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空の覇者

作者: ネッしー
掲載日:2026/03/01

 私はどうやら、この世界ではそれなりに恐れられているらしい。私も生きるため、生存競争の中を必死に生き抜かねばならないというのに、あまりに多くの者が私への対策を既に講じてしまっているのだからまいったものだ。それでもやはり一定数は馬鹿者というべきか、フラフラと私の前へ泳いでくる者だっているのである。それはたいてい体の一部が噛み千切られた、生気を失った者である。歯形から見るに、はるか私の上空で覇権を握っている鮫のものであろうが、奴も食べることに飽きてしまえば途中で獲物を捨てていく。私は基本的にそんなおこぼれをありがたく頂いているのである。私の鋭利な歯と、体格をふんだんに行使すれば上空の奴も捕らえられるが、今はこのゆっくりと時間の流れる世界の底に心地の良さを感じている。ここでは皆がまったりと過ごし、時間に追われることも、追うこともなく、ただ生活をしている。私だって恐れられる見た目はしているが、理解をしてくれる者だっている。「やぁ。調子はどうだい」なんて話しかけてくる者が最近は増えてきて嬉しい。私がここへ来たばかりのころは、「捕食者」と呼ばれ続けていたので、周りに誰もいなかった。「君のおかげで皆が安心して過ごせているんだ。感謝しても仕切れないよ」とこの間はタツノオトシゴと名乗る彼から言われたがために、私はここの者達の役に立っていることも自覚し始めた。私が死ぬことであろう三百五十年後までは平穏が保たれることを、私は彼と約束した。「君は寿命が長いタイプの鮫なんだね。残念だけど僕はそこまで長生きってわけじゃないから、君よりは早く食われるよ。それまでだね」と彼は言うのである。私が「捕食者」から「鮫」と呼ばれ始めたのも何十年か前からなわけだが、もっとも捕食者なんて名前よりは幾分か良い呼ばれである。「僕が死んで、食われることなく、それで君が見つけてくれたら、是非食べてくれてもいいんだ。皆、君のためになりたいって思っているだろうね」と彼は得意げに言ってどこかへふよふよ泳いでいくのである。私は死んだ彼らの死骸を食らうことはなるべく避けたかったが、腐るぐらいなら食べてしまったほうがいいのかも知れない。と迷ってしまう。

 少し上へ進むと、光というものが輝かしく世界を照らしていて、そこにはたくさんの者とそれを食らう者もいる。色とりどりの者が互いに共存し合い、生き続け合う。そして、最近になって不思議な者が生まれたと話題になっている。それは私たちの世界ではあまり見られない形をしており、一つの芯から四本の触手が生え、丸いこぶのような物が付いているという。それはおおかた黒い色をしており、器用に移動をするらしい。驚くべきことに、その者たちはなんと食料を分け与えてくれるという。しかし、中にはそれを餌に私たちをどこかへ連れ去っていくという噂もある。まったく同じような形をしているというのに、真反対とも呼べる性格の差があるらしい。私は少しばかり興味があるのだ。この世界で、自分以外に食料を分け与えるような、私のような心優しき者がいるならば。是非とも会ってみたいものだ。私のように優しいというのは、少しばかり自意識過剰だろうか。

 私が寝床にしているところにはたくさんのヒトデという者がいた。全員が全員「僕たちはヒトデというんだ」「僕もヒトデというんだ」「ワタシだってヒトデよ、仲間外れにしないでちょうだい」「何言ってるんだい仲間外れなんかにしやしないさ、僕たちは皆ヒトデだからな」なんてガヤガヤ話しているわけだが、私はその会話を聞くのが好きであった。ヒトデたちは基本的にそこから動かないで常に固まっている。そのため誰が何を話しているかなど見分けがつくわけもなく、そもそも誰が誰なのか私には区別のつけようもない。そのため「ねぇグリさん? 彼が私の餌を盗んでしまったの。彼のこと食べてもいいんですわよ?」なんて言われても困るのである。ちなみに「グリさん」というのは私のあだ名である。親しい仲間からはそう呼ばれており、なんでもグリーンランドシャークというのが語源と聞いた。私のことをグリさんと呼ぶ者は基本的に信頼しているのであるが、最近はそうもいかなくなってきた。どうやら私のことを「食わない捕食者がいるらしい。そいつの近くは世界一平和で、素晴らしいところだ」という噂と共に広げている者が増えているという。そのため、まったく見たこともない白黒の私のような見た目の者が「あなたが噂のグリさんとやら? なんでも素晴らしいとお聞きしましたよ。是非仲良くしてくださいな」とあいさつしていくのである。私も私で「ええ、そのようで。最近は多くの者からそういわれます。それが当たり前になるよう願うばかりでね」なんてつまらない返答をするわけである。しかしウケはいいのだこれが。白黒の者は「まぁ素敵な方ね。あなたみたいな鮫さんが増えてくれればいいのにと思います……」と言う。「私もそう思います。その先駆けとなれるよう、長生きしていきますよ」と私は豪語する。私が長生きであることは周知の事実である。だからこそ、多くの者の思いを抱えているのかもしれない。ただ、ヒトデたちの思いは誰が誰か区別がつかないのであるから、相談するにしてもなんとか彼らに努力してほしいものである。

