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2 遭遇

「……あ」

「どうしたの? 腹痛?」


 むわっとした熱気に包まれた土間。

 履き替えるべく靴箱から取り出して放ったスニーカーが変に跳ねて転がっていくのを目で追う中、頭の中をひらめきが走り抜けた。


「何でだよ。部活の室内シューズ、持ち帰って洗うつもりだったのを忘れてたんだよ」


 かさばるシューズはいつも部活終わりに教室に戻って机にかけている。それをこのテスト週間のタイミングで持ち帰って一度洗っておこうと考えていたのをすっかり忘れていたのを思い出した。


 転がっていった靴を取りに歩く中、明日でいいでしょ、と背後から声が投げられる。


「思いついたのに放置って気持ち悪いだろ」

「あれだね、試験前に掃除がしたくなるやつ」

「違うっての」


 スニーカーを靴箱にしまいなおし、先行っててくれ、と友人たちを送り出す。

 やや重い足取りで三階まで戻り、回収したシューズを軽い鞄の中に放り込む。ついでに試験勉強用に教科書でも放り込むことにした――どうせ家に帰っても使わないだろうが。


「……ん?」


 一気に階段を駆け下りようと、その一段目に足を延ばした時、ささやくような声が聞こえてきた気がして急停止した。


 テスト週間も後半。部活休みであるため、グラウンドの運動部の掛け声も、室内で楽器を掻き鳴らす吹奏楽部や軽音部の猥雑な音も聞こえてこない。


 静まり返った校舎。静寂の中に響く声はどこか儚く、あるいは空恐ろしさを孕んでいた。


「……風でも鳴ってるだけだろ」


 そう思いながら四階へと続く階段をじっと見上げる。


 北館四階。

 音楽室や視聴覚室、社会科教室など、特別教室がいくつも入った階であるからではないだろうが、教室が並ぶ三階までと四階を隔てる階段はどこか異界へと続くような異様な雰囲気を持っている気がした。


『……トウシャ――』


 声はまだ確かに、今度ははっきりと聞こえた。


 夏の放課後。日が沈むにしてはまだ早く、だからこそ人けのない校舎に嫌に響いて聞こえる声はその実、少しおかしな響きを持っていた。

 まるでスマホ越しの声のような、どこか響く、けれど肉声のそれではない。


 確かに人の声という在り方を保ちながら、けれど無数に反響するうちにゆがんだ、やまびこのような――


「……加瀬、だったか」


 自然と異界へ続く梯へと踏み出していた。抜き足差し足、歩を進める。

 土間で脱いだままスリッパを放ってきたおかげで、靴下だけの足は吸音性に秀でていて、だからだろうか、俺はそっとその様子を確認するに至った。


「このモンキーハンティングの問題なんだけど――」


 四階の、さらに先。階を隔てる折り返し階段の半分だけ伸びるその先には屋上に続く狭いスペースがある。

 そこにはなぜか机と椅子一セットが置いてあって、一時期「屋上で自殺した幽霊がやっぱり勉強したくてあの場所で机に向かっている」なんておかしな噂が流れたこともあった。

 学校が苦で自殺したような奴が、学校に残って勉強しようなんて思うわけないだろ、なんて当時は思っていたがそれはさておき。


 そっと覗き込めば狭いスペースにある席に座る男子生徒の背中が見える。


 そして、そいつのものとは明らかに違う声が響く。


『この問題は斜方投射と自由落下を複合した応用的な問題です。ポイントはX軸方向とY軸方向に速度を分解することで――』


 女の声。肉声じゃない。人影もない。かといって電子的でもない。まるでトンネルの中を反響したような、けれどそこまでの音量は無い。


 おそらくは加瀬であろう男とその女の声の会話は続く。やまびこのようにただオウム返しされるわけではなく、誰かに通話しながら相談しているわけでもなく、そして、ヤマを教えてくれるなんていう画期的なシステムとは程遠かった。


 椅子を引きずる音に、慌てて身を隠す。

 抜き足差し足なんて余裕はなくて、飛ぶように階段を駆け下り、階段の折り返し部分の陰に身をひそめる。


 足音が遠くなる。おそらくは加瀬がトイレに行ったわけで――好奇心がうずいた。或いはそれはズルをする男への制裁という、正義の顔を持っていたかもしれない。


 屋上へと続くスペース。

 薄汚れた机に投げ出されたままの教科書にそっと近づく。


 一冊の教科書。ありふれた物理基礎のそれ。ああ、SF的な言葉にすっかり思考が止まっていた。教科書はあくまでも一教科のそれ。つまり、全ての教科書のヤマを教えてくれるなんて完璧なモノはそもそもありもしなくて、だから全教科で高得点をたたき出した加瀬はおそらく努力か才能によって快挙を成しえたというわけで。


 落胆しつつ、ありふれた教科書を手に取る。


「……ヤマを教えてくれるって本当か?」


 返事が返ってくるなんて期待はしていなかった。

 さっきのアレだって、加瀬のスマホの音質が優れていたとか、俺の耳が悪かったとか、そういうオチのはず。あるいは加瀬が幽霊と喋っていた、なんていう可能性の方が、教科書が喋るなんておかしな話よりはよほどあり得る。


 そう思うのに、それは俺の手の中で声を発した。


『休憩は終わりましたか? それでは授業の続きをしましょう――』


 機械的な響き。物理基礎の授業中に襲ってくる眠気のことを思い出した。


「お前が『ヤマびこ教科書』なのか?」

『……何を求めているのかは知りませんが、私はヤマ勘に頼る生徒の蜘蛛の糸ではありません。ただ生徒の勉強に付き合うだけです』


 会話が成立していた。教科書をひっくり返し、表裏表紙はもちろん、ざっとページをめくってもスピーカーなんてついていない。

 ついでに机にも椅子にも、周囲にもそんなものはありはしなかった。


 黄昏に沈む校舎に、不思議の香りが漂う。

 体が浮くような、しっかりと地面に立つのが難しく感じられるような、そんな現実感のなさが俺を襲っていた。


「――お前を使えば、成績は上がるのか?」


 こんな不気味なもの、さっさと放り出してしまえ。

 思いとは裏腹に、俺は半ば無意識のうちに尋ねていた。


『当人の努力次第ですよ。私はただ躓きやペンが止まった際の補助にしかなりえません』


 ほら、こんなものだ。大して役に立ちもしない。


 それなのに俺は、気づけば鞄を漁り、名前を書いていないどころかずっと学校に置いたままでやけに綺麗な物理基礎の教科書を、同じページを開いて机の上に放る。


 そうして代わりにヤマびこ教科書を鞄の中に逃げ込み、脱兎のごとくその場から走り出した。


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