5節目:ふたりが生死を彷徨う頃の、日英関係は。
「はぁ、はぁ…はぁ、」
私の手に握られた調理包丁は、もう使いものにならなくなっていた。
でも別にいい。 どうせもう二度と使わないのだから。
幸運にも最後の一兵が、私の利き腕に弾丸を当ててくれた。
兵士の5人や6人、気になって来る敵はいない。
このまま放っておけば、私は出血多量で命を絶つことができるだろう。
「…あ、駄目だ。 一番大切な人を、忘れていた…」
私は貧血でふらふらする足取りで、床に物が散乱した家に上がった。
きょろきょろと見渡すと、それは暖炉の上で誇りをかぶっていた。
それは―― 一枚の写真だった。
写真立ての中では女の子の赤ちゃんが、優しそうな両親の間で無邪気に笑っている。
「ああ、よかった…壊れてなかったみたいだな…」
私はそれを胸に優しく抱くと、自然に口角が上がるのがわかった。
「ふふ…不思議だな。 置き場所も忘れていたのに、ぎりぎりで思い出すなんて…」
私はもう一度写真をまじまじと眺めると、両親の顔を指でなぞる。
「……。 ―ふっ !」
パリィーン!
ガラスの破片が四方八方に飛び散り、写真が床にひらりと舞い降りる。
もう私は涙を我慢してあげない。 だってこれが最後だから。
私は泣き叫びながら使い物にならなくなった調理包丁を、
写真に向かって、何度も何度も振り下ろした。
「だから私はあなた達が大嫌いよ!
思い出の中でだけいい顔して、現実では何もしてくれなかったじゃない!」
雫がこぼれてぽろぽろと床に落ちて消えていく。
何もなかったように木製の床は、その雫の意味を知らずに吸い取ってしまうのだ。
「父さんは嫌い。 でも母さん……あなたはもっと嫌い!
今日だって…ううん今までだって! 私の誕生日なんて忘れてたくせに!!― 」
やっと包丁の刃が止まった時には、
写真はもう原型を留めていない程、ばらばらになっていた。
私は糸が切れたように、泣き顔のままその上に突っ伏した。
そして長く浅いため息をついた後、視線が汚れた台所へ向く。
「ボルシチ…食べたかったなぁ…」
視界がゆっくりと幕を閉じていく。
ああ、これが「死」ってやつか。 あっさりしすぎて逆に奇妙だ。
1914年8月。 連合国の一国である大英帝国は、苛立っていた。
「ああもう面倒くせぇ! 昔はこの辺りの海は、
全部大英帝国様が仕切ってたっつーのによぉ!」
ドンッ!
赤い絨毯のしかれた、きらびやかで上品な会議室。
そこで会議員達は丸いテーブルをぐるりと囲んで、
ひとり苛立ってテーブルを叩く男性を眺めている。
「お、落ち着いてくださいよエドワードさん……」
恐る恐る名前を呼ばれたその男性は、えりあしまである金髪、
青緑の少し釣り上がったシャープな目をして、軍服に身を包んで肘をついていた。
「まあ、わかってるけどよ… 常に落冷静さを保つのが英国紳士だからな」
そう言いつつもその顔は不機嫌で、もう片方の手は
テーブルをタンタンと人差し指で叩いている。
「てゆーか何だよあのドイツ艦隊! あんなに厄介だとか聞いてないぞ!」
「だから今、対策を考えてるんじゃないですか~。 一向にいい案出ませんけど……」
「それを言うなってば! あ、そういや他の連合国はどうしてる?
