プロローグ:薄暗い森の中
あれは、何年か前のことです。
森のなだらかな丘の上、一本の大木の根元にある小屋の中。
当時の私は、そこにお母さんと二人で住んでいました。
頑丈な石の土台の上に造られたそれは、元は放置された廃屋だったそうで、居間に寝室、台所にお母さんの仕事場と、暮らしていくのに十分な広さがありました。
お母さんは薬師でもありました。
毎日森へ出かけては、薬の材料を取ってきて。
たまに遠出をしては、薬を売り、買い物をしてきて。
それでも足りない時は森で狩りをして、私を育ててくれました。
女性一人と、その娘の二人暮らしは、裕福なものとは言えませんでしたが、お母さんのおかげで、私は幸せに暮らしていました。
そうして何年か経ったある日、私はいつものように目を覚ましました。
半開きな目を擦り、立ち上がると、小さな違和感。
見てみると、隣のベッドにお母さんの姿がありませんでした。
とは言っても、それ自体はいつもの事でした。
毎日、起きるのはお母さんの方が早かったですから。
朝起きて、寝室にいないときはいつも、お母さんは台所の方で朝食の準備をしていました。
しかし、その日は違いました。
朝食の準備をしているならなにかしらの物音がするはずですが、家の中はとても静かでした。
念のため寝室を出て居間を抜け、台所のドアを開けてみましたが、お母さんの姿はありませんでした。
となれば、別の可能性でした。
お母さんの仕事場には、寝室とは別にベッドが置かれていました。
それは、長時間作業する際の休憩用ではありましたが、お母さんは夜遅くまで作業した後、そのまま仕事場のベッドで寝てしまうということもたまにありました。
前日は丁度、買い出しの日でした。
お母さんが帰って来た後、ずっと作業をしていたのなら、まだ寝ていてもおかしくはありません。
そんなことを考えながら、私はゆっくりと仕事場の扉を開けました。
予想通り、仕事場の隅にあるベッドにはお母さんの姿がありました。
このままお母さんが起きるまで待とうかとも思いましたが、私がお母さんよりも早く起きられる事など滅多にありませんでした。
私はせっかくなので、お母さんを起こしてみることにしました。
いつもは起こされる側なので、お母さんも驚くはず。
私は仕事場の物に触れないよう、慎重にベッドに近付きました。
「お母さん」
私はベッドの横に立ち、お母さんの肩を軽く揺すりました。
「…………」
しかし、帰って来る反応はありませんでした。
私は、そんなにぐっすり眠ってるのかな、なんて考えながら、再びお母さんの肩をゆすりました。
「お母さん、起きて」
少し大きめに肩を揺すっても、帰って来る反応はありませんでした。
ベッドの上のお母さんは、無表情で、寝息一つ立てず、静かに眠っていました。
少し、嫌な予感がしました。
「お母さん……?」
私はお母さんの肩から手を離し、頬を触りました。
お母さんの顔は、氷のように冷たくなっていました。
「っ!?」
大声で呼びかけようとしましたが、息が詰まり、うまく声が出ませんでした。
代わりに私は、何度も体をゆすりましたが、結局お母さんは目を覚ましませんでした。
最初に頭に浮かんだのは、過労でした。
ですが、お母さんは活力に溢れた人で、何年も一人で私を育ててくれていました。
確かに前日、買い出しには出掛けていましたが、帰って来た時、特別疲れたような様子もありませんでしたし、何より何年も続けてきたことですから、今更倒れるとも思えませんでした。
では、何があったのでしょうか。
私の少ない知識で辿り着いた答えは、病気でした。
私にとって病気と言えば、肌が冷たくなるどころか熱が出たり、動かなくなるどころか咳が止まらなくなったりするものでしたが、世の中にはいろいろな奇病が存在すると、お母さんに聞いたことがありました。
肌が冷たくなり、それこそ、死んだようになる。
そんな奇病だって存在するかもしれない。
それにお母さんがかかってしまったのかもしれない。
このまま放っておけば、死んでしまうかもしれない。