 さて、ヒトデたちも寝静まった夜更けになると、私はひとつ噂を確かめようと思った。上空に上がっていくと出会えるという食料を分け与える不思議な者。別に食べ物をもらうために会いに行くのではないが、ただ見てみたいのである。しかし、その者に会えるか会えないかという問題以前にひとつ大きな壁が立ちはだかっていた。


~覇者~


 私は新しい知識を新たに覚えるのが苦手だった。この世界のことを、あのタツノオトシゴやヒトデたちが「海」と呼んでいることも、最近になってやっと受け入れられたのである。この世界には先があり、そこには私たちが見たこともない者たちがたくさん過ごしているという。「陸」と呼ばれるその場所にも行けたらいいものだが、行って帰ってきた者は極めて少ないのであった。私が会おうとしている不思議な者たちはその陸からの来訪者であると聞いた。はたして私が連れ去られることになったとき、私は抵抗ができるのであろうか。戦うには申し分ない要素を備えているが、なんせ使ったことがないのである。ヒトデたちや、私のことを信用してくれる者たちを守れる自信など、実はないに等しいのだ。だから、不思議な者に会って、あっさりと私が消えてしまえば……誰にも合わす顔はないだろう。だが、そう、チラ見程度である。見られたらなんでもいい。それより、その者に会う前の、大きな壁というのはまた別のことである。辺りは心なしか暗い海から少し暗い海へと明るさが変わっていった。誰もいないのは当たり前であるが、なんでもこのぐらいの明るさであればその不思議な者に出会えるという。私を見て、恐れるだろうか。それとも、友好的に接してくれるであろうか。深い無音がしばらく続き、海の流動をも微細に感じられるような時間が経った。その時「グリか」と後方から話しかけられた。私はひどく集中していたから、その声に反応することができなかった。というのは言い訳であろう、しょぼんだ目をして眠気と戦っていたのである。すると私の視界の右側から突然奴が現れたのだから、私の眠気は収まった。「グリだな、どうした。ここまで上がってくるなんて」と奴は言った。こいつは私と同じ形の者で、この辺の覇者である。私とは反対に皆から恐れられ、そして恐れられることをしている。私は普段こいつの中途半端に噛み千切った残り物を食らい生活をしているのだ。「すまないね、君の睡眠を邪魔するつもりはなかったんだ。どうも最近、私たちに食料を分け与える不思議な者がいると聞いてね」と言うと奴は「ああ」と上を見上げた。「グリは、関わらないほうがいいだろう。あいつら、簡単に俺たちのこととっ捕まえて連れ去るんだ。俺の飯なんて最近ありゃしない。というより、飯を信用することができないんだ」。私はとても不思議であった。食べられるものには見境なく突っ込む者であったのに、なんと信用ができなくなったと言うのである。私は心配の念が生まれた。初めてかもしれない。「君が食事を躊躇するのかい」とかけた。奴はため息を軽くついた。「飯がな、あると思って食いつくとな、たまに体の制御がきかなくなる。上に上に引っ張られてな、口が痛むぜあれは。たぶんその食事を分けてくれるやつらだ。今まではこんなことなかったんだからな」と言う。私は複雑な気持であった。帰ってくる者がいないのではなく、捕まっている可能性がある。そのことに、怒りとは違う何かを感じた。「俺は」と奴は私の目を見つめるのである。かつての猛々しい目はもうどこかへ消えていた。疲弊したような、なにかを失ったような、そんな目であった。「俺の仲の良かったやつも皆そうやって連れ去られたんだ。お前は、大丈夫だろうが、お前までいなくなっては流石に悲しいぞ。お前につけられた、この傷が痛む日々を送るだろうな」そう言って尾の方にある傷を見せた。私の鋭利な歯で線を引くようについた白い傷跡。かつて奴が私の寝床へ侵入した際の喧嘩によってできた傷である。あの時、私のことを怯えた目で見ていた、あの者達の目が忘れられない。それからは丸くなったのである。しかし、私を怒らせた奴も中々であろう、立派な者だと認めている。私とて、いなくなってもらっては、過去が痛むのである。「大丈夫さ、私も関わろうとしているのではない。姿だけでも見られたらまた戻るさ。あわよくば、その食料を分け与えるところも見てみたいところだが」。奴は「そうか」と少し口調が上がった。感情豊かになったものである。「お前のことだからそいつらとも仲良くしようだなんて言うのかと思ったな。安心はしないが、少しな、少しは安心した」。奴は眠いからこれでとどこかへ行ってしまった。今思えば私は、奴の住処でさえも知らないのである。はたして、いつ消えてしまうかも分からない奴のことをもう少し知るべきであろうか。しかし、大きな壁は乗り越えた。というよりそもそもそんな壁はいつしかなくなっていたようだ。奴との喧嘩を覚悟していたが、安心した。

