船が護衛として随伴し、「魔女狩り」に対する備えをしていた。

「魔女狩り」の連中はQXの暴走による混乱に乗じて、かき消すようにいなくなっていた。形勢不利を察したのかもしれないが、撤退してくれたのはありがたかった。

レインが腕の中を覗き込むと、QXが横たわっていた。糸の切れた操り人形のように力の抜けたまま、動くことがない。

起こす方法は、マスターであるレイン自ら呼びかけることだ。しかし、そのきっかけがつかめなかった。今起こしたところで、QXの瞳が悲しみに沈むのが分かりきっていた。

先の戦いでQXが目にした少女の亡骸が、ベリーのものだったからだ。

自分がQXの説得を聞かずに逃げていれば、砂上戦艦の惨状を見ることもなかった。逆に残っていれば船の被害を抑えることができた。ベリーが死ぬこともなかったかもしれない。

中途半端な自分の姿勢は結果的に、ベリーを殺してQXを暴走させるという最悪手を引いていた。

眼下に見える甲板上では、葬式が行われていた。QXを起こすべきかレインは迷った。

QXに死者を見送らせたほうがいいのだろうか。魔女であるQXを人間らしく扱いたいなら、目の前にある悲しみを受け止めさせるのも必要なのではないのか。悲しみに対して背を向けさせるのは、歪な人格を作り上げることにならないのか。

その一方で、わざわざ悲しませる必要があるのだろうかという思いがあった。いつの間にかいなくなってしまったほうが、悲しみを知らないまま別れてしまったほうがいいのではないか。

自分がQXの悲しむ姿を見たくないというだけなのかもしれない。しかし、それだって十分な理由になる。

結局、レインはQXを起こすことを諦めた。

QXが暴走した経緯を考えると、いま目の前にある景色を見せるべきではない。

くぐもった嗚咽が聞こえる。死体を覆う白い布袋に声を上げて泣きすがる人々が見えた。その中にはベリーの母親、イノシシ女の姿も見えた。布袋に覆われた死体は小船に乗せられ、流される。船底に穴をあけられていた船は徐々に沈みながら、ゆっくりと砂上戦艦から遠ざかって行った。

悲しむのなら最初から戦いなんてしなければいいのに、と感じる自分は冷酷なのだと思う。レインの思考を皮肉るように、背中でうずくような痛みがあった。

レインも背中を撃たれていたが、大事には至らなかった。魔女狩りの男、ヤコブの放った銃弾が殺傷力の低い弱装弾であったことによるものだ。それでも戦闘端末の重火器を使った戦闘は多数の死者を出していた。

ひょっとして弱装弾は、人権団体を標榜する魔女狩りの言い訳なのだろうか。それなら最初から殺傷力の低い兵器で攻めてこいと言いたくなるが、魔女を相手に戦うにはそれなりの装備が必要なのかもしれない。

いたたまれなくなり進路上に視線を移す。霧の奥に、ドーム状の構造物がうっすらと見えた。距離感がつかめないが。巨大であるということだけは分かる。

「あれがドミナントか」

ドミナントは砂海の中に浮かぶドーム型の都市だった。一度として外敵の侵入を許したことがないという。

砂海の中から生えている硝子で出来た樹木は、光をエネルギーに変換する集光塔だ。集光塔は少しずつ太陽の位置に合わせてひまわりのように傾きを変化させている。

硝子の森の中心にあるのは一際巨大な集光塔で、根元にドーム状の構造物がある。よく見るとそれらの表面にも鏡のような集光板が張られていた。

ドミナントの姿はまるで一つの巨大で精緻な芸術品に見えた。

「……」

あそこならQXを戦わせることがない、と信じたい。

なぜか息苦しさを覚える。心理的なものではなく、物理的なものだ。息を吸うたびに、何かが織のように肺に溜まってゆく気配があった。こらえきれなくなりレインは甲板にしゃがみ込んだ。