混乱した頭で、私は自分にできることはないか、考えました。
薬の調合は見せてもらった事はありましたし、簡単な薬なら作ることもできましたが、こうなってしまったお母さんを治せるような薬は思い当たりませんでした。
それなら、私にできることは一つでした。
「お医者さんを呼んでこなきゃ……!」
誰か、お母さんを治せる人を連れてくるしかない。
そう考えて、私は家を飛び出しました。
その時の私は、軽いパニックに陥っていました。
そのせいで、外に出る時は必ず持たされていた、獣除けの粉と、護身用のナイフを忘れてしまっていました。
それだけなら良かったのです。
私の家のある森の、北と西には、それぞれ川が流れていました。
目的地は西の川を越えた先、何度かお母さんに連れていって貰った、人の集まる大きなキャンプでした。
もしも私が、西の川の流れに沿って南へしばらく歩いて行けば、小さな道と橋に沿って、確実にキャンプにたどり着くことができたでしょうが……それは、家から南西のキャンプに行くには、やや遠回りな道でもありました。
結局、焦っていた私は、近道を通ることにしました。
いつか、お母さんが言っていた道。
しかし、危ないからと使わないように言われていた道。
西の川を無理やり越えて、真っ直ぐにキャンプへ向かうのです。
ですがその時の、混乱した私の頭の中には「川を超えればキャンプにたどり着く」という言葉しかありませんでした。
その結果、私は街の方向にある西の川ではなく、いつも水汲みに行っていた、より近い川……
北の川へと、向かってしまったのです。
必死で川を越えたはずなのに、進めば進むほど暗くなっていく辺り。
違和感に気付いた時には、帰り道さえ分からなくなっていました。
まだ日は出ているはずなのに、森の中は鬱蒼としていて薄暗く、引き返しているはずなのに、逆にもっと奥地へ進んでしまっているのではないかとさえ思えてきました。
早くしなければお母さんが手遅れになってしまうかもしれないという焦りと、全く知らない土地に踏み込んでしまったという動揺と恐怖で、私は泣きそうになっていました。
『グルル…………』
そして、追い打ちをかけるようにその声は聞こえました。
おそらくは、獲物を探している、飢えた獣のうめき声。
私はとっさに近くの木の根本にしゃがみ込むと、息を殺しました。
(お願いだから早くどこかに行って……!)
そんな私の願いとは裏腹に、少しずつうめき声は近付き、足音まで聞こえるようになってしまいました。
身を守るための道具は全て忘れてしまいました。
守ってくれるお母さんもここにはいません。
心臓の鼓動が早まり、目の焦点がずれ、私の頭は恐怖で満たされていきます。私はただ、できる限り身を縮め、それが過ぎ去るのを待つことしかできませんでした。
『…………』
永遠にも思える時間が過ぎた後、ふと、うめき声が止んでいることに気が付きました。
目を閉じたまま、聴覚を研ぎ澄ましますが、足音は聞こえませんでした。
その日の森は風も穏やかで、木の葉が揺れる音すらほとんど聞こえませんでした。
高まった心拍の音だけが、私の耳に響きました。
『…………』
それから少ししても、やはり静かでした。
心臓の音以外、何も聞えませんでした。
獣は何処かへ行ったのでしょうか?
やり過ごす事ができたのでしょうか?
そんなことを考えながら、私は丸まったまま、静止していましたが、心臓の音以外、特に何も聞こえることはありませんでした。
しばらく経っても、心臓の音は響いたままでした。
『……ドクン……ドクン……』
やがて、私の中に違和感が生まれました。
どうして、これだけの時間、静寂が続いているのに、心臓の音は早まったまま、この耳に響いているのでしょうか?
『……ドクン……ドクン……』
どうして、そろそろ落ち着いてもいいはずなのに、血液の脈動する音が、両耳にはっきりと聞こえるのでしょうか?
『……ドクン……ドクン……!ドクン!』
どうして、体の中からではなく、両耳から聞こえるのでしょうか?