 覇者としての威厳が削られた奴との会話も終えたとき、また長い長い静寂の中に放置された。私は海に抱擁されている気分であった。これまで世界は永遠に続いているものと思っていたが、海という呼び名を誰かから貰ったときから、なんだか有限なものに感じ始めたのである。それは、世界というものに含有されている海というものを名付けた者がいるということは、その海の果てを見たということだと思ったのである。私であれば、端から端まで、見届けなければ世界と呼ぶことで留めていたところであろう。いつか、海の果てまで行ってみたいものである。一人で、誰とも会話も交わさず、なんの後悔もないように、静かに行きたい。そして、果てで息絶えたい。……私はかなり神妙な顔をしていたのであろう。「グリさん、悩み事があるのかい」と、ふよふよと泳いできた者が訪ねてきた。その者を見たとき、「僕が死んで、食われることなく、それで君が見つけてくれたら、是非食べてくれてもいいんだ」という言葉を思い出した。無論、私の前に現れたのはそのタツノオトシゴであった。「君は、あの時の」と私は尋ねた。タツノオトシゴは「はい、はいそうです。あの時の。覚えてくれてるとは」。しかし私には一つ不安な気持ちが心を渦巻いた。そしてそれは正しかったのである。タツノオトシゴは明らかに弱っていたのである。私のことを探していたのであろう、肩で息をしているように見えた。タツノオトシゴはそれでも力強く私に言ったのである。

「僕は、やっぱり先が短いようで。あなたに是非食べられたいと思うんですがね、この間別の者に食べられそうになったんです。いや、食べられそうになったわけではないんですがね、このあたりで連れ去られている仲間を見届けたんでね。それになるのも嫌なんです。どうですかね、今ここで食べていただきたいんです」

 私は何も発することができなかったのである。そして一つ、懐疑的なことを感じてしまった。タツノオトシゴはそんな私の表情に耐えかねて、真実を口にした。「グリさんが、ニンゲンと会いたがって、ここら辺をうろついているんだと噂が広まっていて、みんなが心配を口にしていた。僕もね、心配なんだよグリさん。あなたが、僕たちよりも先に死んじゃあダメだと思うんだ。責任の押しつけに近いけどね」。タツノオトシゴが、私のいる海の深さに最初疑問を抱かなかったことに不安を覚えたが、どうも私の考えすぎであったらしい。タツノオトシゴは少しばかり心の整理がついていないようであった。言っていることもわからなくないが、なにやら整合性にかけるというか、なんだか、落ち着きを感じられなかった。それより私には引っかかった言葉が一つあった。「皆に心配をかけていることは申し訳ないな、すぐに戻ることとするし、そうだな、少なくとも君のことを看取ってもいいだろう。その間、ニンゲンというものについて教えてくれないか」。タツノオトシゴは「ええ、ええもちろん、ありがとう。僕のためにありがとう」と明るくなってくれた。私も、渦巻く不安感が綺麗になくなった気がした。私とタツノオトシゴは共に底へと戻ることにした、結局不思議な者に会うことは叶わなかったが、タツノオトシゴからその者達のことがニンゲンだと教えてもらった。そしてタツノオトシゴはこう言った。

「ニンゲンは、そうですね、覇者ですよ、覇者。紛れもない、彼らが覇者ですよ」——

 底の寝床に着くころには、次第に騒がしいヒトデたちの声が聞こえ始めていた。私がヒトデたちのもとへ「すまない、戻ったよ」と声をかけると「グリさん、皆心配したんですよ、本当にニンゲンに会おうとしたのですか」「私たちすごく不安でしたのよ、こんなに怖い夜は久しぶりだわ」「ひとまずよかったよね、これでもう帰ってこないなんてことになったら僕たちも潮時さ」とより一層騒がしくなった。そして「まぁまぁ皆さんグリさんのことは心配しないでもいいですよ。グリさんはたしかにニンゲンと会おうと思っていたみたいですけど、こうして戻ってきましたし、ひとまずは、ね」とタツノオトシゴはヒトデたちを鎮めた。しかしヒトデたちは「誰ですかこの者は」「グリさんと二人きりで何をしていたんですかね」「何を言っているのあなたグリさんがそんなことを考えるわけ」「いやはやグリさんもお疲れでしょうから」と何やら勝手な妄想を始めてしまったのである。私がいてもいなくてもこの調子なようだから、なんとも楽しい者たちである。この深い、静かな海の中にあるこの騒がしさはやはり、好きだと言える。タツノオトシゴは「では僕はこれで、グリさん。まだ、少しばかり生きてみようと思いますよ。しかしやはり僕の先は長くないですから、その時はよろしくです。不思議だな、グリさんと接していると自然と敬語が出てくる。あの時のため口は、どうか寛大な心でどうか」。とふよふよとどこかへ行ってしまった。ヒトデたちも、タツノオトシゴの遺言ともとれるその言葉を、静かに聞いていた。しかし、上で私の前で現れた時よりは、彼は心なしか軽快な足取りで進んでいくのであった。「彼、死ぬのかな」、ヒトデがそう言った。「皆いつか死ぬさ、大事なのは死に方でも、死ぬまでの人生でもない。死ぬのは、避けられないのだから、美化することなく受けて立つべきだ」と別のヒトデが言った。私はそれに賛同し、「たしかに、死は避けられない。しかしせっかく死ぬのならば、美化ぐらいしてもいいのだよ」とヒトデたちに言った。ヒトデたちは静かだった。死ということについて、皆が真剣に考えている、と思ったのだが、そうでもないらしい。「ごめんなさいねグリさん、彼ら、不安で一晩中寝られていなかったの。今は寝かせてあげてくださいな」とヒトデに言われ、ヒトデの皆が寝ていることに気付いた。ヒトデが全員寝静まる。私は、あまりの無防備なヒトデたちを見て、もし私が上へ行っている間に襲われていたらと後悔した。しかし、自分の身を自分で守ることも覚えてもらわねば困る。ヒトデたちには、砂の中へ身を隠すことを教えてやろう。と、その講師としてある友人に訪ねようと思った。


