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第2話 足利尊氏

 足利尊氏にしても、北条義時と似たところがあります。


 そもそも足利尊氏は、足利家の当主になれる存在ではありませんでした。

 足利尊氏の生母は、父貞氏の側室、上杉清子であり、貞氏には、尊氏から見れば、異母兄になる高義がいたからです。

 足利高義の生母は、父貞氏の正室、金沢(北条)氏(本名、不明)であり、年齢から言っても、この兄が貞氏の跡を継ぐのが当然でした。

 しかし、高義が20歳そこそこの若さで夭折し、その遺児が幼少であったことから、半ば中継ぎとして、尊氏が足利家の家督を受け継ぐことになります。


 そして、尊氏は、赤橋(北条)登子を正室に迎え、北条家の姻戚となり(といっても、鎌倉時代の足利家は代々の当主が北条家から正室を迎えているといっても過言ではなく、極めて北条家と縁が濃い存在でした)、順調に出世して、鎌倉幕府内で重きを置かれる存在になります。


 ところで、足利家が、源氏一門として鎌倉幕府内で重きを置かれていたか、というと疑問があるそうです。

 1248年、宝治2年に、当時の足利家当主、足利義氏と、結城親光(藤原秀郷の後裔に当たります)との間で争論が生じた際に、鎌倉幕府は、足利家と結城家は同じ御家人であり、対等と沙汰を下したそうです。

 それが本当ならば、確かに源氏一門として、足利家が重きを置かれていたとは言い難く、むしろ、北条家と姻戚関係を結ぶことで、威勢を維持していたのではないでしょうか。


 そして、後醍醐天皇による元弘の乱が起き、尊氏はその鎮圧のために上京、西国に向かうことになります。

 尊氏の生母の出身である上杉氏は、藤原家の流れを汲む氏族で、13世紀半ば、鎌倉時代になってから、京から鎌倉に下り、武士(軍事貴族)になった、ある意味、変わり種です。

 そう言った事情から、尊氏には京周辺の事情が小まめに入っており、このまま北条家に味方していては、自分も北条家の一味として、滅ぼされるのではないか、今、寝返れば、という保身、受け身の事情から、六波羅探題攻撃を尊氏は行ったのではないか、と私には思えるのです。


 そして、建武の新政が始まりますが、尊氏の姿はあまり見えません。

 これは後醍醐天皇が、尊氏を敬遠したから、とよく言われますが。

 私としては、尊氏自身に余り欲が無く、それなりのポストを後醍醐天皇から貰えれば充分と思っていたからでは、と思えます。

 

 そして、中先代の乱が起き、足利尊氏は、後醍醐天皇から鎌倉を占拠した北条時行の討伐を命ぜられます。

 この時、征夷大将軍を尊氏は望み、これを後醍醐天皇が拒んだことから、二人の間には、徐々に間隙が生じ出します。

 足利尊氏としては、北条時行の勢威から、それなりの地位が無いと権威が無く、討伐は困難であると判断したのに対し、後醍醐天皇は、そこまでの必要は無い、と考えたのではないか、と私には思えます。

 

 結局、征東将軍として尊氏は鎌倉奪還を果たすのですが、こうなると尊氏は味方の武士に褒賞を与えない訳には行きません。

 一々、後醍醐天皇にお伺いを立てては時間がかかるので、事後追認でいいだろう、と尊氏は軽く考えたのでしょうが、新田義貞らの讒言もあり、後醍醐天皇は尊氏は謀叛を企んでいるとし、討伐を決断します。

 尊氏は、自発的に謹慎すれば、命まで取られることはあるまい、と想ったのでしょうが、後醍醐天皇の態度は強硬で、討伐軍の前に弟の直義の率いる軍勢が敗れる事態までが起きたことから、尊氏は謀叛を決断、後醍醐天皇と戦うことになります。


 ですが、尊氏は後醍醐天皇と戦うことは、最後まで本意ではなかったのではないでしょうか。

 後醍醐天皇が崩御した後、尊氏は、夢窓疎石の勧めで天龍寺や安国寺を建立しています。

 確かに夢窓疎石が勧めたのは事実でしょうが、尊氏自身も色々と想うところがあり、かつての恩人である後醍醐天皇の菩提を弔うために天龍寺や安国寺の建立を決断したと思うのです。


 更に、後醍醐天皇の死後、尊氏を一緒に支えてきた高兄弟と足利直義が対立したことから、観応の擾乱が勃発します。

 この時、いわゆる「正平の一統」が起こり、高兄弟の死後に、足利直義と戦うために、尊氏が北朝を捨てて、南朝に味方するという事態が生じていますが。

 その内容は、尊氏が事実上、南朝に降伏すると言ってもよいようなもので、それだけの窮地に尊氏があったから、という見方もできますが、私としては、これで南朝との仲が修復できるという想いから、尊氏が進めたのでは、と思えてなりません。

 そして、足利直義の死後、南朝は好機と見て、尊氏を攻撃するという事態を引き起こし、正平の一統は破られることになりますが、尊氏側から南朝を攻撃しようとしたから破られた訳ではないのです。

 

 正平の一統が破られた数年後、尊氏は亡くなります。

 尊氏が、結果的に後半生において、後醍醐天皇や南朝と対立し続けたのは事実ですが、私としては尊氏の本音は戦いたくなかったのでは、と思うのです。

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