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作者: 橘わに

 ぽっかりと暗い淵がある。

 目の前にはだだっ広い夜の海。空よりも暗いその闇色が広がる。

 足元はよく見えない。重い砂を感じる。そして蠢く気配。明かりがあれば見知ってはいるが、訳の判らない浜辺の虫が這い回るのが見えるのだろう。

 見えない。見ない。それはない。

 自分が認識しなければ、何一つとしてない。

 この身体も。

 この心も。

 だから


 ——心を止めてしまおう。


***


 小さな漁村である。実際はそうではないが、この表現がしっくりとくるので久我好古はいつもこのように回想することにしている。

 脳裏に浮かぶ風景は小さな漁村。入江の手前に漁港があって、白い小型の漁業船が泊まっている。奥には赤いクレーン。海は青味の緑。潮風に錆びた漁港の鉄筋なんかをやけに鮮明に覚えている。

 現実を見れば人口四万人の「市」であった。だがビルの立ち並ぶ都市では決してなかったし、新興のベッドタウンでもなかった。農家が圧倒的に多くて次に漁師、サラリーマン、そして自営の商店と続く。

 ノスタルジックに寂びれ、そして足掻く。大型デパートを誘致して失敗したり、ディスカウントストアに商店街を食われたり、どこにでもある平凡な町だ。

 そこに久我好古は生まれた。

 父親は平凡な会社員だった。毎日二時間かけて会社に通う。母親は好古が小学校に上がった頃からパートに出始めた。祖父母は早くに亡くなっていて、近所に身内はいなかった。自身の兄弟としては兄がいたが、好古が二歳になる前に「階段から落ちて」死んでいるから、実質一人っ子ということになる。

 好古はよく覚えている。

 父親が暴力を振るったことを。強烈に焼き付いた記憶は四歳ぐらいだったか。もっと前だったのかも知れない。父親に殴られ、食器棚の角に背を強く打ちつけた母親がどんどん青褪めていき、手は陶器のように白く病的に濁っていった。その時初めて好古は「死」というものを垣間見た。幸いにして母親はその手に連れて行かれることはなかったが、ただそんな記憶から人生が始まる好古は父親というものに好感を抱くことが決してない。

 幼い頃それは「恐怖」だった。

 今は「憎悪」と「殺意」。

 それが、好古が父親に向けることの出来る感情の全てである。そしてある日唐突に覚えているはずのないものを思い出した。

 兄は、父に殺された。

 それが本当かどうか、母親に問うことは出来なかった。母親は疲れ果てていて、ある日出て行き、そして帰らなかった。前日に交わした「兄が死んだとき父はどこにいたのか」という問いかけが、母子の会話の最後となった。母親は「あの人は居間にいたわ」とだけ答え、後はお互いに沈黙した。どうしてそんなことを訊くのとも何も言わなかった。だから彼女なりに察するところがあったのかも知れない。

 もし好古の二歳に満たない記憶が作られたものではなくて、正しいのだとすれば、兄は好古の目の前で死んだのだ。階段ではなく、居間で。

 ロクデナシに殴られて。


***


 長く連絡の途絶えていた親戚から電話が掛かってきたのは、久我好古が大学にいるときだった。曲がりなりにも常勤の講師として教鞭を取るようになった、ということだけは話したことがあったから、大学に掛かってきたことを不審には思わなかった。久我は父親の訃報を、無感動に聞いた。

「明日の朝、新幹線で帰ります」

 そう言って電話を切り、残りの講義を終え、教務課に休講届を出し、淡々と細かなことをこなして家に帰ると市川がいなかった。

 ——当たり前だ。

 自分が仕事だったのだから、向こうだって仕事の筈なのである。だが理不尽にも久我は苛立った。用がない時だって当たり前のように傍らにいるくせにと詰る。

 それから苛立ったことに対して羞恥が湧いた。何故自分はあの男に依存するような真似をしているのだろうか。市川という男は久我の後輩で、同時に大家でもある。彼の3LDKの部屋の一室に久我は居候している。最初は転居先を探す間だけの約束だったが、奇妙に居心地が良くてそのままずるずると居続けている。