~受け継がれる座~


 生存競争の海の中、私たちのように平和に過ごすことなど不可能に近いのである。私が寝床を今の場所に決める前は、広い範囲をゆっくりと泳ぐ日々を送っていた。私の生活圏は非常に他の地域の者からすれば、住みにくいという。ハリバットという者と昔共に住んでいた時期があった。彼は砂の中にいつも在中しており、私がそこら辺をうろついていると、突然話しかけてきて驚かしてくるような性格である。なんとも愉快な者である。彼は私のことを「プレ君」と呼んでいた。何が語源かは定かではないが、おそらくプレデターが語源だろう。皮肉というかなんというか、彼らしい名づけではある。そのハリバットは私によく暖かい世界の話をしてくれた。なんでも同じ海でも冷たさと温かさがあるらしく、それは心があったまるとかではなく、体感的なものであるという。私はにわかに信じ難がったし、まぁ彼は嘘をつくのに躊躇はしなかったから疑うのも無理はない。しかしこの話はその中でも彼がずっと語っていたことであったし、その時のハリバットの目というのはなんとも輝いていた。まるで夢をかたる幼魚のような目で語るものだからなんとなく信じていた。「暖かい世界があるんだ。本当なんだこれは。いっぺん行ってみるといいさ。まったく世界の様子が変なんだよ。皆体に絵でも描いてるかのような姿をしているし、この冷たい世界じゃあり得ないぐらい先の先まで視界が透き通っているんだ」。ハリバットはそういう話を飽きもせずしていた。私は「もういいよ。何度も聞いたせいで、逆にロマンを感じられないよ」と言ったことがある。「やれやれロマンを感じられないプレ君には同情するよ。君だっていつか出会うかもしれない運命の相手をよく妄想しているではないか」。とハリバットは何年も前の話を掘り起こすのである。「昔話だろう、あれはロマンではない。夢だ」。と私はいつも焦っていた記憶がある。

 そんなハリバットは現在フィアンセと幸せに過ごしているという。あんな者でも愛し合えるものなら私にも望みはあったはずだが、なんでもハリバットの見解では「君は優しすぎて逆に損をしているよね。少しいじわるな者のほうが意外とモテるのさ。プレ君恋って言うのは未知の感覚さ。相手を前に、なんだか感じたことのないものを感じたらそれが恋だろうね、はは」。と言うのである。その後彼は綺麗なミノカサゴと暖かい海で出会って愛を誓ったという。だからといって暖かい海に行きたいとは思わなかったが、たしかにカラフルなその配偶者はここら辺では見ないし、暖かい海はあるもんだと思っている。私の恋模様はここまでにしよう、打ち砕かれたわけでもないが、今現在において私のことを恋愛対象として見る者などいない。皆からすれば既に老人みたいなものだろうから。

 まだヒトデたちは皆眠っていた。その中の一人を起こした。「やぁ、君。おはよう。すまないね起こしてしまって」。「ええ、ええ、なんですかグリさん……」。そのヒトデは目覚めが悪いわけではないようだった。「すまないが、少しばかり離れる。必ずや帰ってくるから、皆に説明を頼めないか」。「ええ、いいですよ。しかし目途は立っているんですかね、流石にいくらか具体的な物がないと、皆が心配しますよ」。それは一理あったため、私は考えた。「そうだな、では一週間で帰ってくると約束しよう、その間、私ではない者にここの守りを任せる」。ヒトデは不安そうな顔をした。「ええ、いいんですが、その他の者というのは……」。私は少し上を見上げた。「覇者だ」。


