一章 砂漠の薔薇とウイッチフレーム
熱い風が頬をなぶる。
幌の影のなかで目を覚ましたレインは周囲を見渡すと、自分が下手を打ってしまったことを悟った。
砂上船から見える外の景色が、全くいつもと違っていたからだ。
「……やばい、流された」
レインは頭を抱えた。頭をじっとりと湿らせる汗がいつもよりも多いのは気のせいではないだろう。
昼寝のせいで朦朧としていた意識が危機を悟ったのか、急速に鮮明になる。船の操舵席を確認すると、砂上船のコンパスがやけにぶれていた。船は壊れたコンパスを参考に、マニュアル通りに砂海を巡航していたのだ。
いつもの作業なので安心しきっていたのかもしれない。今まで何度か失敗はあったが、こんなことは初めてだった。
レインが砂上船の上にいるのは、漁のためだった。
砂海の沖で底引き網を砂海に展開し、一定時間回遊した後に引き上げる。砂海からは量が一定しないものの、砂魚が収穫される。砂魚はレインたちにとって、数少ない食料であり、商品でもある。
いかん、呆けている場合じゃない。レインは慌てて底引き網の巻き上げ機を起動させる。ともあれ、早く網をしまって港に帰らなくては。
「……」
発動機が唸りを上げ、砂海に投入されていた網がウインチに巻き取られていく。その様子をレインはただ見ていることしかできない。
いつもよりも巻き上げ機の動きが遅いのは気のせいだろうか。巻き上げ機が遅いときは大体砂魚が多く網にかかっている。大漁という奴だ。
しかし、いつまでたっても巻き上げ機の下に置かれた籠の中に、砂魚が打ち上げられる気配はなかった。
今から帰ることになるのだが、砂上船の燃料が港まで持つだろうか。場合によっては、帆を張って風の力を借りる必要がある。レインは操舵席のコンソールを確認し、位置情報と気流、そして砂海流の流れを把握してどうにかして港に帰り着く手段を探していた。
「……嘘だろ」
レインは自分の目を疑った。あわてて眼を擦るが、目の前にある計器は変わることなく、位置情報は最悪の結果を出していた。
巻き上げ機が甲高い音を立てる。まるで、砂海の下に入る何かと力比べでもしているかのようだった。同時に、砂面の波がにわかに激しくなってゆく。
「嘘だろ」
気流や循環する砂海流の力は到底期待できそうになかった。なぜならば、ここは近辺の砂海のなかでも難所とされる場所だからだ。ここは砂海の中でも風と砂海流がでたらめに渦を巻いている、誰も生きて帰ることのなかった砂海の難所、「竜の咢」だった。
そもそも地球の地軸と連動している高精度コンパスが故障することもあり得ないことで、この辺りになにか異変でも起こったのだろうか。
それに、巻き上げ機の様子もおかしかった。
「……故障か?」
巻き上げ機を覗き込むと、巻き上げ機はモーターから悲鳴を上げているが、動く気配がない。
瞬間、巻き上げ機が轟音を立てて破裂した。
「わっ!」
空中に破片と金具を撒き散らしながら巻き上げ機が四散する。衝撃に砂上船が転覆寸前の勢いで激しく揺れる。レインは船の縁にしがみ付く形で、衝撃に抗っていた。
間違いない、これは故障なんかじゃない。巻き上げ機が、砂海の底にいる何かとの綱引きに負けたのだ。
液状の密度の砂粒を猛然と撒き散らしながら、砂海の中から何かが出現した。砂上船を覆い尽くすに影の威容に、レインは息を飲んだ。
「……!」
黒い体躯から名づけられた名前はそのまま、「黒竜」。この場所が「竜の咢」と呼称される由来になった生物だった。
黒竜の巨大な体躯は計り知れないほど長く、まだ背中から砂を滴らせている。手足は存在せず、末端に巨大な尻尾と頭部だけがある。太さは自分の砂海船の全長に等しい。全身には硬質の鱗がびっしりと鎧のように張り付いていた。
黒竜は荒れ狂う砂面を震わせる唸り声をあげ、凶悪な視線をこちらに向けていた。
「……こいつは、大物だ」
震える声でレインはつぶやいた。
レインは即座に砂海に身を投げ出した。一瞬後に砂上が沸騰し、砂の中から出現した巨大な尻尾が鞭のように砂上船を打ち据える。砂上船は一撃で木端微塵に破壊されていた。
「……!」
レインは思わず唾を飲み込んだ。口の中がカラカラに乾ききっていた。こんなに暑いのに、どうして足の爪先から頭の天辺まで悪寒が走るのだろうか。
砂海の上を逃げるレインの足元にあるのは動力付きのサーフボードで、持っているのはその手綱だ。船から脱出する時に、とっさに持ち出したものだ。
サーフボードが風を切る。その感触は身を切るように鋭い。
激しい波が起こるのは、まだ離脱した後ろで黒竜が砂上船を分解し続けているからだ。まるで餌か何かのように、砂上船のバラバラになった船体や動力部、日除けの幌を食い散らかしている。
今のうちに逃げなくては。でも、どこへ?