 だから慣れてしまったのだ、傍らに気配があることに。

 腹立ち紛れに上着をソファに投げつけて、市川の寝室にある大きなクローゼットを開けた。久我の借りている部屋は和室でクローゼットがなく、使わない洋服はここに一緒に仕舞ってもらっていた。市川の冬物の白いコートの後ろに喪服を見つけて安堵すると、久我は唇を舐めた。

 煙草を吸いたい。

 不貞腐れたまま、久我は煙草をえた。


***


 好古は嘲笑った。

 死んでしまえと呪詛を吐き、この、これほどの憎悪がどこから来るのかと不思議に思う。

 人間など欺瞞だらけの愚かな生き物だ。そう嘯き嘲笑う自分自身も腐っている。

 浅ましく腐って崩れ落ちればいい。せいぜい醜悪な姿を晒して惨たらしく死ね。殺したいほど憎んでいるのは父親ではない。破滅を願っているのは世界に対してではない。

 自分自身だ。

 何より大人の妥協を許すことの出来ない真っ直ぐな子供が世界の総てを拒み、何も出来ない自分自身の醜悪さに昂している。

 死にたがり。生きていることに対して喜びを見出せず、冷めた眼をして。だが奥底は憎悪で煮えたぎっている。人間に対する深い苛立ち。この傲慢さはどこから来たのか。一体、この身の内のどこから。

 父親を許せという。自分の父親なのだから、自分の為に許せと。だがあの男を許せば自分は自分でなくなるだろう。この怒りと憎悪が自分を、「久我好古」を形作っているのだから。

 許しとは何だろうか。

 そんな得体の知れないものに身を委ねろというのか。慈悲は悟りであり、悟りは感情の死であったではないか。悟りから還って来た釈迦のように聖人になどなれるものか。

 許せば自分は死ぬだろう。この胸にはそれしか感情がないのだから。憎悪を手放せば死ぬ。今の自分に出来る最上のことは忘れることであり、忘却を許さぬならば、せめて憎むことは許してくれ。

 そうでなければ自分は死ぬ。死んでしまう。

 俺を殺さないでくれ。

 生きることを強いながら、俺を殺そうとしないでくれ。俺に自由をくれ。解き放ってくれ、頼むからこの憎悪を。

 俺が解き放つことを許してくれ。

 俺が父親を許すときは、すべての愛情をも捨てるとき。すべての感情、すべての執着を捨てるとき。

 何故ならあの男は母を殺そうとしたから。

 決して誰も愛さなかったから。

 兄を殺したから。

 俺の記憶がそこから始まるから。

 俺の人生が恐怖から始まるから。

 だから、物だと思う。

 あれは俺の父親ではない。

 あれはただの『塊』である。

 俺はあの『塊』に対して何の感慨もない。あれはただの『物』で、俺は『物』になど傷つけられない。

 だから俺には父親はいない。

 何の情もないと、どれだけ俺が苦しんだか知らないで、俺を非難することなど許さない。

 決して。

 発狂したいほどに。

 発作的に闇がやってくる。闇が俺を喰う。

 死にたいと、発狂してしまいたいと。

 どうしようもないロクデナシの子供が、自分を忘れたいと泣いている。

 ロクデナシの子供である自分を、その存在を容認する為に誰よりも道理を知った人間であらなければならなかった。倫理を知り、規範に拠って立つ真っ当な人間。

 そうでなければならない。父親と同じになりたくなければそうでなければならないのに。強迫観念はいつしか自負にすり替わって、そうであることが誇りだった。非行に走ることもなく、自分の境遇を誰の所為にするでもなく、礼節を知った人間であろうとした。道理こそは矜持であったのに。

