お医者さんごっこ
「それではホームルームを始めたいと思います。えー、まず今日は……」
間延びした物言いをする担任の声を聴き流しながら、ひまわりは窓の外を見る。がらんとしたグラウンドには、ちらちらと白い雪が緩やかに降っている。それがふと、一条ひまわりの目には、ふるい落とされた埃のように見えた。それがまるで、連想ゲームのように、あの体験のことを ひまわりに思い起こさせた。
「……お医者さんごっこ、か」
それは、夏に入ったかどうかという頃合いの、とある日のことであった。
「お医者さんごっこ?」
昼休みの教室で、ひまわりは首を傾げる。彼女が通う高校で、彼女に割り当てられた席での反応だった。
「そう、お医者さんごっこ」
「なんか凄いことが起こるそうよ」
心なしか興奮したように話したのは、クラスメイトにして桜の友人である、二宮さくらと三倉つばきの二人だ。二人とはひまわりが中学校に入学した時からの付き合いであり、高校二年生となったこの時分でも、よく一緒に遊ぶ仲だ。比較的冷めた性格のひまわりにとって、活発なさくらとノリの良いつばきの二人は、学校生活を明るく彩ってくれる、かけがえのない親友である。
「それ、いやらしい系の話じゃないよね?」
二人が口にした言葉に、ひまわりはむしろ一歩引いたような口調で問いかける。すると、それは想定していたとでも言いたげに、さくらは苦笑しながら手を横に振る。
「違うって。そりゃ、そういうのを連想しそうなアレではあるけどさ」
「れっきとした怪談話――都市伝説よ。ひまわりは裏山の向こうにある廃病院のことは知っている?」
「確か……十何年前だかに閉院したとかいうアレのこと?」
記憶を手繰りながらひまわりがそう返すと、その通りだとつばきが頷く
「そう、そこで起こる――起こせる怪談が、お医者さんごっこと呼ばれているの」
「大雑把な手法はこう。まず医者、看護師、患者の三つの役割に分かれる。そして、患者が病院に来たところから、診察を出るところまでを、それぞれの役割を演じながら通す。そうするとそのどこかで超常現象が発生するんだって」
「ふうん。だからお医者さんごっこなんだ」
なるほど、とようやくひまわりは納得をする。その上で、それで、と二人に視線を向ける。
「流れを考えるに、それを実際にやってみようって感じ? ちょうど夏で、私達は三人だし」
「そういうこと。どうなるにしても話のネタにはなると思うんだよね」
「幸いというべきか徹底していないというべきか、時間の指定とかはないみたいだから、明るい時間でやれば危険も少ないと思うわ」
「まあ…………面白そうだとは思う、かな」
どうだ、と言いたげな二人に、ひまわりは少し考えた後、素直な感想を口にする。すると、さくらとつばきは我が意を得たりとばかりに頷き、見事なシンクロで手を叩く。
「じゃあ決まり! どんなふうになるか楽しみだなー」
「あっ、私たちは下見をして場所を知っているけれど、ひまわりは詳しい場所は分かる?」
「いや、流石に知らない」
「だったらひまわりの家からスタートして向かおうか。自転車で行くからそのつもりでね。今度の土曜、午後一時集合でいい?」
「大丈夫」
「よし、じゃあそういうことで!」
うんうん、とさくらが頷き、楽しそうだとつばきが笑みを浮かべる。この三人で何かを決め、それを実行するにあたって起こる、いつもの流れ。そのことに何を思うでもなく、ただ、心霊体験にしては明るいなあ、とそんな感想をひまわりは抱くのだった。
そして、土曜日である。天候は、晴れよりの曇り。湿度はやや高めだが、気温はそこまで高くない。怪談日和かはともかく、外出には適しているという天気だった。
「やっほー、ひまわり」
「準備は大丈夫?」
「うん」
午後一時。迎えに来たさくらとつばきに連れられ、ひまわりは家を出た。さくらが先導し、つばきとひまわりが続くという形での、自転車での移動。つばきが次のように言い出したのは、走り出して十分ほどが経ち、調子が出始めた頃合いだった。