レインにはわずかながら心当たりがあった。
この海域は急流が法則性のない渦を巻いているが、その中心にはある建物があった。
「遺跡」と呼ばれるそこは、多くの命知らずの若者が幾度も挑んできたが、今までに生還したものがいない場所だった。出自は明らかではないが、遺跡は「大変動」が起こる前に建設されたもので、そこには多くの場合、宝物が眠っているとされた。
距離的にはその遺跡が避難するのに一番近い場所だ。もしかしてさっきの黒竜の巣かもしれないという恐れがあったが、今のレインにそれ以外の選択肢は存在しなかった。サーフボードは動力があるとはいえ航続距離が非常に限定されたもので、加えて海流に逆らっていけるほどの馬力も燃料もない。
ここはとりあえずでも、遺跡に向かう必要があった。隠れる場所があれば黒竜をやり過ごすことができるし、お宝が見つかればそれを使って港に帰ることができるかもしれない。
サーフボードに乗ったレインの左手は手綱を、右手は通信端末を持っている。しかし通信端末は脱出時の衝撃か、薄汚れた画面にはノイズの砂嵐しか映し出していなかった。
「……遺跡だ」
見えた。レインが視界の端に捉えたのは、砂海の急流のなかにある白亜の建物、遺跡だった。
遺跡の外観は白い円筒状で、いわゆる塔というのだろうか。天を突く巨大な槍のような建物は、途中でへし折られたかのように頂上が歪な形状だった。
あの中に入れるのだろうか。レインは期待したが、つるりとした外観に門扉や出入り口の類は見当たらなかった。こうなったら接近して――。
思案を打ち切るように、レインの足元で何かが跳ねた。
「……マジかよっ!」
サーフボードのエンジンを吹かして砂面を跳ね跳ぶと、今までいた砂面に黒いごつごつした背が見えた。黒竜がレインを狙い、追ってきたのだ。
手綱を握り、エンジンを吹かすとサーフボードは砂海の上を縦横無尽に跳ね回る。それに対して黒竜は身をひるがえして砂面を荒れ狂わせながら、速度はあるが大振りな挙動でレインめがけて頭から砂面に突入する。
砂面の上のサーフボードを巧みに制御しながらレインは叫ぶ。
「なあ黒竜さんよ、俺は帰りたいだけなんだ。あんたの縄張りを荒らすつもりはなかったんだ、信じてくれよ!」
サーフボードに黒竜を振り切るほどの速度は出せない。レインは震える声で訴えたが、黒竜は訊く耳を持たないようで、再びレインの頭上から砂を滴らせながら突っ込んできた。
「この野郎!」
黒竜から避けるようにサーフボードを跳ねさせ、空中で反転させたうえで再び元の位置に仕切り直す。すると、レインのサーフボードは黒竜の背の上にいた。
「逃げるが勝ちってね!」
震える声でレインは叫び、黒竜の背を逆走する。まるでジェットコースターのようにうねる背中を逆走するサーフボードは、さながらロデオのようだ。固い鱗に覆われた黒竜の背はサーフボードにはやはり酷で、時折レインの足元を削り取られるような感覚がある。しかし、これなら急流を逆走しても速度を維持することができる。黒竜も撒くことができるかもしれない。しかし、この状況が砂海を抜けるまで続くのか――。
不意に足元に衝撃が走り、次の瞬間レインとサーフボードは中空に浮かんでいた。
「しまった!」
罵りの声を上げるのは、自分の迂闊さに対してだった。サーフボードが黒竜の背を逆走していたのなら、尻尾で跳ね上げられることを何故予想できなかったのか。
空中で姿勢を正すことができるのなら、まだ自分にも勝機がある。レインは肩が痛くなるほど腕を伸ばし、跳ね飛ばされたサーフボードの手綱に触れようとする。しかし破砕音の後、視界が真っ黒に染まった。黒竜が首をもたげ、サーフボードを噛み千切ったのだ。
「くそっ」
重力に従って自分の身体が砂海に落ちる音を聞くと、レインはしゃにむに体を動かした。
「畜生っ」
黒竜に吹き飛ばされた際に全身を強く打ちつけてしまったのか、身体にはうずくような鈍痛がある。腕を上げ下ろしするたびに、まとわりついた砂がレインの四肢に重くのしかかっていた。大人たちから聞いた話では、砂海から自力で抜け出ることは不可能に近かった。砂との間に生ずる摩擦により、もがけばもがくほど速く飲み込まれる。