「これを着けてください」

 酸素マスクを差し出してきた白い手は、VAヴィアのものだった。

たっぷりとした長衣に身を包んだVAは、すらりとした長身を外気にさらしていた。マスクが必要ない彼女は、魔女だ。

VAが砂上戦艦に乗っているのは負傷者の手当てをするためと、砂上戦艦の応急処置のためだった。

「……ありがとう、ございます」

 礼もそこそこに防毒マスクをつけると徐々に呼吸が安定してゆくのを感じる。レインの表情を読んだのか、VAが安堵の笑みを浮かべていた。

「周囲に有毒ガス地帯があるのよ。自衛のために」

「……そうなんですか」

「あなたがマスターなのね。最強の魔女を扱うのが冴えない男の子って、なんだか面白いわね」

 VAの口調は初対面だというのに距離を感じさせないものだった。手すりに腰を預け、レインを見下ろしている。

「最強の魔女? QXのことですか」

「ええ。あらゆる分子組成に干渉し、一瞬で中和と崩壊を引き起こす特殊能力。砂塵の魔女は別名、最強の魔女と言ってもおかしくないわ」

 何が可笑しいのか。金色の瞳は心底愉快にほほ笑んでいる。心の中を見透かすようで、レインは思わず目を逸らした。彼女のマスターはどんな人間なのだろうか。

「……お話があるのですが」

「なに?」

「ドミナントでは難民を受け入れると聞きました。それは本当ですか」

「ええ。私たちの都市は来る者を拒まないわ。そもそも都市とはそういった、人を外敵から守るために存在するのだもの。レインくん、あなたはここに働きに来たの?」

自分のことは二の次に考えていたので、発想さえ思い浮かんでいなかった。レインは慌てて「は、はい!」と答えていた。

 レインはVAに本題を切り出した。QXのことだった。

「QXについてです。ドミナントでは魔女を保護してもらえるのでしょうか」

「……ええ」

 VAが答えるまでに、わずかな沈黙があった。

「そうなんですか、よかった」

「でも、それには条件があるわ」

「……何ですか。俺にできることなら」

「それは、魔女のマスターが所有権を放棄することよ」

 VAは目を伏せ、悲しそうな表情をしていた。ドミナントの住人である彼女は、何度となく魔女とマスターの別れの光景を見てきたのかもしれない。

「あなたがマスターである現状では、QXを保護することはできない。意地悪を言ってるわけじゃないわ。魔女を従えるということは、それだけリスクを負うということなの。魔女を引き入れた瞬間、都市を壊滅に追いこむことになるかもしれない」

「……分かります」

 レインは考える。条件次第では一緒にドミナントに行けると甘い考えもあった。しかし現実はこうだ。

 QXをドミナントで平和に生活させるには、自分は邪魔なのだ。

 もちろんQXとは一緒にいたい。彼女が可愛い女の子の姿をしているからではない。QXといる時間は短かったが、濃密なものだった。楽しく安らぎを与えてくれた。何よりも代えがたいものだった。

QXを失えば、自分はどうなるのだろう。孤独に戻り、また一人の生活だ。疲れた身体を気遣ってくれる人もいないし、失敗を慰めてくれる人もいない。突拍子もないことで笑わせてくれる人もいない。

裏を返せば、それをすべてやってくれたのがQXなのだ。

いまではレインの日常はQXが大きな割合を占めていた。

だが、自分というマスターがいる限り、QXにとって戦いは避けられないものになる。

QXに戦いをさせないためには、自分は邪魔なのだ。

逡巡はごく短い時間だった。

「分かりました。マスター解除します」

 レインの言葉にVAが驚きに目を丸くしていた。

「……あなたはせっかく手に入れた最強の魔女を捨てるの?」

 VAの言葉はレインの胸に深く突き刺さる。表情を読み取ったのか、VAが申し訳なさそうな表情をした。

「……いや、ゴメンね。人には事情があるものね」

「はい」

 事情はあるのだ。どうしようもない事情が。自分がQXとこのまま一緒に旅をしていては、いけないのだ。

「大変動の再来」というヤコブの言葉が脳裏をかすめる。あのときはVAがQXを止めてくれたが、次もそうだとは限らない。過去にQXがこのどうしようもない世界を作ったのかという不吉な想像がレインの頭の中にはあった。

 そして、自分が再びその引き金を引くことになるかもしれないのだ。

 腕の中で動かないQXをもう一度見る。安らかな顔をしていた。

 自分はQXを所有するのが怖くなったのか。能力を持て余してしまったのか。見限ってしまったのか。

 いずれにせよ、自分はQXのマスターとしてふさわしい人間ではない。

「……こいつが戦わずに済む道はあるのでしょうか」

「あるわよ」あっさりと言い切ったので、今度はレインが驚く番だった。

「この都市はそういう場所だもの。人間と魔女が共存し、より良い世界を生み出すところ。あなたは噂を聞いて、その魔女を捨てるためにここまで来たってわけね」

VAは遠慮のない口調だったが、事実だった。自分は、QXの安らかに過ごせる場所を求めてここまで来たのだ。しかしそこから先を他人に任せるのでは、捨てることと少しも違いはない。