「そうだ、ちょうどいいしこのままお医者さんごっこの説明をしましょうか」
「そういえばまだ聞いていなかったっけ。どうやるの?」
「まず――」
つばきが語ったお医者さんごっこの実行手順はこうである。
一つ、実行する三人はそれぞれ、医者、看護師、患者の三つの役割を決め、以降はそのつもりで演じる。この際、看護師役は自作した簡易的なもので良いので、問診票を準備しておく。また、患者は自身が病院を訪れた理由を決めておくこと。
二つ、まず医者役が廃病院内に入り、診察室の中で待機をする。どの部屋に入ったか分かるように、診察室の戸は開いたままにしておく。
三つ、医者が入ってから五分後、次に看護師役が入り、受付で待機をする。
四つ、更に五分後、患者役が入り、受付で手続き――問診票の記入をする。その後、看護師役と患者役は診察室に向かう。
五つ、診察室に三人が揃ったら、医者役は患者役を診察する。手法に指定はない。医者役が患者に結果を伝えた後、看護師役と患者役は速やかに診察室を出る。
六つ、受付で診察代――少額で良い――を払い、患者役が廃病院を出る。その五分後、看護師役と医者役は合流し、同時に廃病院を出る。
「――で、おしまい。この流れの後、超常現象が起こるという噂よ」
「ふうん、なるほどね」
つばきの説明に、ひまわりはただそう述べた。簡単なのか複雑なのか、細かいのか大雑把なのか、いまいち区別がつかない手順だ、とは思ったのだが、ノリノリな友人たちの前に飲み込んだ。もしそうでもなければ、一体何をするための手順なのか分からない――心霊現象を起こすにしても、それと手順がつながっている感じがない――くらいのことは言ったかもしれない。まあ、水を差す場面じゃないと、そういう判断だった。
「各自の役割なんだけど、ひまわりは患者役でもいいかな? 私が看護師、さくらが医者の役を希望した余りになっちゃうんだけど……」
「いいよ。特に希望とかはないし」
ひまわりの快諾に、つばきは良かったと頷いた。その後は、ちょこちょことした補足や雑談を挟みつつ、占めて一時間ほどをかけて三人は件の廃病院へとたどり着く。
「ここがそうだよ」
「……割ときれいだね」
廃病院を一目見て、ひまわりは小さく呟く。平屋で、個人病院よりは大きいだろうか、という感じの建物。病院らしい白を基調とした外装はやや黒ずんでいるものの、思ったよりも塗装が剥げている、汚れている、という風ではない。ただ、どうしても病院名は読み取ることが出来ず、かろうじて『病院』の文字だけが分かる状態である。らしい雰囲気はあるな、とそういう感想が続けて浮かぶ。
「だよね。ほったらかしって話の割には、外も内も廃墟ってほどじゃないし」
「案外、誰かが掃除でもしていたりして」
「誰かって?」
『そりゃあ――』
幽霊でしょ、とさくらとつばきの声が揃う。くすくす、と楽しそうに笑う二人からは、緊張している素振りはみじんも感じられない。昼間、明るい太陽の下だからなのだろう。これが夜ならおそらく、こう軽い態度ではなかったかもしれない。少なくとも、ひまわりならそうなったことだろう。まあ、今更意味のない想像だ。
「じゃあ、早速だけどやろうか。まずは私からね」
まず、医者役のつばきが廃病院の中に入った。その五分後、看護師役のさくらが動く。
「じゃあひまわり、五分後に」
その言葉に軽く手を振ることで応え、ひまわりは彼女が廃病院の入り口をくぐるのを見送る。
きっかり五分、そう思いながらひまわりが待機していると、ふと寒気を感じた。突如として肌をくすぐりだしたそれに、彼女は腕を軽くさする。
「緊張しているのかな……」
夏の昼間とはいえ、廃病院の前でたった一人というシチュエーション。雰囲気に飲まれているのだろう、とひまわりは自身の状態を客観的に判断する。それくらいしか冷気を感じる要素がない以上、出せる結論は他にない。ただ、どうにも落ち着かないものはあった。