——「グリからの頼みっていうから、なんだと思ったが、ここを守れって。何を考えているんだろうなあのグリは」と、尾の白い傷を奴はヒトデに見せていた。「あなた、グリさんの双子かなにか? 似てらっしゃるわ」「グリさんが一週間もいないなんて大変だな」「あなたはグリさんより強いのかい」「グリさんの頼みで来たんだからきっと優しいお方よ」。ヒトデたちは騒がしさをやめなかった。「ええい、一週間だ。俺の機嫌を損ねたら根絶やしに食っちまうからな」と奴は放った。「グリさんのマル秘エピソードとかありますかね」「グリさんって昔はどうだったの?」「というかあなたは誰なんだい」。ヒトデたちの質問攻めに奴はもはや呆れを覚えていた。「俺は、グリからはジャンって呼ばれてた。今はその名は呼ばないがな。あいつとは、少し複雑な関係なんだ」とジャンは言うのであった。海のように深い過去であろうそんな話はよそに、ヒトデたちはまた話を切り込んだ。「ところでグリさんはどこへ行くとおっしゃったのです?」ジャンは「そういえば」と思い出し、グリが進んでいった海の、霞んだ暗い海の先を見ながらこう言った。「そういえばグリは、アタタカイ海に行くって言ってたな」。無論、冷たい海に普段から過ごしている自覚はないのだから、ヒトデたちも「なんだか言いにくい名前だね」と口々に言うのであった。


~暖かい海と砂の中~


 私は住処としていた海から、南へと進み始めた。ハリバットが言うには「暖かい海っつうのはな、まず体が海に包まれるようなそんな感じだ。感じたこともないオーラをまとっている気分になってな、あと海の視界がすこぶる良くなる。あっちの言葉じゃエメラルドグリーンって言うらしいぜ。プレ君にも通ずるところがあるね」。ということであった。まったく想像もつかない説明ではあるが、それほどまでに未知の感覚があるということだろう。暖かいという、未知の感覚を頼りに進むのは容易ではなかった。私が南だと信じて進んでいった先には、あの白黒の私と同じような姿をした者がいたのである。「あら、グリさんじゃないですか? 私のこと覚えてらっしゃる?」と話しかけてくるのである。正直名前が思い出せず、しかしそもそもあの時も名を名乗っただろうかとも思った。「前にお会いしたのも随分前ですから、やはり忘れてますよね」と悲しそうに笑うものだから、私は必死に弁明をした。「いえ、覚えていないわけではないんです。ただやはりお名前が思い出せずにですね、いや失礼な話で」と言うと白黒の者は「まぁ」と驚いたようであった。「いえいえ、あの時は名乗っていませんでしたね。わたくしシャチと言います。覚えていただいていたなんて嬉しいですわ。してグリさんなんでまたこんな北へお越しに?」と言うのである。そこで私は南ではなく北へ進んでいたことを知った。私なりに感じたことのない感覚へと進んだはずであったが、どうも未知の感覚というのは、そもそも感じていることにすら気づかないものであるようだ。私はシャチの返答には困った。道を間違えて来たというのもなんとも恥ずかしい話であった。「いえ、とくに用ということはなくてですね。少しいつもとは違う散歩をしようかと思ったので、ええ」と苦し紛れに言ったが、シャチは純粋な心で受け止めた。「あら、グリさんはずっと不動だと聞いていましたから少しイメージが変わりましたわ。ふふ、以外とアクティブなお方なのですね」と明るく言うのであった。私は照れながら「はい、いえ、まぁ」とたじたじに返答するほかないのであった。「ところで」と私は、南への道を聞き始めた。「シャチさんはその南への道は知っておられますかね」急に改まったものだからシャチも空気の変化を感じたようだった。「南というと、わたくしの友人のペンちゃんがその話をしてくれましたわ。なんでも北から南へと大移動をする旅をしたことがあるとかないとか。ふふ、ペンちゃんいつもお目目を輝かせて語るのですわよ。ペンちゃんによると、そうね、あっちかしら」とシャチは私が来た道を見るのである。真反対に進んできたのだから、だいたいは予想できていた。「グリさんが来た道を、まっすぐ行けば南へ進みますよ」。私は「ああ、ありがとうございます。では、ぜひそのペンちゃんとやらにもお礼をお願いします、では」と、その場をできるだけ早く離れるように言った。おそらく私は赤面していたであろう、恥ずかしい話であるから。と同時に私はあの場で未知の感覚を覚えたからである。私はシャチのもとを早々に去っていく中で、ハリバットの言葉が頭の中を反芻していることに驚いた。それは「プレ君恋って言うのは未知の感覚さ。相手を前に、なんだか感じたことのないものを感じたらそれが恋だろうね、はは」という能天気に発せられたセリフ。私は少しばかり嫌な、しかしどこか未知の感覚に陥っていた。これが、その恋というものだろうか。それとも暖かい、という感覚に近づいているだけなのだろうか。

 シャチは、急いでいくように南へ消えていったグリさんを、微笑ましい感情で見送った。「まったくグリさんったら……」と呟いて、その背中を追うように南へと及び始めたのである——。確実に、グリさんとの距離を保ちながら。