「……マスターを失った魔女は、どうなるのですか」

「そうね。魔女、ウイッチフレームは基本的に兵器だから」

「はい」

「所有者を失った道具には鍵がかかるわ。道具の重要度、機密が増すほどにね。QXさんはかなりレベルの高い重要度を与えられているわ」

「……はい」

「マスターを失った魔女は自己の判断を凍結され、基本的に原隊復帰の義務を負うわ。レイン、あなたはQXさんとどこで出会ったの?」

「遺跡に迷い込んでしまって。その中です」

「QXさんがマスター解除されたら、遺跡に帰るということもあるかもしれないわね。どういう理由であなたがマスターになったのか分からないけど、機密性の高い兵器にはそれに応じた認証が求められるわ。ともあれQXさんが次のマスターを見つけるまでに、相当の時間がかかるでしょうね」

QXが次のマスターを見つけるということは、誰かとまたキスをするということだった。レインの胸は針で突かれたように痛んだが、ここは耐えるしかなかった。自分がマスターをやめる以上、それからのことに口出しをする自由などないのだから。

 沈痛な表情のレインを見て、VAは元気づけるように快活な表情で言い放った。

「ようこそ、ドミナントへ。歓迎するわ」

 VAが左手を差し出してきた。レインは恐る恐る、その手を握った。


 砂上戦艦は指定された航路を取り、巨大な洞窟のような場所に入る。洞窟は真昼にもかかわらず照明が光っていて、堅牢な複合鉄骨による内壁が一望できた。

 外部から伸びる複数の巨大なアームに戦艦が固定されると、外につながっている隔壁が閉じ、足元の砂が床に染み入るようになくなっていくのが見えた。

 砂上戦艦が停泊したのは、整備用の乾ドックだった。

 砂上戦艦と外壁の間に通路が渡され、それぞれ荷物を持った乗組員が列になって降りる。その中にはQXを抱きかかえたレインとFe、ニコラの姿があった。

 通路には風が強く吹いていた。

「推進ユニットは損傷が激しいため交換になります。装甲と艤装はあらためて見積もりをお持ちいたしますので」

 列の先頭を歩くVAが続くFeに説明している。ふたりの背の差は大人と子供ほどもあった。魔女は外観と年齢にどういった差があるのか、レインはふと疑問に思った。

「交換かぁ……痛いわね。損傷部分を下取りとかできないわけ?」

「下取りするにしても、素材原価の回収といった形になると思いますよ」

「二束三文ってことね。ううん、じゃあ艤装部分は最低限でいいわ。見積もりよろしくね」

「はい。工期中の逗留期間に掛かる費用はサービスさせていただきますので」

 VAが頭を下げるが、Feの苦虫を噛み潰した不機嫌顔は変わることがない。

「そんなのいいから、早くして頂戴。こんなところ、先生を送る用事が無きゃすぐにでもトンボ帰りしたいんだから」

 そうだった。砂上戦艦がここまで来た理由は、ニコラを送り届けることにある。レインとQXのことはついでに過ぎない。

 ニコラは気負いもなく自然にFeに追いついてきた。

「いろいろあったけど楽しかったよ」ニコラがFeに笑いかける。

「あたしも、怪我人を見てもらえて助かったわ。先生みたいな人が村にいれば、もっとみんなの生活も安定するんだけどね」

「残念だが、他を当たってくれ。私の所属は中央政府だ、砂賊に手を貸したとあってはいろいろ問題になる」

「……そうね。我儘だったかしら」

「もし失業することがあったら、声をかけてくれ」

 手を振ってニコラは一同の前から遠ざかってゆく。手には棺のように大きなスーツケースを携えていた。

「……レイン、あんたも行くのね」

 声に振り向くと、Feがレインを見上げていた。眼帯のないほう、左の瞳が潤んでいる。まるで家族を見捨てるような罪悪感がレインの心中をよぎった。

「ああ」

「お姉様はどうするの?」

「……すまないが、おまえたちにQXは渡せない」

 これは当初から決めていたことだった。

 QXを砂賊に同行させると、また魔女狩りや、商売敵の砂賊と戦うことになる。それを考えると、QXを彼らに引き渡すことはできなかった。

