プロローグ:ただの冒険者
異形と、異形を吹き飛ばした何かが地面に落ちた次の瞬間、草木の影から緑色の何かが飛び出しました。緑色の何か……。
いえ、誰かは、両手に握った黒い杖のようなものを腰に構え、異形の消えた草むらに向けて走り出しました。
「はああっ!!」
起き上がり、顔を出した異形の顎に向けて、黒い杖が振り上げられました。杖に顎を打たれた異形は、子犬のような悲鳴を上げながら飛び、さらに奥の草むらへと消えました。
「あなた大丈夫? 怪我は無い?」
突然のことに呆然としていた私の前に、緑色の、フード付きのコートを身に付けた女性が駆け寄って来ました。
「えっ? ……あっ」
金色の瞳に、サラサラの金髪、一目見て美しいと断言できるほど整った顔をした長身の女性。お母さん以外とあまり喋った事の無かった私は、言葉に詰まってしまいました。
大丈夫です。
その言葉が出る前に、女性の背後の茂みが、微かに揺れたのが見えました。
「後ろ!」
嫌な予感がした私は、茂みを指差しながら叫びました。
ですが、私が叫ぶ前に、女性は振り返っていました。
「私に従い……」『グルアアアァ!!』
女性が何か呟くと同時に、茂みの中から、先程打たれた下顎をだらりと下げた異形が飛び出して来ました。どうやら、残った上顎と前足で女性に襲い掛かるつもりのようでした。
下顎が垂れ下がっているとは言え、変形した上顎は長く、鋭い牙も生えていました。前足は普通ですが、普通の狼の前足でした。爪は鋭く、飛び掛かられればただでは済まないはずでした。
実際、直後に異形は跳躍しました。
異形の口は長く、跳躍は女性の身長ほど高いものでした。
女性は杖を構えていましたが、構えた杖は下を向いていました。
それでは、打ち上げることは出来ても、打ち落とす事はできません。
例え、杖で異形の上顎を打ち上げようとしても、そのまま組み付かれてしまいそうでした。
私は足の痛みを忘れ、間に合わないと思いつつも、無理矢理立ち上がろうとして、気付きました。
女性の杖は、異形に向けて構えられていたわけではありませんでした。
杖の先、女性の視線の先は、異形を吹き飛ばした何かが落ちた場所でした。
「飛び上がれ!!」
女性はそう叫んだ瞬間、杖を大きく振り上げました。
杖は異形の口先をかすめ、そのまま通り過ぎたかのように見えました。
いえ、実際に通り過ぎたのです。
『ゴアッ!!』
だと言うのに、異形はまるで何かに突き上げられたかのように身体をのけぞらせました。身体をのけぞらせた瞬間、異形の腹あたりから何かが飛び上がるのが見えました。私は、ひっくり返った異形から、飛び上がった何かの方に視線を移しました。
それは、薄暗い森の中に浮いていました。それは、私が視界を移した時、ちょうど上昇を止め、落ちようとしているところでした。
木々の間から差す、微かな光がそれを照らしました。
それは、私の頭と同じくらいの大きさの、ただの大きな石でした。
「そして、落ちろ」
その声が聞こえた瞬間、大きな石は落ちました。
前の瞬間まで、上昇していたとは思えないほど唐突に。
まるで、先ほどからずっと、深い谷の底へと落ち続けていたかのような速さで。
大きな石は、異形の腹へと落ちました。
異形は少しだけ痙攣すると、断末魔すら上げずに、動かなくなりました。
私はただ呆然と、それを眺めていました。
「……ふぅ、ごめんなさい。少しだけ、目を閉じていてもらえる?」
少しすると、女性はこちらを向いてそう言いました。
私は少し困惑しましたが、すぐに首を縦に振り、言われた通りにしました。
直後、微かに聞こえたのは、肉の絶たれるような音。
私は一瞬恐怖を覚えましたが、すぐに聞き覚えのある音だと気付きました。
お母さんが狩りから帰ってきた時、必ず見るように言われていた獣の解体。
私はいつも嫌がっていましたが、いつもは優しいお母さんもその時だけは厳しく、決して目を逸らさないようにと言っていました。
その時私は、あれは将来生きていくために、必要なことだったのだと理解しました。将来、私が獣を狩り、一人で生きていくための練習だったのだと。
ですが、当時の私はまだまだ未熟でした。
狩りに連れて行ってもらった事はありましたが、小動物一匹すら狩れたことはありませんでした。
もし、お母さんが目覚めなければ、私はどうすればいいのでしょうか?