 北から南へと海を進む道中では、様々な者に出会えるものかと思っていた。しかし、多少は目に入る者もすぐに逃げ出してしまうのである。いかに自らの周りの皆が私にとって心の拠り所であったのか痛感させられた。あのヒトデたちや、タツノオトシゴやシャチ。そして……ジャン。そのような者とどのように心を通わせたのかもはや思い出せないのである。私が恐れられているのは変わりないのに、それ相応の立ち振る舞いをしていないから、それもまた恐れの対象になる。「あいつは優しそうな顔をしてパクっと食いついてくるぞ」と続ける一日であった。なんとも昔とは一味違う言われである。私がジャンと共に過ごし、ハリバットと寝過ごした頃は、ただ恐れられるだけではなかったのである。逆に、この危険さに惚れて近寄ってくる者もいた。ハリバットは「君は元来モテるんだから、もうちょっと尖ればいいんだよ」と羨んでいた。実際私と似た見た目のジャンはかなりモテていたようで、しかしあいつは不器用というかなんというか、恋愛になると明らかに奥手になってしまう。「思ってたのと違う」とか言われて何度も破局をしていた。ジャンは当時「俺恋愛向いてないのかなぁ、もう付き合いすぎてバツが悪いぜ」とだんだん自信を無くしていた。「ジャンは、いいさ。そのままで」と私は全く慰めにならない慰めを決まったように言って、そしてジャンは「お前は、そのままじゃダメだぜ。ない物ねだりみたいなもんだな」とこれまた決まって言うのである。そして、「優しすぎる」というのはまだその当時は、まだ認めてくれる者もいたのである。今の者は、信用の心を失ってしまったのだと思う。それはジャンのように目から何かを失っているようで、少しばかりニンゲンとやらも関与しているのではないのだろうか、と不安な気持ちがよぎった。ニンゲンが私たちの心を荒ませているとは考えたくはないが、そう思った者たちが信用をなくしているのであれば、やはりニンゲンは我々の敵なのかもしれない。私のことを見て偽りの優しさを感じてしまう者を見ると、そう考えてしまうのである。

 海の温度が暖かくなる感覚は一日進んでもよくは分からなかった。よくわからなかったというのも不思議な話である。ハリバットは何度も温度の話を強調していたが、私からしてみれば、一番変化がわかりやすかったのは視界である。ハリバットはどうも感覚派で感受性を重んじるが、私は目に見えているものを信じるたちであるから、見えるもので判断をしたい。私の寝床のほうで見られる者以外の者も見ることができたため、やはり確実にどこかへ向かっているのはわかる。それでも、やはり世界は広いようで狭いのかもしれないと私は思うのである。「そこの方」と声をかけられた。私は声のした少し上を見ると、どこかで見たことがあるような姿をした者がいた。「私ですか」と尋ねると「はい、そうです。そこの方、鮫の方」と言うのである。その者は、北にも似たものがいた気がする。「私は、北から来たものですから、勘違いをしては申し訳ないんですが。あなたはグリーンランドシャークでしょう?」とその者はいうのである。グリーンランドシャークなどと言われたのは人生でも五回目程度であろう。「グリーンランドシャーク、そうですね、皆からはグリさんって呼ばれてまして」と私は言い「して、あなたはアザラシという者ですかね」と尋ねた。一度会話を交わしたことがあった気がしたのだ。ただ、その昔のアザラシとは別の者であろう。「アザラシ、はい。あれ、お会いしましたかね」とアザラシは少し焦るように言う。「いえ、似た者と昔会話を交わしたことがあるのですよ」と言うとアザラシは「へぇ」と言う。別の者であることは確実なようだ。「してアザラシさんは、なぜ私に?」と本題に戻した。「ああ、すみません。いえ、あなた鮫のようですから、私のことを嗅ぎつけて襲われるのかと思ったもんですから。不思議だったんです。優しいとは思いませんがね、らしくない。とだけ言っておきますよ」とアザラシは言う。咄嗟にアザラシは「ああしかし」とまくしたてて「優しくないというのは悪口ではないんです。なんていうんでしょう。たしかに優しいとは言えますが、抱え込むのはよくないですよ。あなたはとっても生きにくそうだ」と言った。私はアザラシの発した「生きにくそうだ」という言葉が腑に落ちたと同時に、反する気持ちもあった。「ええ、生きづらいです。しかし、それ相応に楽しむのです。私は今の私を後悔はしませんし、しかし今ここであなたを捕食しても後悔はしないでしょう」と言うと、アザラシは「なるほど」と納得するのであった。「グリさんと呼ばれるのも分かります。あなたは達観を越えているのですね。尊敬に値する。あなたみたいな者もいるもんですね」とニヤッと笑った。それはこの世界でも私のような異変があることを面白がっているようだった。そして、世界は狭いと思ってしまうことをアザラシは言うのである。「私はね、先日あるタツノオトシゴに懇願されましてね、そのタツノオトシゴを食べました」と言う。私は、動揺はしなかった。なんとなく、あのタツノオトシゴは私以外に頼みそうだと、察していたからである。それをこんなところで知ってしまったのだから、世界は狭い。「そうなんですか、自ら食べてくれと頼むなんて、不思議な者もいるもんですね」と私は知らないかのように言った。「タツノオトシゴは私に食べられる前に、言ってましてね。あるグリーンランドシャークの話を」とアザラシは話し始めた。私はそれを止めた、「いやいいのです。私ではありませんから、ただ私だってその者には心当たりがありますがね。その者に言っておきますよ。タツノオトシゴは無事に食されたと」と言った。アザラシは、たぶん私の嘘を見透かしていただろう。「そう……そうですか。あたなではないのですね」と背を見せた。「では」とお互い言い合い、別れる去り際。アザラシは静かに私にこう言った。