「くっ……!」
それでもレインは砂海を泳ぐ。他に助かる方法がないからだ。進めば進むほど身体が沈み、下降してゆく。脚が、腰が、腕が砂に絡め取られる。砂に沈んだ腕は重く、幾ら力を込めてもまるで石膏で固められたように決して思い通りにならない。
その様子を見て同情の念でも浮かべたのか、それとも自分が手を下す必要を感じなかったのか。竜が砂の細波を立てながらゆっくりと自分から離れてゆくのが見えた。
「畜生」
レインは顔面だけを砂面に浮かべたまま、いつの間にか一切の抵抗をあきらめていた。
もう、身体が動かない。
今のレインに生への執着はあれど、実行手段が皆無の状態だった。
やがて風が吹き、砂面に細波が走る。レインの顔は砂面の下に覆い隠されていた。
暗闇が密度を加速度的に上げ、レインはゆっくりと砂の海を沈降する。
意識を失う刹那、レインの脳裏をよぎったのはもうこの世にいない、見知らぬ父と母の顔だった。
気が付くと、白い天井が見えた。
天井から砂が滴り落ちてきて、レインの頬に降りかかる。
ここは天国なのだろうか。しかし、天国に来てまで身体の鈍痛が尾を引いているのはおかしい。天国は痛みがない世界なのだろうか。
「いててっ……」
片手で頭を抑えながら上体を起こす。五体満足だが、身体が鉛のように重い。動悸は弱いが、安定していた。
「……ここは、どこなんだ」
レインの質問に答える人間はいない。あの砂天井から自分は落ちてきたのか。状況から察するにここは砂海の下であることは確実だった。
レインの落ちてきた場所は広い倉庫のようなところだった。周囲を金属色の壁に囲まれ、所々埃にまみれ、塗装が剥がれ落ちている。壁まで歩いていき、触ってみると冷たく硬い感触とかすかな振動が掌に伝わってきた。
「……まだ動いているのか」
レインは自身を納得させるように呟いた。見上げると、天井はどういう仕組みなのか一面の砂で出来ていた。
ここは、遺跡の中なのか。漁師である自分が遺跡の中に入ることは初めてだったが、大人たちから聞いた遺跡の中と、周囲の風景は酷似していた。
しかし、自分がおぼれた場所は遺跡を囲む砂海流の中だったはずだ。
もしかして、外から見えた白い塔は遺跡のほんの一部で、地下に広大な地下が広がっているのかもしれない。それを考えると、歩いて行けばあの白い塔に辿り着き、地上に出ることができる可能性があった。
なによりも、今自分は息をしている。助かる可能性が現実のものになると、レインのなかに生きる気力がわいた。
「……」
無言で周囲を眺める。鋼板の壁、鉄骨の梁、見知らぬ装置と計器。その全てが、レインにとって圧倒的な価値を持つ物だった。
ここにあるものはお宝の山だ。得体の知れない器具がそこかしこに打ち捨てられているが、それの使用方法をレインは全く知らない。それでも日干し煉瓦の住居にすむ自分たちにとって金属は遺跡から採取することしかできず、持ち帰れば様々な使い道がある。
しかし、どうやって持ち帰る。砂上船は壊され、自分ひとりを帰す方法もいまだに決まっていない。
ひとまず遺跡の物品は置いて行こう、とレインは目の前の景色に区切りを付けた。それより先に、地上へのルートを探すほうがレインにとって重要なことだった。
通路を進む。相変わらず頭上には砂の天井があり、見ているだけで圧迫されるような感覚があった。自分が落ちてきたということは、天井に穴があることは十分想像がつくからだ。いつ頭上から大量の砂が落ちてきてレインを飲み込まないとも限らない。
のどが渇く。水はないか。ここが遺跡ならば、自分たちの住居である「港」のように生活設備が整っていてもおかしくはない。
進んでゆくと、突如として視界が開けた。
「……!」
息を飲む。レインの目の前には、広大な一面の花畑があった。
