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【証拠はいらない】推しは悪くない

作者: Wataru
掲載日:2026/01/22

相談者は、三十代前半の女性だった。


服装はきちんとしている。

化粧も薄く、隙はない。

ただ――椅子に座った瞬間から、肩がずっと強張っていた。


「時間、いいですか」


「いつも通りだ」


彼女は、少し迷ってから口を開いた。


「推し活を、やめるべきか迷ってます」


「ほう」


「……笑わないんですね」


「笑う理由がない」


彼女は、少しだけ肩の力を抜いた。


「三十二です」

「周りは、ほとんど結婚しました」

「子どもの話も、普通に出ます」


指先が、無意識にバッグの縁をなぞる。


「私は、今も推しが好きで」

「ライブに行って、配信を見て」

「それだけで、救われてる」


「でも?」


「このままだと」

「結婚もしないで」

「気づいたら、選択肢がなくなるって」


彼女は、苦笑した。


「“今しか産めない”って」

「そう言われると……」

「逃げてる気がして」


俺は、しばらく黙っていた。


「で、何をしてほしい」


「決めたいんです」


即答だった。


「やめるか」

「続けるか」


「証拠は?」


彼女は首を振る。


「いりません」

「データも、正論も」

「全部、もう聞きました」


「じゃあ、聞くぞ」


「はい」


「推し活をやめたら」

「安心するか?」


彼女は、すぐには答えなかった。


「……少しは」


「幸せか?」


その言葉で、彼女の視線が落ちた。


「……分かりません」


俺は頷いた。


「逆に聞く」

「このまま独身だったら」

「後悔するか?」


「……するかもしれません」


「“かもしれない”な」


彼女は、黙った。


「選択を迫られてると思ってるだろ」


「はい」


「でもな」


俺は、静かに言った。


「それ、二択じゃない」


彼女が顔を上げる。


「結婚か」

「推し活か」


「どっちか捨てなきゃいけない」

「そう思ってる時点で」

「もう、かなり追い詰められてる」


「……じゃあ、どうすれば」


「やめなくていい」


彼女の目が揺れる。


「続けていい」

「ただし」


少し間を置く。


「“逃げ場所”にするな」


「逃げ場所……?」


「推しがいるから」

「現実を選ばなくていい」

「考えなくていい」

「それを、理由にするなって話だ」


彼女は、唇を噛んだ。


「でも……」

「現実の恋愛は、怖いです」


「知ってる」


即答だった。


「誰だって怖い」

「結婚も」

「出産も」

「取り返しがつかない」


「じゃあ……」


「だからこそだ」


俺は、椅子にもたれた。


「推しは」

「責任を取らなくていい」

「裏切られない」

「終わりも、選べる」


彼女の目に、うっすらと涙が浮かぶ。


「……ずるいですね」


「優しいんだよ」


「え?」


「壊れない距離にいてくれる」


しばらく、沈黙。


「じゃあ、私は……」


「決断は一つじゃない」


彼女を見る。


「今すぐ結婚しなくてもいい」

「でも」

「“本当はどうしたいか”を」

「推しで誤魔化すな」


彼女は、深く息を吸った。


「……証拠、いりませんでした」


「ああ」


「答えも」


「もう持ってる」


彼女は立ち上がり、少しだけ笑った。


「推し、好きなままでいいんですね」


「好きなままでいい」


「……逃げなければ」


「そうだ」


ドアの前で、彼女は振り返った。


「私」

「結婚したいのか」

「それとも、怖いだけなのか」


「そこからだな」


彼女は、小さく頷いた。


ドアが閉まる。


相棒が言う。


「結局、どうなると思う?」


「さあな」


俺は窓の外を見る。


「でも」

「自分で選んだ時間なら」

「独身でも」

「結婚しても」

「後悔は、少なくなる」


静けさが戻る。


推しは、悪くない。


ただ――

人生の代わりには、ならない。


それだけの話だ。


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