 別れた後は他人じゃないのか。レインのなかで自分を責める声が聞こえる。しかし、これはマスターである自分の、最後のわがままなのだ。

「もうあんた、マスターじゃなくなっちゃうんでしょ? お姉様をどうしようって言うのよ」

「ここの人に引き渡す。きっとよくしてくれるはずさ」

 レインの言葉に対してFeが鼻で笑うのが聞こえた。

「何それ。ずいぶん身勝手で都合のいい言い訳ね。あんたここがどういうところだか分かって言ってるわけ?」

「……どういう所だってんだよ」

「ここは兵器工場よ。それも砂上戦艦を新品同然まで修復できる技術力を持っている。戦いを嫌うあんたにとってここは戦いのない場所に違いないけど、実際は他所に戦いを押し付けてるだけなのよ」

「……」

 レインも想像はしていた。これほどの設備がある都市で、しかも乾ドックまで完備しているところなど他所にはなかなかない。

 そうだとしても、QXを戦いに巻き込まないためには必要なことなのだ。

「……ごめんね、あたしたちも同じような物なのにね。あたし、お別れが怖かったのよ」

「……Fe」

「ずっとあんたたちと一緒にいられると思っちゃうなんて馬鹿だよね、あたし」

 声に湿り気を感じる。一口に言ったFeは、泣き笑いの表情を浮かべていた。

 戦いさえなければ、Feたちと一緒にいることも不可能ではなかった。事実砂上戦艦での日々は楽しいものだったし、心地よかった。だが、戦いと背中合わせであることはどうしても否定できない事実だった。

「レイン、あんたならあたしのマスターにふさわしいかもって思ったんだけどね。残念だわ」

「……え?」

 自分がFeのマスターになるということは、砂賊の頭になるということだろうか。その隣にはFeがいる。そんな未来もあるのだろうか。

 しかしそれは駄目だと思った。隣にQXがいないのだ。

 なぜ自分はQXを必要としているのに、ここで別れようとしているのだろうか。

「……レインさん、残念ですがここでお別れです」

 会話を断ち切るようにVAが恭しく、しかし有無を言わさぬ口調でレインとFeに告げた。

 レインたちがいるのは入出国用のロビーで、目の前には腰ほどの高さまである回転式のゲートがあった。

 ここを抜ければ、Feとも別れることになる。

「レインさん、QXさんをこちらに」

 VAが手を差し出してくる。QXを渡せば、もう関係は元に戻ることはない。マスターを失った魔女は、次のマスターを求めることになる。

 その時、腕の中にいたQXがかすかに身じろぎする気配があった。確認しようとすると、QXがうっすらと目を開いた。

「……マスター、ここはどこです? なんかわたし、気を失ってばかりですね」

 はにかむように微笑むQXの姿は無垢な少女の笑顔そのものだった。

 レインはその姿を失いたくなかった。破壊に手を染める魔女になってほしくはなかった。

自分にとってQXが手に余るから投げ出すのか、言うことを聞かないので苛立っていたのか、それとも考えが分かるのに完全に通じ合えない絶望のためなのか。

 理由はどうあれ、手離すことに変わりはないのだ。

「QX、よく聞いてくれ」

「はい?」

「おまえは要らない、用済みだ」

「……はい?」

 言ったことの意味を理解できないのか、QXの瞳が不安げに揺れるのが見えた。

 もう一度、レインは叩きつけるようにQXに呼びかけた。

「俺はおまえを放棄する。おまえはもう、必要ないんだ!」

 それは魔女を手離す際に使われる、音声による強制コードだった。ニコラに教えてもらったことだが、こうやって口に出すのはとてつもない重圧が自分の心に圧し掛かってくるようだった。早く聞いてくれ、そして俺のことを忘れてくれ。そんな目で見ないでくれ、俺は――。

「……認識しました。これまでのご愛用、感謝いたします」

 QXがすっくと立ちあがり、完璧な所作で挨拶をした。レインを見るQXの視線は他人そのもので、白紙のような表情のどこにもかつての面影は見当たらなかった。

 ここまで急激に変わってしまったのは、QXが魔女だからか。それとも、これが本来の姿なのだろうか。完全に人が変わってしまったQXを目の前にして、レインは自分の無力を悟って崩れ落ちた。