「タツノオトシゴは、悲しんでおりました。最期は、彼に見られたかった。と」それだけ言ってアザラシは去っていった。少し先まで、アザラシのことを見ることができた。視界が透き通っているのがわかった。そして私は、誰もいない海の中で「すまない……」と呟いてまた南へと進み始めた。私はタツノオトシゴを看取ることも願いを叶えることもできなかった。ただ、彼が目の前にいても、同じ末路を辿っている気がしてならない。その時、今度は下の方から「鮫さん鮫さん」と聞こえた。下を向いたとき、私は一瞬ハリバットかと思ってしまった。砂の中から、細長い糸のような者が話しかけていたのである。


~砂の覇者~


 砂の中から伸びるように姿を現したその者は、どうやら私とアザラシの会話を聞いていたようだった。「鮫さん、ごめんさいね、盗み聞きしてしまって。でもね、私あなたにどうしても聞きたいことがあって」と言う。私は「なんでしょう」と言いながら少しその者へ近づいた。あまりに細いため、遠くからはよく見えないのである。「ああ、ごめんなさい、食べるなら、是非私の質問に答えてからではどうでしょう」とその者は言う。私が近づいたのは、その者からすれば壁が迫るようなものであろうから、少し申し訳なく思った。「いいえ、いやすみません。食べやしませんよ。私も最近は雑食気味になってますがね、もう捕食者としての威厳はありません。でもあなたからはそう見えますか」とその者の質問を遮ってしまった。だがその者は真摯に答えた。「ええ、見えます。あなた、体中に傷がありますもの。なのに、喋り方といい、別人のようです。大きな傷ではないけれど、戦って生きた者の体です」と言う。私は、思い出したくない過去を探られているようで少し不安になった。確かに、ジャンを、まだジャンと呼んでいたころはそれなりに捕食者であった。それでも好物がまだ海藻だったあたり、その時点で何かはおかしかったのかもしれない。ただ生きている者を追いかけ、噛みつき、息の根を止めて味わうことに躊躇もなかった。忘れたい過去でもないが、思い出したくて思い出すものではない。今まで食べた者たちへの贖罪など数えていたら、それが罪滅ぼしレベルの時間を有することとなる。それは私が納得できないであろう。私はそんな過去を話すつもりはなかったがその話しかけてきた者に言った。「たしかに、昔はそうだったかもしれません。昔はたしかにいろんな者と戦い、食してきました」といい、あまり深堀もされたくなかったから「いや、いいでしょう。それより質問を遮りましたね。なんでしょうか」と言った。その者は「ああそうでした。そうですね、質問というのは、あなたは北の者なんですかね」と言うのである。私は少し驚いて「ええ、はいそうです。北から。でもなんで……」と聞くとその者は目を輝かせて「ねぇ皆、北から来たって。北から」と底に向かって話しかけるのである。するとおぞましい量の、その者と同じ姿の糸たちが底からうねうねと現れたのである。「北からの来訪者だ」「大きいね」「食べられたらどうするの」「いいや大丈夫さ」となんだかどこかで見たことのある騒がしさになってきた。無論、見たことしかない。「僕たちはチンアナゴって言うんですがね、鮫さん、私たち南の者なんです」と言う。私はそこでもう南に着いたのであろうかと思ったがそうでもないらしい。そのチンアナゴによるとここら辺は南と北の交差点のようなところであるらしいが、一つ注意してほしいと言った。「あんまり長居すると、鮫さんより大きなモノが襲ってくるよ」「そうなんだ、変な板が海面に流れてきて、そこからたくさん怖いのが出てくるんだ」「黒いんだよ」「皆同じ見た目をしているんだ」「僕たちは砂に隠れて大丈夫だったんだ」「鮫さんはすぐ見つかっちゃうよ」と口々に言う。私はその説明を聞いてそれが頭をよぎらないわけがなかった。私はチンアナゴに聞いた。「それはニンゲンというものか」するとチンアナゴたちは皆悪夢を思い出すかのように不安を口に出し始めたのである。「ああもう少し早く鮫さんに言えば」「ええ鮫さん許してくれますか」「どうか食べないで」「はやく逃げて」「鮫さん」と口々に言うチンアナゴとは目が合うことがなく、なにか私の後ろに強大な何かがいて、それに怯えているようだった。最初に話しかけてきたチンアナゴ以外は次々と底に潜っていき、その者だけがまだ顔を出していた。「鮫さん、ニンゲンは、強いです。逃げたほうがいいです。何も考えず南へ。ただ南へ」と言ってその最後のチンアナゴも潜ってしまった。私は何か背後に感じ取るものがあったが、忠告通りなにも見ずに、ただ南へと進むことにした。そして勢いをつけたとき、後方から、聞いたことのある声が、聞こえてきたのである。「……!」——聞き取れはしなかった。だが、助けを求めている声であった。そしてその声は、紛れもないシャチのものであった。私は「すまない!」とチンアナゴに別れを告げて、振り返り、その強大な影のもとで何かと戦っているシャチのもとへ戻り始めた。勝てる見込みはないというのに。