ドイツ軍と東側ヨーロッパ戦線でタイマンはってるロシア帝国はどーだ?」
エドワードがそういうと、ひとりが鞄から資料を取り出して配った。
ためらいながらも、次々と内容が読まれていく。
「フランスは兵力はありますが、あまり目立った結果はありません」
「ロシア帝国は最初っから押されまくりです。 完全にドイツ軍のペースに飲まれてます」
「イタリアは何故か撤退の動きが……」
エドワードは歯ぎしりしながら内容を聞いていたが、遂に切れた。
「後半に行くにつれてどんっどん悲惨になってくじゃないかー!!」
両拳でテーブルを叩く様子を、会議員たちはおろおろして見るしかなかった。
「たぁく、本っ当に仕方ねぇなぁ…よっこら、しょっと」
エドワードは席を立つと、どこかに電話をかけ始めた。
「? あのー、エドワードさん。 どこに電話を…」 「決まってんだろ?」
エドワードは得意げににやりと笑うと、電話をかける相手の多大な業績を述べていく。
「東南アジアや朝鮮半島の支配者であり、
中国やロシアといった強国をなぎ倒した、極東に浮かぶ小さな島国…」
そう説明した瞬間、会議室がざわついた。 中には席を立ちあがる者もいる。
「ま、まさか…!」 「あの国を味方につけるのか!?」
エドワードは得意げにフフンと鼻を鳴らすと、電話に出る声を待った。
そして――――
ガチャッ
<はい、どちら様でしょうか?>
黒髪の男性は畳の上に寝転がりながら、庭の池を眺めている。
額には汗がしたたり、右手にはうちわが握られていた。
「あ~つ~い~で~す~……」
頭には軍帽を深く被り、下は黒い作業着、上はタンクトップの姿で、
だるそうにうちわを仰いでいる。
「あー、中立して正解でした。 最近色々とやる事多くて、疲れてたんですよね~
あ~、畳いいです最高です! 贅沢を言えば、この猛暑がなければいいのですが……」
そうやってごろごろしていると、隣の部屋から機械的な音が聞こえてきた。
リリリリリン、リリリリリン、リリリ……
「おや、電話? どっこい……しょっ、」
男性は腰をさすりながら立ち上がると、隣の部屋に受話器を取りに行った。
ガチャッ。
「はい、どちら様でしょうか?」
受話器の奥からは、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
<おお! 大和か? 俺だ俺! 大英帝国様だぞー♪>
「えぇっ!? エ、エドワードさん? な、何のご用でしょうか…?」
相手は今戦争中だ。 恐る恐る要件を聞いてみる。
<なんだぁー、察しが早ぇな! じゃあ早速なんだけどよー…… 頼む!!>
何を頼まれるのだろう。 自然と握った拳から手汗が流れる。
<俺と同じ連合軍に付いて、一緒にドイツ東洋艦隊倒すの手伝ってくれ!>
「えぇええぇーーー!?」
いきなり難題を突き付けられてしまった。 何故自分が!? 他にも同盟国はいるはずなのに!
<頼むっ! 俺たち同盟組んでるだろ? 本当困ってんだよー… ほらっ、この通りだっ!>
頭を下ろしたようなブンっと言う音が聞こえた。
…電話ですから見えないのですが… 大和はそう言われても不安がぬぐいきれない。
「で、でででもしかしっ! アメリカ合衆国も中立中なんですよっ!?
私の艦隊が外地派遣していては、本土の警備が手薄になってそこを攻められたらーっ!!」
<お、おおい落ち着けって! 大丈夫だってその時は俺が助けにいくから!>
「ちょ、ちょちょっと待って下さい!
早速今日軍部で話し合いますので… ど、どうか! 少々整理するお時間を下さい!」
受話器片手にオロオロする大和の体は細く、かつて中国やロシア帝国を敗した面影は無い。
苛立った声が帰ってくる。
<だーかーらー、何でそう消極的なんだよ!?
折角同盟組んでるんだから、協力しなきゃ損だろ?>
「しかし、今の私には―」
<ああもう、しっかりしろよ! お前大日本帝国だろうが!!>
あわただしく動いていた腕がピタッと動きを止め、身体の横に垂れ下がった。
「うっ…」
漆黒の瞳は深い海の底のように、暗く沈んでいく
カチャン…
「ど、どうでしたか…?」
固唾を飲んで見守っていた議員のひとりが口を開いた。
エドワードはため息をつきながら、頭を掻いて席に戻る。
「軍部で話し合うんだとよ。 ったく…さっさと決めろってんだよなぁ~…」
「まあ、慎重な性格になりましたからね… とくに、朝鮮に手を差し伸べてからは。」
「ああ、あの頃から大和は性格が丸くなった」
それは1910年…今から4年前の事だ。
当時朝鮮半島は飢餓と内乱で荒れており、中国と日本がその権益を巡って争っていた。
対象となった朝鮮内では、大英帝国・フランス・ロシア帝国などの列強諸国が
他のアジアを植民地化しているのに怯えつつ、親中派と親日派とに別れていた。
そして朝鮮内で甲午農民戦争が勃発すると、中国が介入、続いて日本も介入した。
ただこれは切っ掛けにすぎず、長年対立していた日中が直接ぶつかり合う事になる。
―それが、日清戦争である。
戦場には中国、大日本帝国の他に、小さなふたりの姿があった。
両方同じ顔をしていたが、ひとりは男の子、もうひとりは女の子である。
ふたりは後に、国となる存在なのだ。
お互いひしと抱き合って怯えながら、おぞましい光景を眺めていた。
眼の前で巻き起こる殺し合い、燃えて無くなる我が家、大地にしみ込む血の色……
少し背の低い女の子はべそをかいてしがみ付き、すすり泣きながら声を出した。
「こ、怖いですよ… 国の皆は混乱しててまとまんないし…
ワタシたち、どうなっちゃうですか…?」
泣きごとを口にする女の子を、男の子はその頭を、そっと撫でて慰めた。
唇を震わせ、何とか自分は泣かないよう、我慢しているように。
その姿は小さいながらに――意地を張っていた
「…待つんです、終わるのを… 今は全力で、嫌な事から背を向けましょう、姉上…」
いくら願っても、いくら眼を閉じても……耳を、塞いでも。
金属のぶつかる音は空気を振動させて、ふたりの体にもしみ込んでいたのだった……