一般に花はこの砂漠の世界では高級品だ。花を栽培するには高価な設備が必要で、花を求める金銭的余裕があるなら食糧や燃料を買い求めるのが常だ。何よりも人の生活には水が必要不可欠で、レインたちにとって趣味に使うような水の余裕は一リットルとして存在しない。
しかし、その花畑は一般に言うそれとは大きくかけ離れていた。
砂の色をした花は、いわゆる「砂漠の薔薇」と呼ばれるものだった。人づてに聞いた話だが、砂漠の薔薇は砂漠に落雷があったときに地表に残るものらしい。
ならば、いったいここでどれだけの落雷があったというのだ。
その場には、砂漠の薔薇が盛大に咲き乱れていたのだ。
その場に風を感じる。風が吹くということは風が抜けるだけの広い空間があるか、出口が近いということだ。
その場でレインが天を仰ぐと、構造材の隙間からうっすらと夜空が見えた。
「……事故でもあったのか」
ボロボロの施設を見てレインが推測できる理由は、それくらいしか思い浮かばなかった。砂色の花畑を進むと、砂の薔薇が乾いた音を立てて次々に崩れていった。
壁面にはまるで血管のように大小何本ものケーブルが重苦しい音を立てながら脈打っている。何のために動いているのか定かではないが、内壁は輪を描いていることからここを外から見ると塔のように映るだろう。
ここが外から見た白い塔の中なのだろうか。
花畑の中心は一段高くなっていて、そこには黒い箱状のものがあった。壁面のケーブルは地を這い、全てその箱につながっていた。
お宝なのだろうか。しかし、遺跡のお宝は使い方が分からない者が触ると事故の危険がある。なかには、事故によって発掘隊が丸ごと消し飛んだという話だってある。
迂闊に触るべきではない、引き返すなら今だ。レインの頭の中にはいつにないほど警報が鳴っていた。黒竜など比較にならないほどの危機感だ。が、なぜか身体が言うことを聞かない。そろりそろりと、砂漠の薔薇を踏みしめる破砕音だけを響かせながら、レインの身体は生物の匂いの全くしない花畑を進む。
花畑の中心にあるものを確認すると、鼓動がさらに加速する。身体の高揚感だろうか、言い知れようのない恐怖のためか。今のレインには自分の行為に判断がつかなかった。
花畑の中心にあったのは、黒い棺だった。
「……」
棺の表面は埃ひとつなく、濡れたような光沢がある。蓋と本体との間に本来あるはずの継ぎ目は、元からないようだった。
突然、どくんと棺が脈動した。
「わあっ!」
レインは我知らず悲鳴を上げていた。悲鳴と同時に身体の統制を取り戻したようだが、いまのレインは腰を抜かした状態でその様子を見つめているしかなかった。
棺の中から光が漏れ出していた。棺の中心に切れ目が入り、見えない力で内側から切り開かれる。
「なんだよッ……!」
レインの頭は拒絶と否定と肯定が錯綜する。それほどに目の前の風景は現実感を欠くものだった。
棺の中から人影が小柄な人影が上体を起こし、姿を現した。
思わず息を飲んだ。人影は少女のもので、しかも全裸だったからというのもある。その未成熟な裸身は病的なほど白かった。
このあたりで白い肌の人間など見たことがない。大半は紫外線の影響で肌は浅黒く、レインもご多分に漏れず大半に属している。赤ん坊でさえ、肌の色が浅黒いというのに。
目の前の漂白されたような白い少女は、同じ人間だと思えなかった。
「んっ」
少女が身じろぎする。大きく伸びをすると長いアッシュブロンドの銀髪が棺の中からこぼれ落ちた。棺の中は少女の髪で埋め尽くされていた。
銀髪が砂に落ちたのを見ると少女がわずかに顔をしかめた。すると少女の髪は時間を逆回しするように短くなり、ちょうど腰までの長さで止まった。
人間のやれることではなかった。少なくとも、レインの知るところによれば。
「……君は、誰?」
レインは震える声で尋ねた。
しかし少女はその質問には答えなかった。
それどころか会話におけるタブー、質問を質問で返したのだ。
小首をかしげて少女がレインに問う。
「……あなたが、私のマスターなんですか?」
「……」
レインは返答に困っていた。
違う、と断言することは簡単だ。しかし、どういえばいいのだろうか。
