2節目:私の家で、あいつと。
それから私も彼も、黙ったまま歩き続けた。
たまに彼の咳込む声が聞こえる以外は、ずっと静かだった。
「おい、ついたぞ。 これが私の家だ」
私の家は木製の小さな家だ。
キッチン、風呂とトイレ、ベッドと食卓の部屋しかないが、私ひとりには広い家だ。
「くぅあ~っ! あー肩がこった肩がこった。」
彼はおどおどしながら玄関戸に寄りかかっている。
「え、えと…」 「お前はそこでじっとしてろ!」 「ふ、あっ!?」
私は鞄を食卓に抛ると、彼をソファに ―半ば無理矢理?― 座らせた。
驚き声可愛いんだよ、兵士野郎が!
彼は落ち着かなそうにしていたが、そんなのは無視して戸棚をあさる。
「えーと…救急箱はどこだったか…」 「あの…手当ては嬉しいけど、戻るよ…」
「そんな怪我じゃ死ぬと思うぞ。」 「で、でも…君の親とか帰ってきたら、僕―」
ピタッ。 動きが止まる。 そうだ、私は先ほどひとりと言ったな。
「親なんて―いない。
父さんは母さんを捨てて、他の女と出ていった。
母さんはその後『身軽になりたい』と言って、幼い私を置いて出ていった」
「えっ? …ふーん、そうなんだー。」
私は初めて聞くその応答に振りかえる。
「ん? 意外な反応だな。
そう言うと皆たいがい、可哀想にねー、とか、
聞いてゴメンねー、とか言ってきたりしてたが」
彼は軽く咳込んでから、きょとんとした顔をした。
「あれ? そうゆうふうに言った方がよかった?」
「いや、お前の方がいい! そんなふうに言ってくる方がうざったいと思ってたからな。」
私たちは互いに軽く笑った。 へんなやつ。
救急箱は見つかったが、消毒液は足りそうにない。
飲み物はコーヒーでいいだろうか? 一応砂糖を混ぜておくか。
「だから私は家を追い出されて、安い家を借りて一人暮らししている。」
「ふうーん。」
「―笑える話だろう?」 「いや、あんまり。」 「どーでもいいけど。 ほら、飲め。」
私は彼にコーヒーを手渡した。 一口飲むと、少し顔をしかめる。
「ん、どうした?」 「あ、甘…。」 「砂糖、多かったか。」
「…うん。」 「はっはっは、黙れ。」
私は無表情に笑って答えた。
床下収納と言う名の冷蔵庫を
―この国は年中寒く、冷蔵庫は物を凍らせないためにある―
開けると、あった。
ウオッカだ。
これは高いアルコール度数のお酒であるため、消毒液がわりにはもってこいだ。
もっとも私は未成年だから、消毒液としてしか使った事が無いが。
「冷やすとおいしいんだよね、それ。」
私は彼に酒瓶を振りながら見せた。
「沁みても我慢しろよ。」
彼は頷くだけだ。 脱脂綿にウオッカを浸し、傷口に張り付ける。
「あっ…」 「我慢しろっつってんだろうが。」 「…ねえ、名前、何て言うの?」
彼は私が手当てするのを眺めながら聞いてきた。
「何で聞くんだよ。」 「聞いちゃダメ?」
でたよ、純粋なきょとん顔。
「私は私の名前が嫌いだから、あまり言いたくは無いのだがな。
…『ローシ』。 意味は『嘘付き』だ。 嫌な名だろう?」
私はまた彼に意地悪な笑みを浮かべてやった。
彼は遠慮する様子もなく、穏やかに笑った。
こいつには「気まずい」という感情が無いのだろうか?
「よく親が付けたね、そんな名前。」
「私の母さんが元々平気で嘘をつく人だった。
にもかかわらず父さんは母さんに
一目ぼれして駆け落ちしちゃって、その結果私が生まれた。
この名前は―、父さんが母さんに意味も教えずに付けた名前。」
彼は何も言わずに見下ろしてくる。
「バカだよな、父さん。 後から母さんが嘘つきだって気付いたんだ」
「ふふっ…そうだねー。」
うんわかった。 気まずいとか無いんだな、お前には。
今度はわたしから質問させてもらおうじゃないか。
「お前は何て名前なんだ?」 「え…、僕?」
手を止めて見上げると、彼は驚いたような、戸惑うような顔をしていた。
「呼ぶとき相手が無なしじゃおかしいだろう。」
「………言えないよ。 とゆうより、言いようがないしね」
「言えない…? 何か事情があるのか? そうならそうと言え。」
それでも私が尚見つめてくるので彼は観念したのか、
深くため息をつき、首を2回ほど横に振ると、仕方なさそうに口を開いた。
「えーと…僕―、名前…ないから。」 「…は?」
彼は意味や感情のこもっていなさそうな微笑みを見せた。
私はサウナで温まりながら、先程の彼の言葉の意味を考えていた。
『名前が無い…とはどうゆう事だ? 生まれつき孤児だということだろうか…
いや、だとしても引き取った叔父か誰かが名前くらいつけるはずだ。
だとすると…余程嫌われていて、名前を付けてもらえなかったとか?』
「― ねぇー…」 「うわっ!? な、なんだ?」
突然、戸越しに声をかけられた。
なんだ? 晩飯なら ―もう8時を回っているが― まだ煮込んである最中だぞ?