 南へ近づいて視界が良くなった結果、その声のもとはすぐに見ることができた。案の定シャチがいたのである。普通に過ごしていてそんな態勢になるのかというような、ほとんど逆さまになったり、横になったり暴れている。誰とも戦っていないように見えたのである。しかし、チンアナゴたちが恐れをなしていた強大な影に、私もすぐに気づいてしまった。海面の上空、黒い何かがいたのである。そこから無数の何かが伸びており、それがシャチに絡みついていた。まるでシャチを捕えるかのように。シャチは私に気付いた。「ああ! グリさん……ごめんなさい……ごめんなさい……!」と暴れるのを止めていく。まるで諦めているかのように。私はシャチのもとに行き「何を謝りますか、あなたが付いてきたことを責めることなんて私にはできない。謝らないでいいんだ」とシャチを宥めた。絡みついているものを解くのは容易ではなさそうであった。むしろ、暴れるほど絡まっていくような構造をしており、もはや手遅れに近かった。「グリさん……いいのです。私のことはもういいのです。自業自得でしょう? 私のせいでしょう? これでグリさんにも危険が及ぶと、私は悔やみ死ぬような気がします。あなたには関係のないことでしょう……?」と言うのである。私はどうすればいいのか分からなかった。シャチが望むように見捨てるのか、見捨てるという行為で私の首を絞めたまま生き続けるか。私はこれまでの後悔を思い出した。タツノオトシゴも看取れず、ヒトデにも心配をさせ、ジャンの名も呼ばなくなってしまって、ハリバットにも会えず。帰ることもできず、ここでまたシャチを見殺しにできるというのか。積み重なった、あの時の選択が、私を動かすのである。「シャチさん、私はもう後悔したくはないのです。あなたとの関係は浅いかもしれない。ただ、助けるべき者だと。そうだと断言してしまいそうです。私が誰かの願いを叶えられたことなんてないのです……。だから許してください」と私は海面に浮かぶ黒い影に進んだ。「ダメです……グリさん、ダメなのに」とシャチは言葉にならない気持ちで言う。シャチはこう叫んだ。「グリさん」私はその声に振り向いた。「グリさん……この絡まっている根本は一本の紐です。そこを噛み千切れば大丈夫です……!」——私はシャチの聡明さに驚きつつ、黒い影から垂れている一本の紐に向かった。その時、私ははるか昔の記憶の断片を思い出した。それはまだ私が捕食者であったころ、好物の海藻がなかなか噛み千切れずに奮闘した記憶であった。ジャンがその時近寄って「やれやれ、お前はそもそも食うことに向いていないんだな。噛み千切るっていうのはこうやるんだぜ」と私にお手本を見せた。「ん、あれ、なに、お前こんなもの食おうとしているのか」と結局ジャンも噛み千切れなかったのである。私はその時「ジャン、噛み千切るのではなく物の接着をはがさないと意味がない。こうやって、根元から食えばいいんだよ」と私は千切らずに一気にその海藻を飲み込んだのである。「なんだって俺よりワイルドな面があるなお前」と、ジャンが認めてくれたのを覚えている。

 私はその時噛み千切れなかったのを思い出して、ならばいっそ、今度は噛み千切って見せようではないかと紐に牙を引っかけた。紐は重く、歯が取れてしまうのではないかと思うぐらい引っ張っても、重かった。しかし紐自体はそこまで頑丈なものでもなかったのである。紐は千切れた。茶色のちぢれた毛のようなものが辺りにふよふよ舞って、なんだがとても不味い味覚を感じた。海のものではない、不思議な味であった。私は千切れたのを確認して、下を見下ろした。シャチはいた。私を見上げてこう言った。「グリさん……!」——私はなんだかうれしく、照れるような気持になった。自分の手で、初めて直接的に何かを成し遂げた気持ちが、私の中を渦巻いた。私は絡まったまま動けないシャチの紐を噛んで、シャチごと引っ張るようにその場から南へ進み始めた。あの黒い影を振り返ると、黒い、同じ形をしたような何者かが三ほどいたのである。その者たちは追いかけてくることもなく、ただこちらを見ているだけであった。何か黒い物を体の中から出して、こちらに向けている。私はまた、シャチと共にその場を離れ始めた。次第に私とシャチは、自然と体を寄り添うように海を進み始めていた。それが北なのか南なのか、気にする必要はなかった。


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