蛇に睨まれた蛙のように、言葉を発することができなかった。
レインは「自分がマスターだ」と嘘をつくことも考えたが、この状況ではそれは致命的な失点になるような気がした。
マスター、主人ということは、彼女を従属させることになるのは確実だからだ。そして、その責任を取ることになるのも。
「マスターって、なんなんだ?」
レインの険しい目線に気づいたのか、少女は長い睫毛に覆われた眼を伏せた。
「……マスター、あなたが何を言っているのか、わかりません」
「あと、君は何者なんだ。少なくとも人間じゃないようだけど」
「はい。わたしはウイッチフレーム、通称QXと呼ばれています」
「……ウイッチフレーム?」
「はい。わたしたちウイッチフレームは、肉もあれば骨もあり、内臓もあります。全てが人間に酷似していますが、決定的な相違点があります。それは、わたしが人の手によって創られたということです」
「……ちょっと待って」
レインは額に掌をあてた。熱がある。彼女の、聞き覚えの全くない呪文のような言葉を必死に咀嚼していた。
彼女の名前は、QX。人間ではなく、ウイッチフレームと呼ばれる人に創られた存在。いわゆるロボットだ。
遺跡の棺の中から出てきたことから、彼女は「大変動」以前に創られた可能性が高い。大変動以前の技術は失われていて、彼女がものすごいお宝だということまでは理解できた。
しかし、マスターとはいったい何の話だろうか。
思考がこんがらがり、レインが最初に言った言葉は「……変な名前」だった。
対するQXはレインに対して怒ることがなかった。
「わたしは機械です。製作者の命名は、わたし自身が機械であることの証明でもあります」
見るとQXは名前こそ機械そのものだが、その外見は人間と瓜二つだった。確かに、名前で差別化する必要があるかもしれない。
「機会に愛称をつける奇特なマスターもいるそうですが、命名されますか」
QXが無表情で問いかけてきた。
「いいよ、QXで。俺、マスターじゃないし」
それを聞いたQXの眉毛が不自然な形に吊り上がっていた。まさか、信じられない。あるいは自分のプライドをひどく傷つけられてしまった、そんな表情だった。
「……はい?」
「だから、マスターじゃないって。自分のことで手いっぱいだってのに、ロボットの主なんてできないよ」
「私はウイッチフレームです!」QXが怒り始めた。彼女はロボットと言われることに強い反発を覚えるらしい。
「どっちも似たようなもんだろ」
QXはレインの言葉にうなだれていた。よほど自分のマスター拒否がショックだったのだろうか。
レインが断った理由は単純だ。得体の知れないものに近づくと、ろくなことにならない。ましてや彼女はお宝に分類される。自分が所有すれば、きっととんでもないことに巻き込まれてしまう予感があった。
自分は砂海で漁をする少年、それだけでいい。しかし、唯一の財産である砂上船は黒竜に破壊されてしまった。いったいこれから何を生業にすればいいのだろうか。遺跡から出たとして、道具もなしに砂海を自力で渡りきる自信はなかった。
考え込むレインは、QXが「ちょっといいですか?」とちょいちょい手招きしているのに気が付いた。
「なんだよ」
「あなたみたいな人、初めてです。ウイッチフレームを手にすれば、世界を切り取り、自分の国を作ることだって不可能ではないのですよ?」
「興味ない。世界を切り取るって、王様にでもなるってのか」
「そのまさかです。人を顎で使い、後宮には美女をはべらせ、狩りと美食に明け暮れる。そんな毎日、興味ないですか?」
「興味ない。城を作る石とか食べ物はどこから出てくるんだ、人の懐からだろ。人から何かを奪えば、奪い返される。それなら初めから何もない方がマシさ」
ウイッチフレームであるQXは、「国を切り取ることもできる」といった。それは、想像できないほどの力を持っているということだ。レインは自分が無欲であるかのように装ったが、実のところは底知れぬ恐れを抱いていた。