 どうしてこんな感情が湧いてくる。

 死にたい。

 死にたい。

 人が憎い。母を傷つけた父が。何もしてくれなかつた周囲が。守れなかった自分が。自分の中に流れる血が。総てが。

 憎い。

 この虚しさ。この空疎。虚無が胸に穴を穿つ。

 どうしたらこの空白が埋まるのか。

 どんな人間の血を引こうが。

 自分を決定するのは自分であるはずなのに。そうでなくてはならないのに。気がつけばあの男の行動を踏襲している自分がいる。ささやかな仕草から、理由のない激情の発露の瞬間まで。そうして絶望にゆっくりと首を絞められていく。どこにも逃げ場などないと、気付いてしまう。

 俺は弱い。

 俺は醜い。

 俺はろくでなし。

 俺は愚か。

 俺は卑怯。

 列挙したところで馬鹿馬鹿しい。自分を哀れんで酔えるほどに馬鹿ではありたくない。

 だがこのプライドの高さが、一体何の役に立つのか。

 総てがどうだっていい。そうだ。

 嘘を口にして鬱陶しいことが終わるのならばそれでいい。そう思っている自分は壊れてしまったのだ。歪んでいる。もう、駄目だ。

 きっと目は濁ってしまった。遠い日に誰かが綺麗な目だと言ってくれたのに、きっともう濁ってしまっただろう。打ち上げられた魚の様に。

 何がこんなに哀しい。何がこんなに苦しい。

 考えていないと心が死んでしまう。

 心を止めてしまえたら、どんなにか楽だろう。だが心を止めてしまったら、何も考えられない。考えられないなら、死んでしまった方がいい。それは尊厳だからだ。

 八つ当たりで壁を殴った。一番壊れなさそうだと思ったのに穴が開いてしまった。それで唐突に、自分がもう子供ではなくなったことを知った。もう無力な子供ではない。

 手が痛い。手が痛い。手が痛い。

 本当は、魂が痛い。

 壁に打ち付けた手も。

 泣いて腫れた目玉も。

 どうしようもなくて。

 助けてくれと叫べるような素直な人間じゃない。

 守りたいけれどもこっちが先に壊れそうで、もはや大事に思うことに疲れるほどに神経を擦り減らした。

 自分で手一杯で、子供の頃に望んでいたほど強い大人ではない自分。母親が出て行ったとき、何よりもほっとした自分が。


 ——これで自由になれる。


 まず自分のことを考えた浅ましい自分が、誰よりも好古を打ちのめした。

 何故置いていったと泣くほど可愛げのある子供でもなく、守れなかったことを悔いるほど大人でもない。中途半端な存在だ。自分が悪いのか父親が悪いのかわからなくなってくる。

 好古は笑った。

 笑うしかなかった。

 目の前の醜悪な塊が。肉塊にしか見えない、醜悪な「父親」。今「それ」が足元に転がっている。ビールの空き缶。摘みのスルメ。床に散ばるそれらの中で、前後不覚にでもなって倒れたのだろう。忌々しいいびきが鼓膜を打ち、その生を知らせる。

 いっそ死ねばいいのに。

 呟きは哀しいぐらいに静かだった。波風さえ立たなかった。

 こんなものの為に苦しんだのだろうか。こんな男の為に神経をすり減らす必要があったのだろうか。

 こいつに、自分の人生を切り分けてやる必要が、一体どこにあるというのか。

 好古は顔を歪めた。

 自分自身を嘲笑う。

 腹が捩れるほどに嗤って、身を折り、涙が出てきて、哄笑を何時しか嗚咽に変えた。

 泣いて泣いて哭いて、

 嗤って嗤って笑って。

 訪れた静寂。

 耳がきんと痛くなった。

 真っ白な幻灯。

 心の中で、何かが壊れた。


***


 いつもより遅くに帰ってきた市川は困ったように眉を寄せた。子供の他愛もない悪戯を見つけたようだ。

「久我さん?」

 人のベッドで眠っている男はわずかに肩を動かしたが、理寝入りを決め込むつもりのようで、市川は窓を開け、部屋に充満した煙草の香りが薄まるとやっと大きく息を吐いた。らしくない久我の行動に戸惑い、慎重になってしまう。少し肺が痛んだが、咳き込みそうになるのを圧し止めた。

