ネリステラ
森を駆け抜ける桃色の魚は、ネリステラといった。
ネリステラは、器用にヒレを動かして空中をくねくねと移動した。正面からの風は、ネリステラにとっては強敵で、風を受けると、せっかく来た道を戻されてしまう。
最近まで、ネリステラは人間だった。糸のような金髪を揺らしながら、林檎を収穫していた。村では有名な林檎農家の娘で、村一番の美少女と名高かった。その一方、非常に内気な性格で、人と話したがらなかった。学校に行っても、休み時間は花壇の前でぼーっとしていたり、教室の隅で本を読んでいたりと、周りの人間との接触を避けているようだった。
ところが、ネリステラには唯一心を開ける人間がいた。五歳年上の青年で、名前はマルキュリーといった。木で創られた三日月の形のネックレスをぶら下げ、分厚い本をいつもショルダーバッグに詰め込んでいた。彼とネリステラはいわゆる幼馴染で、ネリステラが言葉を覚える前から一緒にいた。
ネリステラが十五歳の誕生日を迎えた時、マルキュリーは一冊の日記をネリステラに手渡し、姿を消した。日記は、二年前からつけられていた。ネリステラは、なぜマルキュリーが自分に日記を渡したのか、全く分からなかった。日記には、その日の天気と食べたもの、ちょっとした出来事がつらつらと書かれているだけで、取り立てておもしろいものではなかった。
ネリステラは学校が終わった後、マルキュリーの行方を捜すために村中を歩き回った。マルキュリーは花や光が好きで、よく森に散歩へ出かけていた。ネリステラは、フクスカ森とマーバイロ森を交互に探索した。フクスカ森は小さな森で、ウサギやリスが活発に飛び回り、大きな水たまりが太陽の光を反射している。まるで絵本のように、穏やかな希望を与えてくれる。マーバイロ森は、大きな岩があちこちに落ちていて、奥に進むと、色鮮やかな花畑がある。マルキュリーは、花たちを愛おしそうに見つめ、となりの雑草の上によく寝ころんでいた。
ネリステラはマルキュリーとの記憶を何度も頭に浮かべた。けれど、最後に見たマルキュリーの顔だけは、時が経つにつれ薄れていった。まさか、あれが最後になるなんて思わなかった。いや、まだ最後だなんて決めつける必要はないのだけれど、何となく、マルキュリーにはもう会えないのだと、ネリステラは感じていた。それでも、ネリステラはマルキュリーを探すのをやめなかった。村を出て、都会を歩いた。都会は、眩しい。オレンジ色のやさしい光が街中を照らし、ネリステラの金色の髪をさらに輝かせた。ネリステラは、途中で何人もの男の人に声をかけられたが、その度に走って逃げてしまったので、マルキュリーの情報を得ることができなかった。
都会にもマルキュリーはいないようだった。やがて一年が経ち、ネリステラは十六歳の誕生日を迎えた。ネリステラの家のポストには一通の手紙が届いていた。
「美しいネリステラへ
僕は今、遠く離れた海の見える街にいます。きっと、君に再会したところで僕が僕であることを理解できないだろうから、こうして手紙を送ります。一年前、君に授けた日記を覚えているかい。今となっては、あれが比類なき幸福の時だった。君はきっと僕の日記を読んで、つまらないと笑っただろう。それでいいんだ。穏やかな日々というのはそういうものなのだから。
君は、僕が突然いなくなったと思っているだろうが、実はとても近くにいた。隣にいたと言っても過言ではないほどに、近くに。だから、君が僕の行方を追って、歩き回っていたことも知っているし、君が眠る前に月に向かって祈りをささげていたことも知っている。賞味期限切れのハムを躊躇なく食べるのはやめたほうがいい。
僕の仕業で君は今、非常に混乱してしまっているにちがいない。それでも、あまりにも明白にしてしまっては掟破りだ。それに、君はもう気付いているかもしれないが、これは代筆だ。僕は手足が少々不自由になってしまい、ペンを握ることができない。海を眺めていた小さな子どもに書いてもらっている。彼は幼いのに、とても頭が良くて物分かりが良い。名前はピニーというらしい。僕はしばらく、彼のもとでお世話になる予定だ。