「……もしかしてQX、おまえは俺にマスターになってほしいのか」
「はい。私はただ使われることに喜びを見出します。道具は使われることこそが本懐なのですから」
QXたちウイッチフレームは、使われるためにマスターが必要だと訴えているのだ。それが自分の存在意義だと。
しかし、道具には説明書が必要だ。その場には見たところ、棺の中にもそのようなマニュアル染みた物はなかった。
「QX、おまえは何のために創られたんだ。何ができるんだ」
「……それを見つけていただくのが、マスターの役割なのかもしれません。わたしは製作されてから、ただの一度も人の役に立ったことがありませんので」
QXは顔をうつむかせていた。
レインは考える。
今目の前にいるQXは人の姿をしている。本質はまだ分からないが、人間と同じ容姿をしている。やれることは様々だった。家事に使えることもあるだろうし、もちろん漁にも。何かに特化された機能を持っているわけではなく、あらゆる可能性を考える余地があった。この際、国を切り取ると言ったのは脇に置いておこう。
綺麗な少女ならそれ相応の使い方、という考えが頭をもたげる。レインは自分が急に薄汚れたような気持ちになり、無意識に頭を振った。
すなわち、使う人間がQXの本質を定めることにレインは気が付いた。
いままでQXは棺の中に封印されていたのだろうか。遺跡には黒竜という強力な門番が待ち構えていて、自分がこの場所に来ることができたのは奇跡かもしれない。
それだけ重要な物なのだ、QXという存在は。レインがマスターを務めるということは、それだけの代償が遠からず必要になるはずだ。
それこそ、国ひとつ分の代償を。
「……説明してもらって悪いけどさ、マスターにはなれないよ」
「な、なんでですか?」
期待を打ち砕かれた表情でQXが棺から身を乗り出した。
「俺にはおまえを使いこなせるほど、人間ができていると思っちゃいない」
「そんな、マスターが特別悪い人になんか見えませんよ」
「だからだよ。もちろん、覚悟もない。覚悟も知識もない俺がマスターになったところで、君を傷つけることになる。いいとこ、分不相応な欲に駆られて身を滅ぼすのがオチさ」
「……そんな、せっかくマスターと会えたのに」
見るとQXは涙目になっていた。同情心がわいたが、下手な同情は身を滅ぼしてしまう。特に相手は小動物の類ではない。得体の知れない遺跡の産物だ。
「マスターじゃないって。おまえも、衝動的にマスターを選んだところでろくなことにならないぞ。慎重に……」
言いかけたところで、微震が遺跡に壁を揺らした。
「なんだ?」
天井を見上げるが、答えは返ってこない。レインの動揺をあざ笑うように微震は強震に、そして激震に変化した。
紅い光が高速でレインの視界をよぎる。光跡を目で追うと、壁際で赤い回転灯が旋回していた。平常心を逆撫でするようなけたたましい警告音が動揺を煽る。同時に女性の無感情で平坦な声が時折ノイズ交じりでレインの耳を揺さぶった。
“この研究施設は、関係者以外の立ち入りを禁止されています、すみやかにこの場所から退避願います、繰り返し――”
このアナウンスは警告だ。警告は攻撃の前触れであり、今のレインはまるで無力な存在だった。
アナウンスから察するに、ここから立ち去ればこの警告は収まるのだろう。逃げようと思ったが、いったいどこに逃げればいいのか。周囲を見渡すが、出口らしきものはない。元来た道を戻ろうと振り返ると、レインが入ってきたドアはひとりでに閉まっていた。
「QX、何が起こってるんだ!」
この遺跡に長く住んでいた彼女なら、その原因が分かるかもしれない。レインの問いに、QXは涼しい顔で答えた。
「何って、部外者の排除ですよ」
「部外者って」
「そう、あなたのことです!」
ビシリと指差すQXのポーズは彼女の長い銀髪と美貌もあって芸術的なくらいに様になっていたが、それに見とれている場合ではなかった。
遺跡には必ずと言っていいほど侵入者を排除する防御機構があり、それによって命を奪われた者は数えきれないほどだと聞く。それでも遺跡に入り込もうとするものが後を絶たないのは、それだけの魅力が遺跡の中にあるということなのだろう。