そんな感覚と戦いながら、しばし。ようやく、さくらが廃病院の中に入ってから五分の時間が経った。やっと順番が来たことに、安堵と不安という、相反するものを同時に感じながら、患者役のひまわりは廃病院のドアに手をかける。
そういえば、鍵がかかっていないのは変じゃないだろうか。ドアを軽く押しながら、ひまわりはふと、そんな疑問を抱いた。廃墟というものに特段詳しいわけでもないが、放置にするにしても鍵をかけた状態で放置するのではないか、と思ったからだ。話を聞く限り、お医者さんごっこは何度か行われているはず。その最初、ないし単純に探検なりに来た人物は、どうやってこのドアの鍵を開けたのだろう。無理やり開けた、という形跡もドアには特に見受けられない。正規の手段で開けたか、あるいは最初から鍵がかかっていないのか。どちらにしても、少し変な気もする。
「裏口とかから入ったのかな……?」
考えている中で思いついた推測を、ひまわりは首を傾げながら口に出す。そうしてみると、案外とそれが正解であるような気がしてきた。とりあえずそれでいいか、と気分を切り替えて、ひまわりは廃病院のドアをくぐる。
瞬間、ひまわりは不思議な感覚を覚えた。何かが自分を包んだ、あるいは何かの中に自分が入った、そういう感覚だ。外との気温差によるものだろうか、と眉を顰めつつ、ひまわりは周囲を見渡す。
廃病院の内装は、外装とおおよそ同じような雰囲気であった。それほど荒れておらず、不気味さは抑えられている、という風である。ただ、廃墟で明かりはついていないため、そこが少しばかり、外よりも暗く感じられる要素だった。
「――どうされましたか」
きょろきょろとしていると、奥の方から声がかけられた。声がした方を向くと、そこには受付らしい場所の中に立つさくらの姿があった。役になりきってでもいるのか、その表情は珍しく平坦で、感情の色が見受けられない。それはそれで看護師としていいのだろうか、と思いながら、ひまわりはそちらに足を向ける。
「すみません、どうも朝から風邪っぽいのですが、診察をお願いできますか」
さくらに向かい、ひまわりは軽く咳き込みながら言う。勿論、彼女は特段体調不良を感じているわけではない。ここまでの道中で決めた、患者役としての『設定』であった。
「風邪っぽい、と。では、こちらの問診票にご記入をお願いします」
「分かりました」
頷き、さくらが取り出した紙とペンを受け取る。怪談の為に問診票も作ってきた、とは事前に聞いていた。てっきり簡易的なものかと思っていたのだが、見てみるとこれが案外と出来がいい。本物を流用している、と言われても納得できるその本格具合に少し感心しつつ、ひまわりは『風邪を引いた患者』という設定に則った回答を記す。
「これでいいですか」
ざっと埋めたところで、問診票をさくらに返す。彼女はそれを一瞥した後、ゆっくりと受付から出て、ひまわりの隣に立つ。
「着いてきてください、先生がお待ちです」
平坦な口調で言いつつ、さくらは奥の方を示す。こういうのは少し待たされるもののはずだが、とは思ったものの、簡略化のためだろうと納得し、頷く。問診票のことを踏まえると、手を抜いているのかいないのが良く分からないところがあるが、まあそれはそれ。別にいいか、とひまわりはさくらに着いていく。
そうして少し歩くと、三つほど扉が並んでいる場所に着いた。その内、一番奥の部屋だけが開いているのが見える。その開いた扉の前で、ぴたりとさくらが足を止める。
「こちらです」
無表情のまま、さくらは部屋の中を示す。そのまま促され、ひまわりは部屋の中に入る。
「こんにちは」
ひまわりを迎えたのは、かつては診察室だったのだろうやや荒れ果てた部屋と、その中央の椅子に座るつばきであった。これも調達してきたのだろうか、彼女は白衣と聴診器らしいものを身に着けている。医者になりきっているのか、常よりもだいぶ大人っぽい雰囲気が感じられた。
「どうぞ、おかけください」
「はい」
頷き、つばきの前に椅子に腰を下ろす。その間に、つばきはさくらから問診票を受け取り、目を通すように視線を動かしている。