 枕元に灰皿が持ち込まれている。さすがに寝煙草はしなかったようだが、一箱分ぐらいはあるんじゃないかと思われるほどの吸い殻に溜め息が出る。これだけ吸われたらしばらくは匂いが落ちないだろうと、市川は内心頭を抱えた。

 ふと床に投げ出された黒いスーツに気付く。

「久我さん?」

 ベッドに腰を下ろして寝顔を覗き込む。

「何かあったんですか?」

「——親父が死んだ」

 くぐもった不機嫌な声に瞬きをして、市川はもう一度スーツを見、そして久我に視線を戻した。

「じゃあ、明日の朝には行かなくちゃいけないんですね?」

 この様子では今晩に発つということはないだろう。

 久我の郷里を正確に知らないが日本海側だと聞いた覚えがある。市川は悔やみを述べるべきか逡巡したが、結局口にしなかった。

「そうだな」

 目を閉じたまま久我が他人事のように頷く。市川は嫌がられるだろうかと心配しながら、その頭に触れた。幼い子供にするように髪を梳いてやる。

 久我は怒らなかった。


 あの時自分は死んだ。

 不思議なほど心静かだった。

 あの時久我は自分自身を殺した。ひどく施い、不器用に足掻く子供を殺した。

 人を殺したいと思った。それほど人を憎いと。だが自分は道理の人間であった。そうでなければならなかった。実の親を殺すという非道と不孝を犯す自分など、許すことは出来なかった。

 自分自身の為に。父親と同じ道を歩まない。僅かにも逸れない。

 己の立ったぎりぎりの淵、その下の真暗闇。

 狂気から目を離せずに。

 発狂してしまいたいと、何も感じられなくなるように、自己という認識を放棄してしまいたいと、切に願った。

 何も分からずあちら側へ。

 その限界は何だったのだろう。健全な心は壊れてしまった。

 あの男を殺した。

 自身の父親を。父親であるからこそあの男を許せず、憎んだ。あの男が父親でさえなければ許せた。

 許せるのだと気付いてしまった。いや、それは後付けしたことだ。今に思い返すからそう理由付け出来るのだ。その時はそんなことを考えていなかった。

 ただ自由になりたかった。憤怒も憎悪も殺意も、その何もかもから逃げて自由にありたかった。

 だからその存在を殺したのだ。そうして自分自身も殺してしまった。十七歳の久我好古の中には憎悪と殺意しかなかったから、その対象である男を「父親」として認識しなくなれば、それは即ち「久我好古」の崩壊だった。

 十七歳の久我好古は死んだ。

 そうして今、俺は生き長らえている。

 生きている、と久我は繰り返した。

 あの男が死んだと聞かされても何の感慨も湧かない。心は空だ。


 久我が目を覚ますと市川がベッドの端で丸まるようにして眠っていた。変な男だと思う。久我より三つ年下で、一応分別のある社会人だが、幼い子供のように素直なところがある。腹が痛いといえば必死で撫で擦るようなそれは、良く言えば無垢で、悪く言えば無神経だ。市川は人の痛みを無視することが出来ない。

 それから少し、変わっている。

 カーテンの向こうはまだ薄明かりだった。

 ふらりと立ち上がってベランダに出る。残り一本の煙草を銜えながら、日が昇るのを待った。薄暗い中に市川が育てている植物の緑が揺れる。それをぼんやりと眺めて、普段なら気にも留めないそれらが実に綺麗な造形をしていることに気付いた。特に青の鉢から真っ直ぐ伸びる茎。艶やかな緑葉は螺旋に配置され、上から見れば円に見える。総ての葉に光が当たり無駄がない。他の植物も気侭でいるようでいて、実は理由のある造形をしている。枝の影になったものは撓みながらも空いている隙間から空を目指している。少し葉が小さいものはそれより上に大きな葉があり、おそらくは日がよく当たらないのだろう。

