1話【死因は過労死】
俺、黒崎零! 普通の社会人! ただちょっと人と違うところがあるとすれば、働いている会社がブラックってとこかな!
色々と限界であった。
俺、黒崎零は、早朝の山手線外回りの満員電車に身を任せ、窓の外をぼんやりと眺めていた。
空は曇天で、小雨が街を濡らしている。
やっと今回のデスマーチにも終わりが見え始め、ちょっと落ち着いたところで、3日ぶりの帰宅である。
久しぶりにベッドで寝れる、もう会社の硬いソファーは嫌だ。
そう思っても、哀しい事に、これから3時後にはまた出勤である。
ふと、人いきれで曇る電車の窓に、死んだ魚と同じ眼をした男が写っていた。
そのまま何秒か見つめ合い、あ、こいつ俺か、と気付いたところで嫌になる。
俺と同じ時間に退社した後輩は、こんなの地獄だと泣き言を吐いていたが、俺から言わせて貰えばまだまだだ。
俺なんて、入社していきなり1ヶ月、会社から帰れなかった。
会社のソファーで順番に仮眠を取り、どうしても風呂に入りたい時は、会社の近くの満喫に行って、シャワーを浴びていた頃に比べれば、今回は天国だ。
何てったって家に帰れるし、家に帰ればベッドで寝れる。
しかし、流石にその事は後輩には黙っておいた。
奴もいつか気付くだろう、地獄だと思っていたその先に、更なる地獄があるのだと。
まぁ、それに気付いた頃には、会社を辞めていそうだが。
電車が止まり、ホームに人が吐き出される。
俺は人の流れに身を任せ、電車の外に一旦押し出されてから、再び成すがままになりながら、車内に戻った。
扉の窓には、相変わらずくたびれたおっさんが写っている。
よぉ、また会ったな。
まだ入社して3ヶ月しか経っていないと言うのに、俺の身体はあちこちにガタが来始めていた。
体力には自信があったつもりだったが、そんな自信は何の足しにもならなかったようで、激務に次ぐ激務、徹夜に次ぐ徹夜の連続によって、俺の身体からは健康って奴が、とっくの昔にどこかに行ってしまっていた。
人間ドックに行けば、いくつかの数値が異常を示すんじゃないだろうか。
まぁ、人間ドックに行く時間があったら働けというのが、会社のスタンスだろうが。
いっそ清々しい程までのブラックぶりだ。
目下、俺の探し物は健康だ。
見つけ難いものなのだろうか。
通勤鞄の中にも、会社のデスクの引き出しにもあるはずもない。
確実に言えるのは、これから会社を休んで病院に行って、精密検査でもすれば見つかるという事だ。
夢の中に行くよりは、よほど現実的だろう。
しかし、俺の会社は勝手に休む事を許してくれないのだ。
俺の会社。
何と恐ろしい響きだろう。
自分で言って、あまりの語感の恐ろしさに震え、思わず現実逃避を図るレベルである。
入ってすぐに、巷で噂になっていたブラック企業の実態を知り、同期の連中と、こんな会社すぐにやめてやる、と言い合って、気付けば3ヶ月、同期で残っているのは俺だけだ。
おまけに、俺はあんな会社に帰属意識を覚える程、社畜精神を育んでいたらしい。
俺は電車の扉に写る自分を見ながら、何故こんな事になったのか、かつての自分に想いを馳せていた。
都内にある、そこそこのレベルの私立大学の文系学科に合格した時、これで人生何とかなるだろうと根拠も無く思っていた。
しかし、俺のそんな甘い考えを、恐ろしい化け物が無情に噛み砕く。
そう、就職活動である。
当初、自分という存在を過大評価していた俺は、すぐに就活を始めなかった。
何だかんだでどこかに受かるだろうと楽観視し、遊び耽っていた当時の俺を、出来る事なら思いっきり殴ってやりたい。
周りの苦労話を聞き、
「あれ、ひょっとしてやばい?」
と声が出たのは、大学卒業まで残り一年になってからだった。
慌てて俺も就活を始めるも、優良企業はとっくに選考を締め切っていて、俺に残された選択肢は、中小企業のみとなっていた。
それでも俺は、まだ望みを捨てておらず、様々な情報サイトを回っては、その中でも優良企業と呼ばれる所にいくつか応募した。
メールボックスに届いたお祈りメールの件数が、俺の年齢と同じくらいになった辺りで、流石に尻に火が着き、片っ端から面接を受けた。
そうしてやっと受かった会社は、世間ではブラック企業と呼ばれるような会社であった。
福利厚生一切なし、サービス残業当たり前、おまけに給料は雀の涙と、どうしてこんな会社を受けたのか未だに謎だが、それでも内定先が無いよりはマシだし、他の企業に受かったら、そっちに行けばいいやと考えていた。
結果?