私は一応タオルで最低限度の範囲をおおうと、戸を開けた。
「どうした、鍋が吹きこぼれたか?」 「あのさ―、中…僕もいい?」
そう言うと彼は、子供のような顔で微笑んだ。
「は? …ばっかやろう。」 「えー、だめ?」
「駄目とかそうゆうこと以前に、傷に染みたらどうするんだ。
折角手当てをしたのに、治りが遅くなってもいいのか?」
と言うより、私は他の理由を想像していた。
口に出すのはやらしいから、あえて言わないが。
私の想像をよそに、彼は声を立てて笑った。
「あはは、心配してくれるんだぁ。 うれしいなあ~、そんなの初めてだよー。」
とことん話がかみ合わないな、こいつは。
「そうゆう訳で寒いなら暖炉付けていいから、傷のためにも歩き回るな。」
私はバタンと戸を締めた。
僕はしばらくして「はぁー。」と呆れたような溜息をつくと、
「痛たた、」とか言いながら暖炉の前に屈んだ。
「…そうだよねー、気を許してくれるはずないよねー。」
僕は薪を投げ入れると、それに火を付けた。
「別に…これくらいの怪我、すぐに治るのになあ。」
彼は寂しげに、ちらちらと燃える炎をみつめた。
「あ、ローシちゃん。 遅かったねー」
私がサウナから上がると、彼はキッチンの前で鍋に何か入れていた。
「ちょっ―!! 何適当に入れてるんだ! やめろ!」
私は慌ててキッチンに飛び込んで、きょとんとしている彼の腕をつかんだ。
「え? だってこれ…」
「言い訳はいい! 全く、いったい何を入れ― …それは……ローリエの、葉…?」
沸騰した湯の中に、緑色の葉が浮かんでいる。
彼は微笑んで、作業を続けながら口を開いた。
「これ…ボルシチでしょ? …材料でわかった。
沸騰してたけど、ローシちゃん出てこなかったから…だめだったかな?」
「…いや、それでいい…。」
『兵食などでは調理係にならない限り、ボルシチの調理法などは知らないはずだ。
ということは…こいつは家庭の味を、知っている! そして誰かに…愛されていた。』
私は楽しげに作業する彼の腕から、手を離した。 それに気づいて、彼が振り向く。
「ローシ…ちゃん?」
どうかした? と腰を曲げて顔を覗き込んでくる。
『さりげなく、聞いてみるか…?』
「よ、よく知ってるな。 親とかに、教えてもらったのか?」
彼はそんな事か、と言うように、残りのローリエの葉を鍋に入れた。
「うふふ。 ボルシチ、久しぶりだなあ~。 前は姉さんが、よくこうやって…」
「姉さん? 姉がいるのか?」
ついそう言ってしまった。 しまった、決断を早まり過ぎた。
「…ごめん。 やっぱり足が痛いから休むよ」
彼はとたんにそっぽを向くと、片足を引きずりながらソファへ向かった。
「…悪い。 とやかく聞く事じゃなかった、…すまない。」
答えは返ってこない。 彼は暖炉の火をさみしげに見つめている。
私は他の材料を鞄からとると、キッチンに並べて作業を続けた。
『一緒に作れたりしたらよかったが…扉を閉めだされてしまったようだ。
…あいつは一体、何処の誰なんだ?』
僕は炎をみつめながら、自分が昔暮らしていた時の事を、思い返していた。
『…姉さん。 …今、何処にいるのかなあ?
僕ひとりじゃ…守りきれないよ― こんな、広い国。』
僕は、料理を続けるローシちゃんを眺めてみた。
『ローシちゃんは悪い人じゃない。 僕を…助けてくれた』
それは、肩や足に巻かれた包帯が証明してくれている。
とたんに頬がほころびそうになったが、他の理性がそれを止めた。
『だから…余計に関わっちゃ、いけない…よね。 これくらいなら明日には治るし…』
「はあ…」
『明日は、ここを出なきゃ―』
「―ったぁ!? ~~~っ…」
頬づえをついた瞬間、手の平に衝撃が走った。
手首をもう片方の手で押さえる僕を、気付いたローシちゃんは振り返って笑った。
「ぷっ、はははは。 痛いだろ?
だーから強い衝撃を与えるんじゃない! じっとしてろ。 な?」
そう言って微笑んでくれると、また鍋に向き直った。
「う、ん…」
『あんなふうに笑うんだ… ってゆうより、僕に笑ってくれた ―嬉しい。』
僕は俯いて苦笑した。
誰かに見られてるわけでもないのに、笑ってるのが恥ずかしいかんじがした。
体の奥がなんだかくすぐったい。
『嬉しいな。 笑って…くれるんだ。』
僕はその恥ずかしさを何とか振り切ると、
片足を引きながらローシちゃんのとこへ歩いた。
「ん? どうした、まだ少し時間がかかるぞ?」
僕は少し、照れながら口を開いた。
「あ、あの…僕にも、手伝わせて…もらえるかな?」
『あっ! だめだ、「は?」って顔してる。 やっぱり言うんじゃ―』
だが帰ってきた言葉は、嬉しいものだった。
「―いいぞ。 じゃあそこのトマトをとってくれ。」 「…え?」
ローシちゃんは僕がきょとんとしてるのを見ると、少し不機嫌そうに声を上げた。
「手伝わないのか? 手伝うなら手伝うで、さっさとしろ!」
私がそう言うと、彼の顔が明るくなった。
「う、うん…!」
嬉しそうにそういうと、彼は鞄からトマトを取りに行った。
『なんだってんだ? やけに嬉しそうに……まあ、いいか―』
微笑みかけた、丁度その瞬間だった―
―バァアーーン!!
「なっ―!?」
パラパラと玄関の戸が、音を立てて床に倒れた。