「……なるほど、風邪と」
「はい。少し熱っぽいんです」
なるほど、ともう一度つばきが繰り返す。傍らの机に問診票を置いた後、彼女は首に下げていた聴診器を手に取る。
「では、診察をするので前を開けてください」
本格的だなあとまた思いつつ、ひまわりは言われた通りシャツを軽く上げる。深呼吸を挟みつつ、トン、トンと、肌着の上から聴診器を当てられること、一分ほど。ゆっくりと頷き、つばきが口を開く。
「手術が必要です」
その言葉に、一瞬、ひまわりはどうとも反応することが出来なかった。予想もしていなかった――そういうことを言う流れとは思っていなかった――というのもある。だがそれ以上に、そう告げてきたつばきの声がぞっとするほど平坦だったからだ。これまでもそうだった、とは軽く思えないほどに、その声は感情が籠っていなかった。
本当に、目の前の人物はつばきなのか。そんな疑問が、ひまわりの脳裏をよぎる。
「手術が必要です」
じい、とつばきの目がひまわりを捉える。何も色が見られない、と思ったのも一瞬、すぐにひまわりは自身の勘違いに気が付いた。ただ、一色だけがある。瞳の奥底、よくよくと意識しないと分からぬ程度に小さく、しかし濃い感情。
それは――狂気だ。
「っ――」
ごくり、と恐怖から喉が鳴る。逃げなければ、と思い、反射的に立ちあがろうとしたひまわりの肩に、すっと手が置かれる。次の瞬間、その手は非常に強い力で、立ち上がらせまいとひまわりを押さえつけた。
「手術が必要です」
そう、耳元でささやかれる。さくらの声だった。かかった息も、出された言葉も、ぞっとするほどに、冷たい。違う、とそんな単語がひまわりの脳裏に浮かぶ。
「手術が必要です」
ゆっくりと、つばきの手がこちらに伸びる。もう数秒で顔に迫る、という時に、ひまわりの思考が、身体が、ようやくと動いた。
「――いやっ!! 放して!!」
叫び、半ば倒れこむように身体を回す。振り回された腕がさくらとつばきの手に当たり、両者をはじく。その感触――氷のような冷たさと硬さ――にどうと思う暇もなく、ひまわりは必死に立ち上がり、がむしゃらに診察室のドアの取っ手を掴む。
開け、と思いながら腕に力を籠める。すると、今起こっている非常事態に反し、あっさりとドアが開いた。その先を見る余裕もなく、これ幸いと、飛び込むようにひまわりはドアをくぐる。
その瞬間、ふっと空気が変わった感覚があった。この病院に入った時と似た、しかしそれとはまったく逆な気がする、不思議な感覚。安堵、ではないが、異質はなくなった、と分かるそれに、ひまわりは思わず足を止めてしまう。
そのことに、しまった、と思う暇すらもなかった。それを上回る異常に気付いたからであった。
「えっ、なんで……?」
暗い。パッと見る限りは、先ほど歩いていた廃病院の廊下であるにもかかわらず、ただ光量だけが全く違う。ちょっと前までは昼間のそれであったはずなのに、今は夕方前後という程度しかない。見えないこともないが、明かりは欲しい。そういう光量だ。
明るくなるならまだともかく――奇跡的に電気がついただとかで――より暗くなっているというのは、おかしなことだ。驚きと混乱から、ひまわりは視線を巡らせる。その中で、ひまわりは背後の――飛び出してきた診察室を見て、また驚いた。
誰もいない。あのおかしなさくらもつばきも、そのどちらもが室内にいない。いや、そもそも誰かがいたのか、と疑問になる程度には、室内は荒れはて、人が立ち入った形跡が見受けられない。
まさか――あるいは『やはり』とひまわりが確信を抱きつつある中、ふと隣から物音がした。それに、ひまわりは反射的に身体を向ける。
すると、
「……あっ、あれ? なんでこんなに暗いの……?」
そこに立っていたのは、焦ったような表情で辺りを見渡すさくらであった。真ん中のドアの前に立つ彼女は、まさしくそこから飛び出してきた、と言いたげな体勢で首を左右に動かしている。
