【証拠はいらない】推しは悪くない
相談者は、三十代前半の女性だった。
服装はきちんとしている。
化粧も薄く、隙はない。
ただ――椅子に座った瞬間から、肩がずっと強張っていた。
「時間、いいですか」
「いつも通りだ」
彼女は、少し迷ってから口を開いた。
「推し活を、やめるべきか迷ってます」
「ほう」
「……笑わないんですね」
「笑う理由がない」
彼女は、少しだけ肩の力を抜いた。
「三十二です」
「周りは、ほとんど結婚しました」
「子どもの話も、普通に出ます」
指先が、無意識にバッグの縁をなぞる。
「私は、今も推しが好きで」
「ライブに行って、配信を見て」
「それだけで、救われてる」
「でも?」
「このままだと」
「結婚もしないで」
「気づいたら、選択肢がなくなるって」
彼女は、苦笑した。
「“今しか産めない”って」
「そう言われると……」
「逃げてる気がして」
俺は、しばらく黙っていた。
「で、何をしてほしい」
「決めたいんです」
即答だった。
「やめるか」
「続けるか」
「証拠は?」
彼女は首を振る。
「いりません」
「データも、正論も」
「全部、もう聞きました」
「じゃあ、聞くぞ」
「はい」
「推し活をやめたら」
「安心するか?」
彼女は、すぐには答えなかった。
「……少しは」
「幸せか?」
その言葉で、彼女の視線が落ちた。
「……分かりません」
俺は頷いた。
「逆に聞く」
「このまま独身だったら」
「後悔するか?」
「……するかもしれません」
「“かもしれない”な」
彼女は、黙った。
「選択を迫られてると思ってるだろ」
「はい」
「でもな」
俺は、静かに言った。
「それ、二択じゃない」
彼女が顔を上げる。
「結婚か」
「推し活か」
「どっちか捨てなきゃいけない」
「そう思ってる時点で」
「もう、かなり追い詰められてる」
「……じゃあ、どうすれば」
「やめなくていい」
彼女の目が揺れる。
「続けていい」
「ただし」
少し間を置く。
「“逃げ場所”にするな」
「逃げ場所……?」
「推しがいるから」
「現実を選ばなくていい」
「考えなくていい」
「それを、理由にするなって話だ」
彼女は、唇を噛んだ。
「でも……」
「現実の恋愛は、怖いです」
「知ってる」
即答だった。
「誰だって怖い」
「結婚も」
「出産も」
「取り返しがつかない」
「じゃあ……」
「だからこそだ」
俺は、椅子にもたれた。
「推しは」
「責任を取らなくていい」
「裏切られない」
「終わりも、選べる」
彼女の目に、うっすらと涙が浮かぶ。
「……ずるいですね」
「優しいんだよ」
「え?」
「壊れない距離にいてくれる」
しばらく、沈黙。
「じゃあ、私は……」
「決断は一つじゃない」
彼女を見る。
「今すぐ結婚しなくてもいい」
「でも」
「“本当はどうしたいか”を」
「推しで誤魔化すな」
彼女は、深く息を吸った。
「……証拠、いりませんでした」
「ああ」
「答えも」
「もう持ってる」
彼女は立ち上がり、少しだけ笑った。
「推し、好きなままでいいんですね」
「好きなままでいい」
「……逃げなければ」
「そうだ」
ドアの前で、彼女は振り返った。
「私」
「結婚したいのか」
「それとも、怖いだけなのか」
「そこからだな」
彼女は、小さく頷いた。
ドアが閉まる。
相棒が言う。
「結局、どうなると思う?」
「さあな」
俺は窓の外を見る。
「でも」
「自分で選んだ時間なら」
「独身でも」
「結婚しても」
「後悔は、少なくなる」
静けさが戻る。
推しは、悪くない。
ただ――
人生の代わりには、ならない。
それだけの話だ。