さて、これは僕からの誕生日プレゼントだと思って聞いてくれ。君が今の穏やかな日々を手放さないために、役立つことだ。青色の蜂に、気をつけるんだよ。あれは、危険だからね。けっして、近づいてはいけないよ。
僕はまもなく、君のことを忘れるだろう。だから、もう二度と僕の言葉が君の未来と繋がることはない。けれど、悲しむことはないよ、ネリステラ。僕は新しい場所で花に囲まれて暮らし、海の匂いと夕暮れに心を震わせ、与えられた日々を繰り返すよ。花のように美しく生きておくれ、ネリステラ。君は僕にとって、永遠の陽だまりだ。
マルキュリーより」
ネリステラは赤ん坊以来、初めて声をあげて泣いた。どこかで分かっていた別れが悲しみに変質し、目に見えるものがすべて音もなくしぼんでいった気がした。
キッチンから漂うビーフシチューの香りは、ネリステラを現実に引き戻そうとする。それからネリステラは手紙を何度も読み返した。
マルキュリーは姿を消したのではなく、姿を変えたのだろうか。どう考えても、マルキュリーがすぐ近くにいたなんて、信じがたい。ネリステラの深い悲しみは疑念へと移り変わっていた。
青色の蜂。もしそんなメルヘンな生き物がいたら、私はきっと目を奪われるだろう。ネリステラはマルキュリーの忠告に、ひどく惹かれていた。人間という生き物は、危険な香りを本能的にかぎつけ、うっとりしながら後戻りできないところまでたどり着いてしまう。
ネリステラはマルキュリーの手紙を木の額縁に入れて壁に掛けた。ほんのりと漂う海の匂いを閉じ込めて。
マルキュリーの手紙が届いてから三か月が経った。
ネリステラは村で一番大きな本屋に行って、生き物図鑑を眺めていた。
「あんた、毎日来ては虫の本ばっかり見て、変わっているねぇ」
本屋のおばさんは、ネリステラが図鑑を真剣に眺めているのを見て大きな声でつぶやいたが、ネリステラは恥ずかしそうに俯いただけだった。
それから、ネリステラは本屋に行くのをやめた。虫の本は一通り読んでしまったし、おばさんに話しかけられたことを気にしていたからだ。ネリステラは、「変わっている」と言われることが嫌いだった。人間を、明るいか暗いかの二種類に分けるのも嫌いだった。人間はそんなたった一言で形容できるほど単純なものではないからだ。
休日の昼下がりに、ネリステラは手作りのサンドイッチをカゴの中で揺らしながら、マーバイロ森を訪れた。昨晩雨が降っていたため、地面はぬかるんでいた。マルキュリーとの日々を思い出しながら進むと、あっという間に花畑に着いた。ネリステラはワンピースのポケットに入れていた新聞紙を取り出して草の上に広げた。そこへ腰を下ろすと、新聞紙はみるみるうちに水分を吸収し、溶けてしまった。
「ああ、やってしまったわ」
もしもマルキュリーが一緒にいたら、笑ってくれただろう。そして、二人で座れる大きな丸太を探し持ってきて、サンドイッチをあっという間に三口で食べてしまう。きっと、あなたがいたら。ネリステラは花畑で浮かれるマルキュリーの姿を想像した。
寒気とともに、眠りは遮断された。ネリステラは花畑の上で眠ってしまっていた。森はすっかり闇に覆われ、まるで時が止まったかのようにしんとして、ネリステラを不安にさせた。足元で折れてしまっている花に気付いたネリステラは、「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も花に謝った。どうして自分が花畑の上で眠っていたのか、ネリステラには全く記憶がなく混乱していた。冷たい風が全身を貫通すると、ネリステラは森を抜けることを決意した。
その時だった。
「ネリステラ、僕はここにいるよ」
懐かしい声。凍った体をあたためるような、優しいマルキュリーの声。
「マルキュリー、もう会えないと思っていたわ。どこにいるの?」