もし、このまま一人で生きて行くことになれば……。
「おまたせ……って、あなた、本当に大丈夫?」
「えっ?」
沈んでいく思考を止め、目を開くと、滲んだ視界に女性の姿が見えました。
慌てて目を擦りますが、それでも視界は滲んだままでした。
「ああ……」
私はようやく気付きました。
助かった。
あの絶望的な状況から助けてくれた。
視界の滲みは……止まらない涙は、安堵感から来るものだったのでしょうか。
「あ……ありがとうございます……っ」
確かに、それもあったでしょう。
しかし、理由はもう一つありました。
異形から必死に逃れ、助けてもらった。
ですがもう、帰り道も、キャンプへ行く道もわかりませんでした。
それに、私はキャンプへ行く事ばかりに気を取られ、お金も忘れてしまっていました。
対価も無しに一体誰があんな森の中まで来てくれると言うのでしょう。
その時の私では、お母さんのためにお医者さんを呼んでくることすら、出来なかったのです。
女性にちゃんと感謝を伝えるべきだとは分かっていましたが、流れる涙を拭って止めようとはしていましたが、それでも、どうしようもない事実に気付いてしまった私は、ただ俯いて、泣き続けることしか出来ませんでした。
「ああー、泣かないで。ほら、もう大丈夫だから。落ち着いて、何があったのか説明できる?」
女性はそう言ってしゃがみ、私の肩に手を乗せました。
その声色はとても優しく、手に触れていると安心できました。
涙が少し落ち着くと、私はなんとか言葉を発する事ができるようになりました。
「私、森にお母さんと一緒に住んでたんです……」
私は口を開き、女性の言う通り、話し始めました。
お母さんと一緒に、森の小屋に住んでいたこと。
朝起きると、お母さんが動かなくなっていたこと。
お医者さんを呼ぶために、家を飛び出したこと。
道を間違え、森に迷い込んでしまったこと。
異形に襲われ、必死で逃げたこと。
目の前の女性に救われたこと。
助かった安堵感と、どうしようも無い事実に気付いてしまったことによって、涙が止まらなくなってしまったこと。
最後の方になると、私は再び泣き出してしまっていました。
全てを話し終わった後は、ただひたすらに、女性に感謝を伝えました。
「なるほど……ね……」
女性は優しく相槌を打ちながら、話を最後まで聞いてくれました。
涙は止まり、女性に話したことで、心も落ち着きました。
すると、私の中に彼女に対する申し訳なさが湧き出て来ました。
彼女も、目的も無くここにいた訳では無いでしょう。
それが何なのかは分かりませんが、貴重な時間を私に使ってくれているのです。
そうで無くとも、危険を冒して私を異形から救ってくれたのです。
これ以上何をしてもらうのも厚かましいような、そんな思いが私の頭に浮かびました。
「本当に……ありがとうございました。私はもう大丈夫です」
「……大丈夫じゃ無いでしょ? その足の怪我、歩くのも難しいんじゃない?」
「あっ……」
彼女の言う通りでした。
靴の脱げてしまった左足の怪我は、私が思っているよりも酷かったようでした。
立ち上がるどころか、座り込んでいるだけでもズキズキと痛みました。
「それに、歩けたところで道もわからないんじゃ無かったの?」
「それは……その通りです」
女性は先程とは違い、少し厳しい声色でそう言いました。
私はそれ以上何も答えることが出来ず、俯いて、黙ってしまいました。
「ふーむ……」
少しの間、沈黙が流れた後、ふと、そんな声と共に、私の肩に何かが置かれました。
反射的に顔を上げると、女性が私の肩に手を置いているのだと気付きました。
そうして、私と目が合った瞬間、彼女は柔らかい笑みを浮かべました。
「……私の助けが必要でしょう? 助けが必要なら頼りなさい。あなたは私に何をして欲しいの?」
「えっ……?」
女性は一呼吸してから口を開くと、再びとても優しい声色でそう言いました。
私の望みは何でしょう?
彼女に何をして欲しいのでしょう?