QXが再び目を閉じる。その場に立ち尽くしたまま、彫像のように動くことがない。それは、人がモノに変わってしまう過程をまざまざと見せつけられているかのようだった。

「俺は、マスター失格だ」

 動かないQXの頬を、ひとすじの涙が伝った。QXは悲しんでいるのだろうか。お別れを言いたかったのか。だが、いまとなってはそれを確かめる術は存在しなかった。

もう自分はQXのマスターではないからだ。


 レインの入国手続きは迅速に行われた。

 入国を希望する者はレインだけではなかった。砂賊の人々の一部も入国を希望していて、簡単な身元検査のあとに承認された。身元検査をする必要があるのは、対抗勢力のスパイであるという可能性があるからだ。

人々が列を組んで検疫を受ける。その間に言葉を交わす者はいなかった。まるで工場で出荷されるような気分だとレインは思った。

まず行われたのは検疫だった。全身スキャンに血液採取やDNA解析はもちろんのこと、消毒液のシャワーと下剤による胃洗浄、全身の皮をこすり取るような検査が丸一日かけて行われた。

 検疫の次は髪を切られた。それも全員均一の丸坊主だ。抵抗する者もいたが入国拒否につながることなので、やがて渋々受け入れていた。

 清潔だが消毒液の匂いのする「つなぎ」を渡され、上下一体になった袖を通す。今まで着ていた服はどうしたのかと係員に聞くと、「廃棄しました」と事務的な答えが返ってきた。QXが作ってくれた外套だけは返してほしかったが、今さら無理な注文であることは分かっていた。

 入国手続きを終えた一同が通されたのは、広大な広場だった。ドーム状のもので、一瞬外に出たような感覚を覚える。だが吹き抜ける風は外の匂いが全くせず、温度と湿度が一定に保たれている。ドーム状になった透明の壁を梁もなしに成立させているのは気圧を一定に保つことと、壁自体の剛性が非常に高いことによるものだろう。

一同を迎えたのは画一的な灰色の「つなぎ」を着た集団だった。レインが渡されたものと全く同じで、この都市の制服なのだろうか。集団の中心には雛壇があり、そこに一人の男が立っていた。

「ようこそドミナントへ! 私たちはみなさんを歓迎いたします。わたしはこのドミナントの市長、ノルギス・カミングマンです」

 市長ノルギスは両手を広げて自己紹介をした後、大仰に会釈をした。

 レインたちは立たされたままの姿勢で、その場でノルギスの講釈が始まった。

「本能から理性への移行」が都市国家ドミナントの標語だ。

 人を律するには、道徳と宗教が不可欠だ。かつての大変動以前の時代は、世界に人とモノがあふれていた。それに胡坐をかいた人類は、環境を変化させ過ぎた。結果、世界はひとりの手に余る事態に陥ってしまい、そのころには社会は自由という名の無法がはびこっていた。

社会不安は戦争を起こす土壌になる。その社会不安を打ち消すためにドミナントは造られたのだという。

「私たちの仲間として、その身に恥じない節度ある行動を心がけてください」

 その言葉で講演会は幕を閉じた。

 外に出ると、レインの頭上には灰色の空があった。微細な格子が紫外線や毒性のある太陽光を遮っているらしい。

 これから一同は割り当てられた住居に案内されるという話だ。ありがたいことだが、それでもレインにとってこの空は気詰まりなものだった。

 ここにはQXがいない。

 QXを手離した自分はマスターでも何でもなくなる代わりに、義務から解放される。自由になるのだ。

 冷たい自由、と言う言葉が思い浮かんだ。苦難に飛び込むことがなくなる代わりに、誰かに構われたり干渉されたり、縛られることがなくなる。

 レインにとって人同士のつながりは鬱陶しいだけの物だった。そんなしがらみが嫌でたまらなかった。ついこの前まで、ひとりに慣れ切っていたはずなのに。自分は弱くなってしまったのだろうか。

 自分は苦難から、責任から逃れたかっただけなのだろうか。誰かに責任を転嫁して、安心したかっただけなのだろうか。

 全ての関係を清算したレインは、自分が空っぽの存在であることを自覚していた。

「……はは」

 空虚な笑い声がレインの口から漏れ出ていた。

 なぜ、涙がこぼれるのだろう。涙が落ち、持っている小冊子が滲んでいた。

 小冊子の表紙には「理想の都市の理想の生きかた」と書かれていた。

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