何も取ろうとしていない自分が盗人扱いされていることにレインはプライドを傷つけられたような気分になったが、構っている場合ではなかった。一刻も早くこの警報を止めないと、命にかかわる。
突如として警報とは違う、悲鳴のような音が重なった。
「つ、次は何だよ!」
レインは自分の声が震えていることを自覚した。見ると、自分たちを囲む内壁が振動していた。それだけではない。外壁は音を立てて軋み、同時に目に見えるほどに形を変え続けている。どのように変わっているかというと、建物が音を立てて軋み、外から押しつぶされているのだ。そこら中から響く金属の悲鳴は、今やレインの周囲で大合唱していた。
内壁が軋んで形を変えてゆくにしたがって、その隙間から何か黒く巨大な物が見えた。内壁を圧迫し続けている物の正体は、忘れることもできそうにない黒竜の姿だ。
黒竜は、その巨大な体躯で遺跡の塔に外側から絡み付いて圧迫し、破壊しようとしているのだ。
あまりにどうしようもない相手だ。レインは頭を抱えた。
「俺一人排除するためにしても、サービス良すぎだろう!」
何とかならないのか、とQXのほうを見ると、彼女は何を思ったか棺の中に身体を横たえていた。「よいしょ」と自分で蓋を持ち、閉じようとしている。
「何やってんだよ!」
「何って、そりゃ決まってますよ。避難です」
避難とは、棺の中だろうか。黒竜の攻撃に対して黒い棺はそれほどに堅固な防御を保っていられるのだろうか。
「そんな棺で大丈夫なのかよ!」
「はい、問題ありません。このウイッチフレーム用格納庫は、あらゆる物理的衝撃や量子変換、果ては精神介入に対して絶対的な防御を誇ります。大丈夫です、わたしは大丈夫です」
大丈夫、と二回言ったのが癇にさわる。もちろん大丈夫なのはQXだけの話であり、レインは「大丈夫」の中に入っていないからだ。
「遺跡が破壊されちまったら、おまえの棺は丸裸だ。どんな奴がやってくるかも知れないんだぞ!」
「ご心配なく、施設は自動復元機構を備えています。雨後の竹の子みたいにあとからにょきにょき生えてきますよ」
「タケノコって植物か? そんな資源の無駄遣い、遺跡だからって許されると思っているのかよ! 鉄は貴重品なんだぞ!」
自分でも何を言っているのか分からないが、レインの声は悲鳴寸前まで上ずっていた。
「資源の使い方なんて、マスターを拒否したあなたには関係のないことです」
QXの声は不貞腐れていて、棺のなかでふくれっ面をしている様が容易に想像できた。
「……俺を見殺しにするのか!」
「はい。だって、マスターじゃありませんから」
QXの声は氷点下まで冷え切っていた。
「……契約する! マスターになるから、助けてくれ!」
ついにレインは観念した。それでも建物の悲鳴は止むことがない。それどころか、一層ひどくなった感さえある。なにせ、上から次々と鉄骨が降り注いでいるのだから。
閉じかけていた棺の隙間が開き、QXの裸身が上体を起こしているのが見えた。
周囲を轟音に包まれているなかで囁く声は小さかったが、レインの耳にするりと入ってきた。
「では、命令してください」
「なんて!」
「キスをしろ、と」
QXはうつむき加減で、頬を赤らめていた。
冗談じゃない。こいつは、本気だ。
「この非常時に何を言い出すんだ!」
「基本、ウイッチフレームが行動を起こすにはマスターの命令が必要です。マスターを認識するためには、遺伝子情報の採取が必要なのです」
確かに、ロボットは人に命令される存在だ。QXが自分に命令しろというのは、逆命令にならないのだろうか。ましてやこちらに自由意志などない状況だった。なぜなら、自分がキスの命令を拒めば今すぐにでも黒竜が遺跡の外壁を破壊し、中にいる部外者のレインを取って喰らうだろう。
これは完全な脅迫だった。それにしても、遺伝子を採取するなら血を抜き取るとかほかにいくらでも方法があるだろう。
何でキスなんだ!