 それぞれが機能的に美しく、そしてしなやかに強い。

 きっと市川が水をやらなくても、数日は耐えるだろう。雨が降れば鉢植えだって持ち堪える。

 雨が——。久我は微かな違和を覚え、辺りを見渡した。

 赤、薄青、白、黄と増える光が雲を染める。夜明けだ。だがまだ大気はほの暗い。

 雨が降れば。

 誰が。誰がそう言ったのだったか。——火。火の粉が舞い、ごつごつとした厚い手を照らす。焚き火の前の漁師。夜明け前の、薄暗い中で浅黒い肌の恰幅の良い男が言ったのだ。

 久我は目を開けて空を仰いだ。

 哀しい色の青空に、傾いだ月が浮かんでいた。爪のような三日月。

 森に雨が降る。雨は豊かな森の養分を川へと運ぶ。だから豊かな海の近くには必ず豊かな森がある。魚は緑の傍に。漁師はそれを知っている。

『だから坊主、お前も森を見つけろ』

 皺の刻まれた顔に更に皺を足して、笑う漁師。彼がそう言った後、自分が何と答えたのかは思い出せない。きっと彼の意図を理解は出来なかっただろう。子供の頃は、随分と追い詰められていたのだから。それでも何か漠然とは感じていたはずだ。覚えているのだから。こうして少年時代の記憶を蘇らせることなど、久我には珍しいことだった。

 さっと涼やかな風が頬を撫でる。

 遠くの山が空よりも濃い青で、その裾を霧が波のように覆う。まるで島のようだ。

 夜明けの海。

 やがて青は緑になり。

 朝が、来た。


***


 目が覚めると久我がベランダにいるのが見えて、市川は静かに息を吐いた。変な姿勢で寝ていたので下敷きになっていた腕が痛い。だが何よりも体中に久我の煙草の匂いが染み付いていて、市川は呻いた。

 神経質といわれようと自分以外の人間の匂いは気になるもので。ただでさえ久我のそれは煙草そのものだから、市川は少し泣きたくなった。自分は風呂に入れば済むが、この部屋の匂いはどうすればいいのか。

「——いやらしい」

 ふと気付いて市川は拗ねた声で呟いた。久我は出かけるというのに、市川はずっと久我の気配を感じていなくてはならないのだ。それは寂しいではないか。つい父が恋しくなり、帰ろうかと思ってしまう。よく考えてみれば市川が二十数年の人生できちんと一人暮らしが出来たのは半年ぐらいでしかないから、帰れば姉が笑うだろう。

「起きたのか?」

「理不尽です。ええ、いやらしいお人ですよ、久我さんは」

 戻ってきた久我に小突かれ、恨めしそうな目で見上げると久我は煙草を揉み消したが、むしろ尊大な態度で問うた。

「飯、食うか?」

「——はい」

 ベッドから這い出て風呂場に向かう。どうにも髪にも匂いが付いている気がして、頭から湯を被った。シャツを羽織って出てくると久我が冷蔵庫を覗いていた。

「卵、ふわふわにしてください。ふわふわですよ」

「何を子供みたいなことを」

 呆れた声を出す久我に唇を突き出して、拗ねた顔で椅子に座った。子供のように膝を抱える。構わずにてきぱきと朝食の用意をする久我と目が合うと、思いついてにっこりとした。

「何だよ?」

「何でも」

「気持ち悪いじゃねえか」

 顔をしかめる久我に機嫌を良くして、市川は母親似の綺麗な顔に綺麗な笑みを浮かべた。

「久我さん」

「ん?」

「好きですよ」

 トーストを齧ったまま久我の顔が引きつる。市川が堪え切れないというように声を立てて笑うと、我に返った久我に頭を小突かれた。

「何なんだよ、テメェはよ!」

「いえ何、久我さんに告白しただけですよ」

「気持ち悪いんだよ」

「嫌がらせですもの。僕の部屋であれだけ煙草を吸わはったのやから、これぐらいの意趣返しはねぇ」

 くすくすと笑って、市川はコーヒーに口を付けた。別に怒ってはいないのだ。煙草の臭いなんて窓を開けていればある程度は消える。ただ不意打ちで寂しいという感情を思い出させられたのが悔しかっただけだ。この年で寂しいなんて口にしたら本当に姉に笑われてしまう。ちょっとだけばつが悪くなって市川は勝気な姉の顔を脳裏から追いやった。