これは、自分の知っているさくらではないか。感情が見受けられるその姿に、ひまわりは冷静に声をかける。
「さくら」
「――っ、ひまわり!?」
ぎょっ、とした表情をさくらが浮かべた。そのまま互いに黙って見合うこと数秒、ゆっくりとひまわりは口を開く。
「あんた……本物のさくら?」
「……そういうひまわりこそ、本物?」
投げた疑問に対し、また疑問が向こうから投げ返された。普段であれば眉を顰めるその返答に、しかしひまわりは安堵を覚えた。もし違うなら、こうは返さない。そう思い、ほっと息を吐く。
「良かった……どうやら本物みたいだね」
そう漏らすと、こちらをじっと睨んでいたさくらの表情から、険がいくらかとれた。まだ気を許してくれているわけではないようだが、あからさまに警戒されるよりはましだった。
「……もしかして、ひまわりの方にも変なことがあったの?」
「さくらとつばきの様子が変だった。たぶん見た目そっくりの別人だったと思う。そっちも、そういうことが起きたんでしょ」
さくらの態度や流れからそうだろうと考えていたことを、ひまわりは彼女に投げる。そうすると、彼女は少し戸惑うようにした後、こくりと頷いた。
「うん。最初は二人とも、妙に大人しいなってくらいだったんだ。いつにもまして淡々とした感じのひまわりを連れて、戸が開いていた部屋に入ったらむっつりとしたつばきがいて。ちょっと変だな、とは思ったけど、その時は演技に逆向きで熱が入っているのかな、とか思っていた」
だけど、と眉を下げながらさくらは続ける。
「軽く診察の振りをした後に、つばきが急に手術をするとか言い出して……しかも、それをひまわりも平然と受け止めるし。おかしいって混乱していたら、二人はメスがどうとか、どれくらい切るかとか、相談みたいなことをしだしたんだ。だから怖くなって、思わず部屋を飛び出した」
ぶるり、とさくらが身体を震わせる。改めて思い返したことで、怯えの感情を取り戻してしまったのだろう。普段の明るさとは対照的な、恐怖に取りつかれたらしい姿。そんな彼女の態度に、むしろひまわりは落ち着きを取り戻していく。周囲が興奮するとかえって冷静になる、という理屈があるが、それに近しいものなのだろうか。元々冷めた性質だからだ、という方が、あるいは近いかもしれないが。
「それって、どこがスタートだった? 診察室に入った時? それとも……」
そこで、ひまわりは言葉を切った。そこから先の推測は、あまり口にしたくないものだったからだ。さくらも方もまた、同じように思ったのだろう。少しの間の後、表情をゆがめてから、仕方なさそうにこう言った。
「たぶん、ひまわり――ひまわりの姿をした『なにか』が病院内に入ってきた時からか……それか『最初』から、だと思う」
「…………そっか。そう、だよね」
苛立ちに、ひまわりは頭をかく。それは、自分たちに何が起こったのか、ある程度分かったことによるものだった。
始まりはおそらく、各々が廃病院に足を踏み入れたところなのだろう。ひまわりと、つばきと、さくら。それぞれはたぶん『別の廃病院』に入っていったのだ。表現が難しいが、そういう言い回りしか思い浮かばない。複数の病院が、現実のそれの上に重なり合っており、三人はその重なったいずれかに、別々に入ったのだろう。別々の病院で、別々の『友人』と役を演じ、そして逃げてきた。おそらく、そういうことなのだろう。
荒唐無稽……と切るには、むしろ遅いだろう。ここまで来て、現実で考える方が不自然だ。これくらいぶっ飛んだ理屈でないと、むしろ納得できない。だいたい、そうとでも考えないと、ひまわりとさくらが別の部屋から出てきた理由が説明つかないではないか。
「最初から、怪談は成立していたってことか」
呟き、自嘲する。つばきが廃病院に入ったタイミングか、それよりもさらに前からか。どちらにしても、ひまわりたちは最初から、怪談に巻き込まれていた――怪談を体験していたことになる。その上で、怪談を起こそうと演技をしていたのだ。あまりの馬鹿馬鹿しさに、一周回って苦笑しそうになる。