『ドクン!ドクン!ドクン!』
私は、ゆっくりと目を開けました。
「あっ……あっ……」
私の眼の前には、悪魔のように醜悪に笑った、狼に似た獣の顔がありました。
「ッあ! ああああああああああ!!」
考えるよりも先に、私は悲鳴を上げて走り出しました。
あまりの恐怖で靴が片方脱げてしまいましたが、気にしている暇などありませんでした。
ふと後ろを振り返ると、醜悪な笑顔のまま、獣が迫って来ていました。
私はすぐに視界を前方に戻し、逃げることだけを考えました。
地面のぬかるみにはまって倒れそうになると、後ろから唸り声が聞こえました。
咄嗟に右に倒れこむと、すぐ横から何かが強く閉じられたような音が聞こえました。
目の前に倒れた若木が現れると、後ろから咆哮が聞こえました。
走り続けたまま木の幹を飛び越えると、すぐ後ろから何かが折れたような音が聞こえました。
一体どれだけ走り続けたのでしょうか。
もしかすると、長く感じただけで実際には数分、あるいは数十秒だったのかもしれませんが。
とにかく、私は後ろを振り返ることもなく、ひたすらに走り続けましたが、ついに足をもつれさせ、大きく転んでしまいました。
『グルルルル……』
もしかしたら、振り切れているかもしれない。
そんな淡い期待は、即座に聞こえたうめき声によって砕かれました。
すぐに立ち上がり、逃げ出そうとしましたが、次の瞬間、私の左足を激痛が襲いました。
靴の脱げた左足。
先程転んだ際に挫いてしまったのです。
痛みに耐えられず、私はうつ伏せに倒れてしまいました。
「あっ……」
体を仰向けに反転させ、身を起こした私の目の前には、逃げる前と同じ、醜悪に笑った狼の顔がありました。
いえ、よく見ればそこには、大きく背中が歪み、首が異常なほど肥大化してドクンドクンと脈動し、額には一本の角が生え、笑っているように見えた口は、信じられないほど長く、大きく、目元ほどまで裂けている、もはや狼とは言えない、異形の姿がありました。
『グルオオオオオオオオオオオ!!!!』
異形は信じられないほど口を大きく開き、聴覚を破壊するほどの大声で吠えました。
顔に唾液がかかり、私の頬は焼けるように痛みましたが、それどころではありませんでした。
私は少しでも逃げようと後退りしましたが、咆哮を終えた異形も少しずつ近付いてきていました。
走って逃げようにも左足の痛みで立てず、そのうち、後退りも大きな木の根に阻まれて、できなくなってしまいました。
「うっ……」
もう助からない。
そんな言葉が私の頭に浮かびました。
実際に、それほど絶望的な状況でした。
同時に、私は思い出していました。
毎朝、私よりも早く起きて朝食を作ってくれていたお母さん。
私が勝手に仕事場に入っても、怒らずに薬の調合を教えてくれたお母さん。
私が難しい本を読んだり、ご飯を作ったりしたら、褒めてくれたお母さん。
朝起きると、冷たくなってしまっていたお母さん。
それはもしかすると、走馬灯に近いものだったのかも知れません。
ですが、私がここで死んでしまえば、きっとお母さんも助からない。
私は、どうにもならないと分かりつつも、涙で滲んだ視界の中に、しっかりと異形の姿を捉えました。
きっと死んでしまうとわかりつつも、両手の拳を握り、恐怖を押し殺しました。
それでも異形は容赦なく迫り、前足が地面に突き立てられました。
そして、薄暗い森の中でもはっきりと見えるほど近くに。
体を前に倒せば、触れてしまいそうなほど近くに。
異形の姿が現れ、首を傾け、私を丸ごと飲み込めてしまいそうなほど大きく口を開け。
無数の刃の突き出す赤い壁が、私に向けて跳び、私を押しつぶそうとするように迫り。
私はただ、それを、しっかりと視界に捉え、背中を木の根に押し付け、拳を握ることしかできず。
それでも瞼を開き続け、目に焼き付けたのは
「飛んでいけ!!」
麻痺した聴覚に、はっきりと響いた声と共に
「えっ……?」
眼前の異形が、何かに打たれ、吹き飛んだ。
その光景でした。




