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#1

「はじめはそんなつもりじゃなかった」は、それをクスリと知って手を出すかどうかで罪の度合いが異なることはあっても、実際の中毒の症状に差をもたらすことは余りない。ましてや、ただ純粋に祝福の鐘を鳴らしたいその気持ちに「そんなつもり」を予見することなどあるはずもない。しかし、その純心がその手の幸福の追求に罪悪を織りなすことは昔からの常であって、その常習性と中毒症状とは深い仲にある——そこに男女の性差はないのです。

 あの、よく見ればドス黒いのに鮮やかに血色よくて艶やかに焼けた仔羊の肉の色が今も瞼の裏にこびりついていて剥がれません。

 たぶん、目の前のこの人と結ばれるはずなのだ、いや、はずでした。真っ白だったレストランの壁もいまだ忘れ難き心のナントカです。そういえば、彼女も白いワンピースを纏っていました。ボーイさんの手に在るメインディッシュが運ばれてきたからの刹那、向かい側のその人に、後光ではない、稲妻ともまた違うプラズマか何かが走るのを確かに私は見ました。当に電光石火とでもいうのでしょうか、口を開くと瞬く間もなく、その両眼に蒼白い炎が燃え上がるのを本当に見たのです。あれは、龍か鬼であったのか、それとも魔神の化身であったのか。その時です、人格も品性も人としての何かを疑われるかもしれませんが、私は——————そのコトの成り行きを今、正直に告白したいと思います。


 私は当時、都心のいわゆるネット系のベンチャー企業に勤めておりました。サービスの企画の仕事をしていました。朝には家を出て会社に行き、仕事をこなしてから帰宅をし、そして天井を見て、眠る。特筆すべきこともない至ってノーマルなサラリーマンだった、と自認しております。で、そのコトの発端というのが、取引先との「懇親会」でありました。それもやはりどうしてだか羊でして、恵比寿のジンギスカンでした。もちろん、モンゴルのそれではなく、北海道が郷土料理の飲食のお店です。そういえば、北海道は私の両親の生まれ故郷です。

 詳細は端折りますけれども、その懇親会の相手というのが、「結婚相談所」を運営する会社さんでして、当時、一緒に新しいサービスを始めようという話が持ち上がりまして、ただ提携とはいっても力関係的には向こうが上で、相談所の肝心要のシステムに絡むところをやるわけでもなくて、些末などうでもいいところをやらせてもらう、たいしてうま味のある商談でもなかったと思うのですけれども、兎に角そういう手筈になっておりました。付け加えるならば、作業はエンジニアさんにやってもらっていて、日ごろの対応も営業さんの仕事だったので、私はその接待にも本来、居ても居なくてもいい脇役のはずだったわけです、本当は。

 もっとも、この商談にはウラ、いや、ワケがありまして、話を持ってきたのはその営業さんではなくて私の上司でありまして、その上司というのは私より若干年上の艶絶豊満な女性であったのですが、先方の会社の役員さんと家が近くだとかで、よく行くという渋谷の坂の向こうのこじゃれたワインか何かのお店での飲み仲間だというご縁で、どういうご縁かは深くは詮索しませんでしたけれども、そのどさくさというか、あやふやに決まった仕事のようでした。

 そういうワケで、懇親会に数合わせのように上司に連れてこられたものの、その座も別段堅苦しいものではなく(そもそも、忙しい時期に態々やる必要があるほどの取り引きだったのかはさておき)、粛々とそして和気藹々(上司とその役員さんの間合いはやはり、引っ掛かるところがありましたけれども)と進んでいたのですけれども、居合わせた皆が全会一致で、どうしても私にそこがやっている結婚相談所に入れ入れと言うわけです。当たり前ですよね、成り行きとしては。

 私はその年に三十六歳になりました。もちろん、独身でした。

 その場に顔を出したこちら側の人間は概ね三十代前半から、今回の月下氷人のたぶん四十前後どまりの皆「お年頃」であって、くだんの上司のほかに、営業とエンジニアがお供をしたのですけれども、そもそも私は彼らに対してそういう認識を持ちあわせていなかったのですが、三人とも左の薬指にリングをはめて来ていました。

 それに気付いた時点で推して量るべしではあるのですけれども加えて、これが致命的であったのですが———私はお酒を飲むと眠くてしようがなくなる質なのです。たしか、羊とワインのマリアージュがどうとかこうとか言って、上司に何杯も注がれたのだと思うのです。この場がいわゆる接待の場であるにもかかわらず瞼が落ちそうになるのはビジネスマンとしては失格、大変不真面目ではありますけれど、免れようもなかったのです。不可抗力だったのです。元々お酒がそんなに強いわけでもなく、疲れなのかたまたまか、「クライアント」の為にあのこんもり丸く盛り上がった鉄鍋の表面に貼り付いた肉をひっくり返すべくトングを握る演技をするわけでもなく、羊が一匹、二匹と数えるまでもなく、まさに眠りに陥る寸前ギリギリの状況にあったわけです。