「……あの、ひまわり?」
恐る恐る、という風にさくらから呼びかけられた。なぜか、彼女はこちらに対して一歩引いたような姿勢を取っているが、それを疑問に思う余裕も、今のひまわりにはない。
「なに?」
「その……つばきは?」
数秒、沈黙が暗い廊下を支配した。そして、ひまわりはゆっくりと、真ん中の部屋に視線を向ける。
「いるとすれば……ここしかない」
もし、彼女もまた、二人と同じように心霊現象に――お医者さんごっこに巻き込まれたのだとすれば、残る部屋はあと一つだけ。ひまわりもさくらも入っていない、真ん中の診察室が、彼女に割り当てられた部屋の可能性が高い。
慎重に、ひまわりは真ん中のドアに手を伸ばす。ごくり、とさくらが唾をのむ音が聞こえた。
深く、息を吐きだしながら、ひまわりはドアに触れる。一拍、心を決めるように深呼吸を挟んでから、ドアを開く。
「……ああ」
誰もいない。
ただ、がらんとした室内に、放置された診察道具がばらまかれただけの、何もいない空間。空気が動いたからか、わずかに埃が舞い散っている、廃墟の診察室。そんな光景を、ひまわりはただ、空虚な気持ちと共に見つめることしか出来なかった。
「つばき…………」
それが、まだ半年と経たぬほど前に、ひまわりが体験した出来事であった。
「……それと、今日は特に、皆さんに伝えなければならないことがあります」
ふと、何故か耳を超えて脳まで来た担任の言葉に、ひまわりは二つ前の季節より帰還する。ちらりと周囲を見れば、いつものように、それぞれの態度で担任の話を聞いているクラスメイト達の姿が見える。空白が二つあることを除けば、まったくもって普通の高校の教室だ。
空白の一つは当然、つばきのものである。あの日以来、つばきは一度として、その姿をひまわりたちに見せていない。状況の不自然さからか、家出というよりは失踪として扱われている。一時期は警察も動いていたようだが、今ではもう、まともに捜査している風ではない。
あの日のことを、ひまわりはまともに語っていない。家族にも、警察にも、つばきの家族にも、
『遊びに行ったらはぐれた。探し回ったが見つからなかった』
としか伝えなかった。お医者さんごっこに関しては欠片として触れていない。言っても信じてもらえまい、と思ったのもそうだが、それ以上に、あのことについて、どうにも他人に言いたくなかった。生理的な嫌悪感のようなものが、ひまわりにあの日のことについて語ることをさせなかった。おそらく、さくらもまたそうだったのだろう。先の対外的な説明にしても、むしろ彼女の方が率先して考えていたくらいであるから、まず違いあるまい。
それに、まるっきり嘘というわけでもない。遊びに行ったのは事実だし、いなくなった後に探したのも事実だ。ただ、夕方まで探し回ったが見つからなかった、と誤解されたのもまた事実である。いつの間にか夕方までの時間が消し飛んでいて、明かりもない環境では探しようもなかった、という真実に関しては、あえて誰にも言っていない。誤解されていると知りつつ、ひまわりも、そしてさくらも、それを訂正しなかった。その方がいい、とすら思っていた……いや、今もそう思っている。
「……どういう気持ちだったんだろうな」
何となしに、ひまわりは呟く。それは、おそらく逃げられなかったのだろう、つばきに対しての感想だった。
フリーな立ち位置だったさくらや、まだ出口までの障害がなかったひまわりと異なり、つばきは部屋の奥に、『二人』に遮られるような形で座っていたのだろう。だから、逃がしてもらえなかった。そんな風に、ひまわりは推測していた。
果たして、その時のつばきは、一体どのような感情を抱いていたのだろう。あれからしばしば、ふとした時間の合間に、何度も何度もひまわりは考えてしまう。