マルキュリーの姿は暗闇で見えなかった。でも、ネリステラにはすぐ近くにいる気がした。
「月が照らすところまで、一緒にいこう」
マルキュリーはそう言うと、ネリステラの背中を押すように真っ暗な道を案内した。その間、二人は何も話さなかった。
「月、月だわ。明るい」
ネリステラは月を見つけて嬉しそうに言った。蜂蜜を浸透させたような、輝かしい円形がネリステラの美しい髪の毛を光らせた。
「ねえ、マルキュ……」
ネリステラが後ろを振り向くと、そこにいたのは愛しいマルキュリーの姿ではなく、見たことのない、林檎のように大きな、蜂。青い色にぎらぎらと光っていた。
「恐怖に支配されたような顔をしているな。さっきまでの安らかな顔は一体どこへいったというのだ、ネリステラよ」
青色の蜂は低い声でそう言った。ネリステラの体は再び体温を失ってしまったように凍りついた。
「お前の愛するマルキュリーはもういない。人間だったマルキュリーはもういない」
ネリステラは肩を震わせ、青色の蜂の言葉を聞き取るのに精一杯だった。
「あなたの言っている意味が分からないわ。マルキュリーがもう人間じゃないってどういうことなの?」
青色の蜂はネリステラを嘲笑うかのように、ネリステラの耳の周りを飛び回った。
「小さな埃になったのだ。空中をふわふわと移動する薄汚い埃だ」
「埃……?どうしてそんなことを……」
ネリステラの目からは大粒の涙がこぼれた。
「そうだ、あの時はお前の姿に化けさせてもらったな。まんまと騙されて、抱擁を交わしてきたぞ。人間は愚かだ。自分の愛する人間を見抜けない阿呆どもばかり」
マルキュリーも、ネリステラと同じように青色の蜂が作り出した幻を見ていた。ネリステラは青色の蜂を睨みつけて言った。
「ひどいことをするのね。人間を騙して楽しんでいるっていうの?私、許さないわ。絶対に許さない。マルキュリーを返してよ!」
ネリステラは怒りの炎を燃やし、青色の蜂に向かって拳を振り上げた。
「おおっ、おとなしい顔をして攻撃的だ。私を殴ったところで死にはしないよ、お嬢さん」
青色の蜂はネリステラの拳を軽快に避けて嘲笑った。
「まあ落ち着いてくれ、ネリステラ。私も聞き分けがないわけじゃない。お前がどうしてもマルキュリーを人間の姿に戻したいというのなら、そうしてやってもいい。だたし、代償はお前が払うのだ」
「代償って……」
「お前の魂は生かしてやる。だが、その美しい姿とは別れを告げなくてはならない。十六歳の若い体を手放すのだから、それなりに形のあるものに変えてやってもいいな。そうだな、魚はどうだろう」
ネリステラは自分の顔を両手で覆った。
「もちろん、選択する権利はお前にある。埃になった恋人なんぞさっさと忘れ、人間として今まで通り生きていくこともできる。人間は図太いからな」
ネリステラは地面に座り込んで、月を見上げた。とっくに涙は止まっていた。
「最後に、自分の姿を見ておきたいわ」
「そうか、お前は自己を犠牲にすることを選ぶのだな。自分の姿が見たければ、そこの水たまりに映してみるといい。今宵は月の光でよく見えるだろう」
ネリステラは水たまりに自分の顔をよく映した。もう二度と見ることのできない自分の顔。ネリステラは水たまりに向かって微笑んでみせた。
「いいわ。なんにでも変えてちょうだい」
「潔いな。たいていの人間は未練がましいものだが」
「マルキュリーが人間に戻れるのなら、私は嬉しいわ」
ネリステラは青色の蜂に堂々と言ってみせた。
「私の針で刺されれば意識を失うが、次に目が覚めた時はすでに魚に生まれ変わっている。後悔はするな」
青色の蜂はそう説明すると助走をつけて、ネリステラの頭に大きな針を刺した。
ネリステラは痛みを感じる間もなく、意識を失った。
ネリステラは森を駆け抜ける。桃色の鱗をきらびやかに見せ、どこか幸せそうに。
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