 ただ、相手側もそんなことはお構いなしでありまして、今や破竹の勢い、一大産業たる婚活ビジネスの会社さん、、だからかどうかはわかりませんが、皆さんおおらか、そして「イケイケ」で、そういえば先週も夜遅くの経済ニュース番組にそこのイケメンの社長さんとオフィスが出ていたのを偶々見たのですが、若い人がたくさんいる活気のある会社というものもあってか、今どきそんなに接待接待した堅苦しいものもなかったのです。実はこの場にのこのこやってきたのは、この会社というのか、「婚活」の事業への単純かつ純粋なる興味、秘密のヴェールをこっそり覗き見する、ちょっとした野次馬気質の出歯亀根性であったのも否めません。それこそ、まさに墓穴———

 そういえば、向こう側は全員が指輪をしていたのを覚えています。円滑な営業の推進上常日頃そうしている可能性もありますけれども、それでも、まだ大学を出て新卒二、三年目だという女性までもがリングを光らせていて、まぁ本当に結婚をしていて、確かにかわいかったのでその辺のことは困らなかったのかもしれませんし、もしかしたら自分が勤める会社の仕組みでお相手を見つけたのかもしれませんし、その宣伝の一環なのかもしれませんが、もし指輪をしていなかったら、少なくともこの私は彼女のことが気になってしようがなくて睡魔ごときに襲われることなどなかった、ひいては、こういう物語になることもなかった、のだとは思うのです。

 それから、このあたりも覚えているのですが、というよりは覚えざるを得ないこのお話の原点でもあるのですが、と言いますのもジンギスカンのお店ですので匂いがつかないようにするためか、そのお店は客の座る椅子の下が物入れになっていて、結婚相談所さん側の営業さんが私が座っていた席の下にカバンを入れていたとかで、それを取り出したいからと、叩き起こされないまでも一旦、眠気覚めやらぬまま立たされまして、で、出てきたモノのどこかを勢い手さぐりでこじ開けて、中から出てきたポストカードの様なちょっと厚い紙きれを私に差し出してきたのです。

 これは何かと聞くまでもなく、如何にもポップな感じに「お友達ご紹介キャンペーン」などと記されていたのです。要はここの結婚相談所の勧誘のチラシであって、本来ならそこに登録している会員が知人友人にこのサービスを推した上で、首尾よく入会に至った暁には紹介した側にはたしか何万円分かのギフト券が、そして、紹介された側の新規入会者は入会金などの初期費用が相応に値引きされる、そしてこれは口先でなのですが、そこを「今回は特別に無料にしてあげる。」というものでした。

 あと、このくだりはよく記憶しているのですが、先方が言うには、

「うちって、三十代の男性会員さんが少ないんですよ。」

とのことで、どうやらそこは男性よりも女性会員の方が多いらしく、それも年齢構成が厄介で、登録者数が多い年代は女性は三十から三十五歳の三十代前半、他方の男性は三十代よりも四十代の方が多いと。ところが、三十代前半の女性は比較的年齢の近い、年上の三十代の男性をリクエストするのに、四十代の男性は「頭がおかしい人が多い」らしくて、それも本気か正気かどうか知りませんけれども、二十代の女性を強く要望されるという、まさに年齢の「ミスマッチ」があるのだそうです。そういうわけで、三十代前半の女性会員、いや、この「結婚相談所」にとっては、この場にのこのこやってきた三十代半ばの独身男性である私は一種の「鴨ネギ」でありました。

 あとの宴会のことはどうだったのか定かではありませんが、直接の当事者が不在もしくは頭越しの商談は得てして盛り上がるもので、どうやら話は見事まとまったわけです。本来の商談がまとまったわけではなかったのですが。


 私はたしかに、女性が好きです。その辺の一般的な男性と同じだと思います。いやらしい色欲も十分持ち合わせています。だからといって、なにか特殊な趣向者でもありませんし常識人です、そう自負しております。婚活への興味はともかくとして、結婚にも漠とはですが憧れがあることにはありました。つまりは、至ってまともな普通の男だったのだと思うのです。パッとはしていないかもしれませんけれども。ですから、そんな私がこういう顛末、ちょっと言い草がアレですが、こんな目に遭うとは思いもよらなかったわけです。

 ジンギスカンの後味は、お肉よりも焦げきったタマネギの苦みの方でした。

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