看護師として傍から見ていたさくらと、患者として『手術』を強いられかけたひまわり。二人は恐怖しつつも、最終的には逃げることが出来た。だが、さくらの立ち位置は、『手術』を強いることを強いられた、複雑なものだったに違いない。そんな彼女は、目の前の二人が違うということに気づいた時、どう思ったのだろう。そして、逃げられなかったときに、何を考えたのだろう。いくら考えても分からぬそれを、ひまわりは時折、考えずにはいられないのだ。
「もしかすると、皆さんの中には知っている人もいるかもしれませんが――」
また聞こえた、担任の言葉。その口調と、その表情から見透かせる感情に、ひまわりは察する。
「――二宮さくらさんが、自宅から失踪したという連絡が、御両親よりありました」
やっぱりか。予想通りの言葉に、ひまわりは冷淡な感情を抱く。驚きがまったくないのは、ひまわりが既に、さくらの失踪を知っていたからである。親友として、彼女の両親からとうに、失踪の知らせを聞いていたのだ。だから、教室のもう一つの空白――さくらの席が空いていたことにも、何ら疑問を抱くことがなかった。
『誰が本物か分からない』
それが、彼女の部屋に残されていた、書きなぐられたらしいメモの言葉だ。彼女の両親から、心当たりがないか、と見せられたものである。
言葉そのものは知らないが、察しはついた。おそらく、さくらは疑念にかられたのだろう。廃病院で、ひまわりやさくらの偽者にあったように、他の者もそうではないのか、と思ってしまったのではないだろうか。
ともすれば、その疑念を植え付けたのは、あるいはひまわりであったかもしれない。あんな体験の後、少なくとも表面上は冷静さを保っていたひまわりに、不審の目を向けたのではないだろうか。確証はないが、過去を振り返ってみれば確かに、そういう素振りはあった覚えがあった。
恐怖に耐えかね、失踪したのだろう。そう考えつつ、ひまわりはまたそれを伝えなかった。理由もまた、つばきの時とおおよそ同じである。そういう気にならなかった、それだけだ。
「現在、警察の協力の下、二宮さんを捜索しているとのことです。皆さんも何か、心当たりがあれば――」
クラスメイト達の視線を感じつつ、ひまわりは視線をまた窓の外に向ける。冷たい、と誰もが思うだろう。親友の失踪を知りつつ、このような態度を取るひまわりに、良い感情を向けるものはいまい。
それは、ひまわりもまたそうであった。彼女も、自身の態度や行動について、幾ばくか以上の自己嫌悪を感じている。そうでありながら、ただそれを甘受しているのは、彼女の心が冷えているからである。
あれ以来――あの診察室から逃げて以来、ひまわりの心は、ひどく冷たくなっていた。さくらと話していた時や、そこから数日はともかく、一週間も経った頃には、ひまわりの感情の振れ幅は、異常なほどに狭くなっていた。まるでどこかに置いてきたかのごとく、あの時感じた冷気や寒気のごとく、ひまわりは極めて冷静で、冷淡で、冷酷な人間となってしまった。元のそれに輪をかけて、家族からさえも不審がられるほどに、今のひまわりの心には、何の熱意も存在してない。だから、友人が失踪しようとも、どうなろうとも、どうしても一歩以上引いた立ち位置を選んでしまう。
これが、お医者さんごっこの効果なのだろう。逃げたせいか、あるいは最初からそうだったかは知らないが、病院風に言うならば、ひまわりは感情を『除去』された、といったところか。とすれば、あの時に夕方まで飛んだのも分かる。手術には時間が必要、それだけの話だ。
かくして、ひまわりは感情の振れ幅か感情そのものを、さくらは冷静さか人を信じる心を、そしてつばきは肉体かその存在を、それぞれに除去されてしまった。知らぬうちに除去手術を受けせられる、それがお医者さんごっこ。これが正しい解釈なのかどうか、それは不明である。ただ、それを深く探る熱意ももう、今のひまわりにはない。
唯一、積極的な感情があるとすれば、
「もう一回、お医者さんごっこをやってみようかな……」
今度は、戻してもらったりできないだろうか。自分の感情か、二人の存在か、あるいは三人の友情を。そんなことをしみじみと考えながら、ひまわりは冷たい息を吐くのであった。