言うまでも無いだろう。
俺のこの、ボロボロの格好を見て察して欲しい。
あの後も就活は続けた。
しかし、内定先がある余裕からか、いまいち真剣に成り切れず、気付けば卒業を迎えてしまったのだ。
だが、言い訳させて貰うならば、親父からは、とりあえず働いてみて、本当に駄目そうなら辞めても良い、と言われていたし、おばあちゃんだって、何とかなるよ、と言ってくれたのだ。
それから俺は、事あるごとに、
「こんな会社やめてやる!」
と、憤ったが、結局やめる踏ん切りが着かず、社畜の扱いを甘んじて受け続けていた。
おばあちゃんの死に目に会えなかった時は、本気でこんな会社辞めようと思ったが。
おばあちゃんは、戦後という激動の時代を、小さい親父を連れて女手一つで乗り越えた、俺の尊敬する人物の一人である。
その時の苦労話は、小さい頃から耳にタコが出来る程聞かされてきたので、良く知っている。
俺が大学に合格した時、家族の誰よりも喜んでくれたおばあちゃんは、就職が決まった時も、同じぐらい喜んでくれた。
そして、俺には、零戦のエースパイロットであった祖父の血が流れているから、どんなに辛い事があっても、勇敢に頑張りなさいと、励ましてくれた。
そんなおばあちゃんが倒れたと、親父から連絡があったのは、今から一月ほど前、入社して二ヶ月程経った頃だった。
デスマーチの真っ只中にその連絡を貰った俺は、いても立ってもいられなくなり、祖母の見舞いを理由に退社しようとしたが、会社は俺の事を帰してくれなかった。
曰く、納期が近いのに休暇を取らせる訳にはいかない、との事だった。
何度事情を説明しても、「ノー」の一点張りで、これには俺もキレかけたが、何とか自分を抑えると、そこから1日も家に帰る事なく、修羅の如く仕事に取り組んだ。
その結果か、デスマーチは予定よりも一日早く終わり、俺達社員には一日の休みが与えられた。
俺は退社すると、スーツ姿のまま、実家へと向かったのだ。
俺がボロボロの身体を引き擦って実家に帰ると、そこには、変わり果てたおばあちゃんの姿があった。
言葉を失い、立ちすくむ俺の肩を叩いて、
「ついさっき、逝ったよ」
と、親父は力なく笑った。
話を聞くと、おばあちゃんは何度か危ない状態になったが、その度に、
「零に会うまでは死ねない」
と呟き、持ち直していたらしい。
それでも、最後に眼を覚ました時に、俺がいない事を知ると、
「仕事じゃ仕方ないわね」
と小さく笑い、俺に、
「仕事を頑張るようにと伝えて欲しい」
と、親父に言付けると、そのまま眠るように亡くなったそうだ。
呆然とする俺の代わりに、親父は会社に連絡して休暇の折り合いをつけると、
「数日休みを取ったから、しばらく休め」
と、言った。
そこから先は、良く覚えていない。
お通夜も葬式もやったはずだが、記憶には無い。
気付けば、帰りの電車の中で、過ぎ去る風景を眺めていた。
久しぶりに会社に戻ると、休暇に対する嫌味とばかりに仕事を押し付けられ、鞄に入れた辞表を出す間もなく、社畜としての生活が再び始まった。
それからも、事ある事に辞表を提出しようとしたが、その度に、仕事を頑張るように、と言うおばあちゃんの遺言が頭をよぎり、今、俺の家のごみ箱は、出せなかった辞表で一杯になっている。
俺は今、自分でもどうしたいかわからなくなりつつあった。
働いている内に、笑う事はとっくには無くなっていたし、楽しい事なんか1つも無かった。
勿論、趣味を作る時間も無い。
唯一、こうだと言える事があるとすれば、ここ3ヶ月、健康的で文化的な生活など、1秒も送ってはいないと言う事だ。
俺の生活には、寝る、食う、働くの3項目しか無かった。
自宅警備員の方が、まだいくらか彩りのある生活をしているだろう。
そうして出来上がったのが、窓に写る、死んだ眼をした男だ。
こんな底辺に這いつくばって、俺は何をやっているのだろう。
いっそ、会社を辞めてしまえば、答えが見つかるのだろうか。
俺はぽつりと呟いた。
「行きたいなぁ、夢の中」
周りの奴に変な目で見られようが、知った事か。
どこか別の場所に行きたい。
出来れば剣と魔法があって、魔王がいて、俺が勇者で、最高の仲間がいて、ハッピーエンドなファンタジーな世界に行きたい。
いや、冒険者として自由気ままに生きるのも、悪くは無いな。
まぁ、無理なんだけどさ。
俺は人知れず小さく笑って、そうして久しぶりに笑った事実に気付く。
少なくとも、おばあちゃんが亡くなってからは初めてだろう。
今思えば、おばあちゃんの言葉には、笑って、とか、苦しい時でも、とか、そういう言葉がくっついていたのでは無いかと思う。
もしそうなら、おばあちゃんが今の俺を見たら、きっと悲しむに違いない。
せめて、人に見られて恥ずかしくないよう、身嗜みくらい、気をつけるか。
寝る前に、よれよれになったワイシャツに、アイロンをかけるのも良いかもしれないな。
俺が気持ちを改めて前を見ると、死んだ眼をした男は消えていた。
電車が家の最寄り駅に着き、再び大量の人が吐き出された。
雨の日特有の息苦しい電車から解放された俺は、人の流れに乗っかり、ホームの濡れた階段に足元を取られながら、昇っていく。
身体は疲れ切っていたが、いつもの陰鬱とした気持ちは何処かに消え、俺はどこか晴れやかな気持ちで階段を昇りきった。
何だか、自分を褒めてやりたい気持ちでいっぱいになり、
「よっしゃ、頑張るぞー!」
と、大きく伸びをした。
その瞬間、
心臓が止まり、俺はそのまま死んだ。
黒崎零、享年23歳。死因は、過労による心臓麻痺。
俗に言う、過労死であった。
主人公、過労死で死ぬ、完。