 市川は久我が好きだ。これはもう純粋な好意で、多少年上の同性に対する甘えもあるだろうが、久我が健やかであれば自分も嬉しいという単純なものだ。

 市川は久我を夜の海のようだと思う。

 夜の海は暗い。どうどうと音を立てて、人を暗い淵に呼ぶ。そんな危うさが、久我にはある。引き摺り込まれるのではないかという不安と、何か巨大なものに対する畏れだ。

 それでも笑うようになった。

 否、久我は昔からよく笑う。ただそれらは全て作られたものだった。初めて大学の構内で出会ったときはわずかに口を緩めるだけの愛想笑いだった。

 市川が何かおかしなことを(それを市川本人はおかしいと思わないのだが久我は変だと笑う)言ったり行ったりすれば、小馬鹿にしたように笑う。或いは相手に威圧を与える、計算された表情で。

 市川はよく人から鈍感だと言われるが何も見ていないわけではない。だから久我が心の底から楽しみのために笑うことがないことも知っていたし、彼に何か触れてはいけない領域があることも分かっている。分かってはいるがそれについ手を差し出してしまう。昨夜のように傍にいるだけであっても、久我はそれが女性ならば許しはしないだろう。久我にとって総ての女性は庇護対象であって、弱みを見せることはない。だから市川は自分が男で良かったと思う。

 久我はこの二年で表情が増えた。多くは市川の天然と評される行動に驚き、呆れ、そして笑う。毒気を抜かれた顔をする。だから思い出す。明けない夜はないということを。

 久我もいつか夜明けの海のように凪ぐだろう。そのとき傍にいるかは分からないが、いつか必ずそのときは来る。

 不意にさっと何かが目玉の裏を過ぎって、市川は瞬きをした。それから目を閉じて慎重にイメージを追う。

 青。薄墨の青。身を包む闇。聞こえない、波の音。

 そうだ。これは夢だ。ついさっきまで見ていた夢。

 明け方の名残だ。

「どうかしたか?」

 マグカップを持ったまま動きの止まってしまった市川に、久我が問うた。目を開けた市川は自分の気分が悪くなったのかと久我が案じていることに気付いて、首を振った。確かに市川は体が丈夫ではないが、久我は心配しすぎだ。久我は女性と病気の人間に優しい。それがちょっと過保護なまでのものだから、やはり過去に何か経験としてあったのだろうと思うが、踏み込んでいいものかわかりかねる。

 市川はイメージを素直に口にした。

「夢が。今朝見た夢がちょっと不思議で。——薄墨を流したような空で、海はもっと真っ暗で、浜辺に誰か、背の高い男の子が立っているんです」

 少しの間、目を細めて記憶の糸を手繰ったが、要領良くは言葉に出来なかった。

「海の音は聞こえなくて。僕は、遠く、——遠いんですけれど、どうしてだかその子が泣いている気がして、顔は見えないんです。でも彼が泣いているのが分かって、とても哀しくなった」

 そう言った通り市川はとても哀しそうな顔になった。その寄る辺ない子供が途方に暮れたような、哀しいとしか表現しようのない顔から久我は目を逸らした。

「久我さん」

 目線を上げると、市川は穏やかな眼差しで久我を見ていた。

「好きです」

 絶句した久我に市川はにこりと笑った。

「あの子が一人でいるのがとても哀しい。ぎゅっとして、泣かんといてって。そうしてあげたかったのに」

「俺を身代わりにするなよ」

 久我はようやくそれだけを言った。市川は少し変で、変わっている。変だというのはどうも彼は普通の人間とは少し違うものが見えているようであるからで、変わっているというのは、三十目前の男にしてはあんまりにも感情の表現がストレートだからだ。