屈辱感に打ちひしがれながらレインは棺のそばにより、QXに命じた。
「QX,俺にキスをしろ!」
「はい!」
笑顔で即答が返ってくるやいなや、QXがレインの胸に手を当てて寄り添い、膝立ちになった身体を少しだけ伸ばした。
唇と唇が触れる。
「……?」
それだけかと思っていた。
レインの閉じた唇を押し開くものがあった。QXの舌だ。QXの温かい舌はレインの歯と歯の間をこじ開け、舌同士が絡みあい、舐め、ねぶり、かき回す。粘ついた水音がレインの頭の中に響く。QXの舌はまるで荒れ狂う蛇のようにそのままレインの口腔内を全て舐めつくし、根こそぎすべての唾液を絡め取るように蹂躙する。
恍惚とした何かがレインの中を満たした。同時に心の内奥が全部さらけ出し、QXと溶け合ったような気持ちになる。
なんだろう、この多幸感は。
同時に、怖くなった。なにか、知らない感覚に身をゆだねている自分がまるで別の生き物になってしまったようだった。
不意にQXの舌がレインと離ればなれになり、ふたりの間に唾液が尾を引いた。
「……」
気付かぬうちにレインは、QXの肩に手を置いて寄りかかるようにしていた。力が抜けてしまったのだ。
何も聞こえない。辺りは一瞬にして静まり返っていた。
「はい、これで契約完了です!」QXが満面の笑みで言った。
「契約って、ここまでする必要あったのかよ……舌まで入れるなんて」
「はい! 口腔内のDNAを採取、解析させていただきましたから。もっと他の手段もありましたけど」
そう言うとQXの視線がわずかに下がる。レインの下半身を見ていた。
「もういい! もういいから!」思わず内股になって体をくの字にさせてしまった。それを見たQXが驚いたのか、目を丸くして唇に指をあてていた。悪戯っぽい笑みは怪しげな魅力があった。
「ひょっとして、初めてだったんですか?」
「そうだよ! なんでお前にそんなこと聞かれなくちゃいけないんだよ!」
「だって、あなたはわたしのマスターですから。信頼関係を築くには、まずお互いのことを知らなければなりません」
「なら、聞かせてくれ。おまえも契約は初めてなのか」
「はい! マスターは私の初めての人です! 責任とってくださいね!」
にっこりと笑顔で言われてしまった。
砂上船を失い、引き換えに得たのは全裸の美少女。これから自分はどういう風に生きるのだろうか。レインは変わることがないと思っていた自分の未来が、たった一日で激変してしまったことに今更ながら気が付いた。
「そういえば、教えてください」
「……なにを」
「マスター、あなたのお名前を」
男女が知り合うには、順序がまるで逆だ。レインは今更ながら頭を抱えた。
「……レイン・カリフ。そう呼んでくれ」
投げ捨てるようにレインが自分の名前を言い放つと、QXは嫌になるほど馬鹿丁寧なお辞儀を返してくれた。
「はいマスター。わたしことクラウド型試作フェムトフレームKYHF-八四二、通称QXは、いま正式にレイン・カリフ、あなたの所有物になりました」
見る者を残らず陶然とさせる笑顔を浮かべ、QXが宣言した。
ひしゃげた内壁の向こうには暗闇があり、星が瞬いていた。