私が女性に頼めることで、一番して欲しいことは、少し考えればすぐに思い浮かびました。
「なら……お願いします!私をキャンプまで連れて行ってください!」
私は声を張り、願いました。
お金はありませんでしたが、女性が私の家の場所を知っているはずもありません。
他の手段を取ろうにも、帰るにも、まずはこの森を出て、キャンプまで行かなければいけませんでした。
「うーん……」
しかし、女性は何やら目を閉じて、すこしうなりました。
間違った事を言ってしまったのでしょうか?
それとも、女性にもキャンプの場所が分からないのでしょうか?
「そうね。でも、もっとできる事はあるわ」
実際には、そのどちらも違いました。
「もっとできる事……?」
「例えば……」
私が女性の言葉を復唱すると、女性は私の左足に手を添え、杖を向けました。
「自然に漂う無垢なる魔力よ。今ここへ寄り合い、彼の者が負いし創傷を癒せ」
私は、女性が何をしているのか分かりませんでした。
私は、ただぼんやりと、左足に微かな光が集まっていくのを眺めていました。
「回生陣」
女性がそう呟くと、集まった光が弾けたような感覚の後、左足の痛みが引いていくのが分かりました。
「私の足を治してください。とかね」
「お医者さんなんですか!?」
私は思わず、治ったばかりの足で女性に詰め寄り、質問を投げかけました。
実際には左足も一瞬で完治した訳では無いようで、少しずきりとしましたが、その時の私にとっては重要なことではありませんでした。
「ああいや、確かに多少医学の心得はあるけど、お医者さんってほどじゃ無いの」
「あっ……そうですか」
私は流石にそんなうまい話はないかと肩を落としました。
「でも、お医者さんの知り合いならキャンプに居るわ。ちょっと変わった人だけど、見た事もない奇病となれば、森の中にだって喜んで来てくれるでしょうね。それもタダで」
「本当ですか!?」
しかし、女性が口にしたのは、まさに私が求めている『うまい話』そのものでした。
「この辺りに大きなキャンプは一つしか無いから、貴方が目指してたのはその人がいる場所で間違いないはず。そこにたどり着けば、帰り道もわかるでしょう? 私が送ってあげる。何だったら、帰り道の護衛だってしてあげてもいいわ」
「そこまで……どうしてそこまでしてくれるんですか?」
本当に、どうして初対面の私に、そこまでしてくれるのでしょうか?
そもそも、この女性は何者なのでしょうか?
ふと思い出したのは、昔、お母さんに聞かせてもらった騎士様の物語でした。
白銀に輝く鎧を全身にまとい、剣と盾を身につけた騎士様。
怪物の討伐に、遭難者の救助、壊れた馬車の荷物運びまで、困っている人がいれば誰であろうと助け、役目を終えれば白馬に乗って去っていく、銀騎士様の物語。
しかし、目の前の女性は馬を引き連れているようには見えませんでしたし、鎧を身に付けているようにも見えませんでした。どちらかと言えばかなり身軽そうでしたし、武器も盾や剣ではなく、杖一本でした。
「……アサードジョーの牙の採集。あなたのおかげで依頼を達成出来たの。そのくらいの事はさせて頂戴。ギルドへの報告も急ぐわけじゃないし、この後の予定と被るところもあるしね」
「依頼……? ギルド……?」
依頼にギルドと、聞き慣れませんが、どこかで聞いたことのあるような単語。アサードジョーというのは、先程の異形の名前かと想像が付きましたが、疑問は解消されませんでした。
「あら、あなた、顔も怪我してるわね。ちょっと待ってね……自然に漂う無垢なる魔力よ……」
女性がそう言って私の頬に手を当て、呟いている間、私はぼんやりとしていました。それほどまでに、私の頭は疑問で満たされていました。
「あなたは一体……?」
女性が先程と同じく光を集め、頬に優しい感覚が訪れた時、疑問は口に出ていました。
「私は、ただの冒険者よ」
女性は、笑顔で私を見つめ、そう言いました。
冒険者。昔聞いたことのあるような言葉。
おそらくはお母さんが話していたのでしょう。
しかし、その言葉だけでは結局、どうして女性がここまでしてくれたのかは分かりませんでした。
「さあ行きましょう。手を出して。もう立てるはずよ?」
ただ、女性の手を握り、立ち上がった私は……
「冒険者……」
その日、確かに『冒険者』に憧れたんです。