 久我はいつも対処に困る。

 顰め面になった久我に市川は少しだけ困った顔をした。

「そうですね。でも、言えるうちに言っておかないと、と思ったんです」

 だってこれが夢だったら目が覚めてまた後悔するのではないかと思って、と市川は口元に歪んだ笑みを作った。

 久我はいっそ偽善的にさえ見えるほど綺麗な市川の笑顔の裏に、凍り付いた何かがあることに気付いている。だが見ない振りをしている。市川は久我の領分を侵さないのだから、久我もそうあるべきなのだ。

 それでも時折、傷を舐めあうようなむず痒さを覚えることがある。だいたい三十前後の男二人がぐずぐずと同居しているというのがいけない。だが踏み出すのは今ではないという気が常にしていたし、人の善意をじやすい市川が心配でもあった。おそらく市川は市川で、久我が気掛かりだとでもいうだろう。それは別に構わないのだ。市川は賢い猫のようなもので、落ち込んだりしたときにふと気付くと傍らにいて、いる必要のないときは全く相手を気に掛けるような素振りさえも見せない。彼は独立した人間で、決して久我に依存したりしない。

それに、彼は植物を育てている。

「……お前、どうして鉢植えばっかり集めるんだ」

 唐突な久我の問いに市川はきょとんとした。

「あれは集めたというより、株分けをしたら増えたんですよ。確かに芙蓉や梔子なんかは欲しくて買ってきましたけれど」

「でも育てなくてもお前の実家には森があるじゃねえか」

 市川の家は神社で、社殿の裏には鎮守の杜がある。

 樹齢数百年の木がいくつかある、懐の深い古い森だ。

「だからですよ。僕はあそこで生まれてあそこで育ちましたから、身近に土がないのが苦痛なんです。木にはマンションのベランダみたいな風の強いところで、鉢植えなんて窮屈な思いをさせて申し訳なく思いますけれど」

 ふと口を噤んだ市川の顔から表情が抜け落ちる。遠くを見る目になった。

「最初は、確か姉があの子を、百合の球根を持ってきたんです。青い鉢のカサブランカを」

 姉弟の母親が好きだった花だ。他界してすでに十年になろうとしている。流れた年月に気が遠くなる。

「一人で暮らし始めて、無理に環境を変えて何とかしようとしたんですが、相変わらず僕の中身は空っぽで。——姉さんがくれた球根を植えても実感がなくて、でもある朝芽が出ているの見たら」

 ああ、生きている。そう思った。

「——毎日少しづつ、でもすごい勢いで茎が伸び、葉が増えていくのを見続けて、僕の中の何かが息吹くのを感じた。だから、巧く言えませんが、僕は感謝するために彼らを育てているんです」


 久我が義務感だけで気乗りしない帰郷の為の支度を全て終えたとき、市川はベランダで水をやっていた。

「お前、講義はないのか?」

 聞いてから木曜は彼が研究員として在籍している大学の研究会の日だと思い出した。

「ええ、午後からですよ」

 小さな鞄一つとスーツを下げた久我に市川は相変わらず毒気のない笑みを向けた。

「僕、雨を待っているんです」

「降るのか?」

「いいえ。今ではなく。さっきの話の続きなんですが、僕はどうも、感謝する為だけではなくて。雨を、——雨が降るのを、彼らと一緒に待っているんです。海が、僕らに還ってくるのを待っている」

 市川の言うことは時折久我の理解を超える。だが市川は屈託のない笑顔を向け、やけにはっきりと続けた。

「久我さん、お悔みを申し上げます」

「ああ。——行ってくる」


***


 駅に降り立つと、遠くに入道雲が見えた。

 ああ、今日も暑くなるんだなと思い、沸き立つ雲に唐突に悟った。

 豊かな海は森が作る。だが森に必要な雨は海が作るのだ。

 久我は夜の海で十七歳の少年を殺してから初めて、自分のために少しだけ泣きたい気がし、だが涙は出なかった。

 ただかすかに、潮騒が聞こえた気がした。

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