宮廷画家の竜3
おもな登場人物
ピエタ・リンソン — 25歳、イクストランの国のハースフという貴族の記録画家。イクストランの統治者から新城の壁面へ竜を描く命が下ったため、それを描く画家の選考試験に名を連ねようと、実際の竜を見ようとする。このお話の語り部。
3
私は、チルから渡された草の束を捨てようかどうか迷った。草を嗅ぐと穏やかな気分になってくる甘くて、柔らかい不思議な匂いがした。
彼らの言っていたことを思い出す。チルは、私が適当に描いた竜の絵をこの草で買った。見た目は、乾燥した雑草にしか見えない、この草にどんな意味があるというのだろう?火に投げ入れて使うようなことを言ったが、私には馬鹿馬鹿しい蛮族の遊びに思えた。
私は、道沿いで野宿をすることにした。運がよければ、荷馬車が通過してくれるかもしれないと思ったからだ。火を起こし、暖かいお茶を作って、非常食のパンと魚の燻製を食べた。
絵の道具を置いていってくれたのは、幸いだった。私は眠くなるまで、チルとパシーバそして、あの狙撃手の人相を描いた。
かなりイメージが先行した絵になった。狙撃手にいたっては、牛追い帽とヒゲしか特徴をとらえることができなかった。
彼らの言動からいって、狙撃手とパシーバは、チルを中心にして動いているように見受けられた。チルの目は、とても奴隷の子供とは思えない輝きと鋭さがあった。狙撃手と話していた時の彼は、奇妙だった。港で働かされている蛮族の子供は、あんな目をしていない。
盗賊なのだから当たり前か。しかし、その鋭さに残忍なものを感じなかった。パシーバと狙撃手は、私が一歩でも動けば、殺す準備している雰囲気をしていたので、余計にチルが際立ったのかもしれない。私の描いたチルの目は、それを表現できていなかった。嫌になって、黒く塗りつぶした。
風が少し強くなり、焚き火の炎が大きく揺らめき、ぼうっと唸った。私は、あわてて、あらかじめ集めていた枝をくべて、火を強くした。
ひづめの音がする。波打っているので、複数の馬の音だ。私は、道が夜の暗闇に消える先を見た。すると、音がしなくなった。疲れているせいの耳鳴りだろう。
荷物を枕にして、もう一度チルの顔を描いた。今度は表情を入れてみる。私の竜の絵に笑みを見せる様を思い出して。
また、ひづめの音がした。次は地鳴りもしていた。立ち上がり、あたりをぐるりと見回した。一瞬にして、音も振動もなくなる。首筋から背中にかけての肌がじわりとあわだってくる。私は、言い知れない恐怖を覚えた。
私は、正気に戻るために首を振り回した。私の頭に、不意に浮かんだ疑念を掻き消したかった。そんなことがあるはずはない。私は、眠ってしまおうと、横になり目をつむった。
『ここの地の夜はとても危険です』、チルの改まった声が気になった。狼でもいるというのだろうか。
私は、手早く荷造りした。ボロにオイルをしみこませ、落ちていた木切れに巻きつけ、松明を作った。夜行性の動物が、寄り付きそうにない場所へ、寝床を移すべきだ。
山のほうへと進んだ。周囲を見渡せる高いところといえば、山しかない。なるべく町のほうに近づきたくて、西の山を目指して歩いた。方角は、天体を見て、ある程度はわかった。藪を掻き分け、一時間ほど歩くと山の傾斜にたどり着いた。
私は、安心して座り込めるところを探した。歩いていると、渇いた低い木の枝に松明を引っ掛けて、落とした。その拍子に火が消えた。オイルを含んだボロが燃え尽きてしまったのだ。松明を作り直そうとしたが、藪のおかげで荷物を広げにくい。とにかく開けた所を見つけたくて歩いた。
山を登っていたはずなのであるが、傾斜を踏みしめている感覚がなかった。かなり歩いたと思う。行けども、行けども葉の少ない木が立ち並んでいた。先は見通せない。夜の闇が濃すぎる。数時間前、歩き始めた時は半月の月明かりが降り注いでいたのに、今は隠れている。この忌々しい異国の木のせいだ。
私は、天を仰いだ。空は、星明りもなくなっていた。まるで暗幕が、空に張られているかのように息苦しく黒かった。頭上にあるはずの木の枝の影が、見えなかったのである。
暗がりのなか、自分の荷物を探った。なにか尋常ではないことが、私の身の回りに起こっている。早く松明をつけなくてはいけない。あせればあせるほど、私はマッチをどこにしまったか思い出せなくなった。荷物が地面に散らばり、暗さで何がどこにあるのか見当もつかなくなった。これでは、火を起こすどころではない。
散らばった荷物をかき集め、この藪から抜け出すために歩いた。かろうじて見える足元を頼りに突き進む。体に枝が当たらなくなり、藪から抜け出したと思った。私は、息が上がり、その場に座り込んだ。いまだ、天は黒く閉ざされていた。
息が整えられ、汗が引くと耐え難い眠気が、降りてきた。こんなところで眠ってはならない。山を登って、動物から身を守るのだ。しかし、この疲れきった体では、眠気を吹き飛ばすことはできなかった。
私は、眠ってしまったようだった。しかし、目覚めても、夜は明けていなかった。星明りも、まだ戻ってはいない。空が、分厚い雲に覆われているのだろう。
マッチを探し出して、火をつけ、懐中時計を見た。おかしい。チルたちが去ってから、もう十二時間以上時計が経っているはずなのに、夜が明けていない。時計の針は、盤の一番下を差しているが、白みはじめる気配もない。どういうことだ。
私は、夜が明けた後も一日中、眠りこけていたということか?そんなはずは、ない。これが、午前の六時でないとするのなら、夕方の六時か?それでも日が落ちきってしまう時間ではない。認められない。時計が壊れた。そう、もともと壊れていたのだ。
私は、真っ暗の中、おぼつかない手で松明をこしらえた。苦労して明かりをつけたはいいが、まわりは、何もかも真っ暗だった。私は、松明を振り回し、周囲を何度も見返した。距離感が把握できるようなものがどこにもなかった。どういうわけか、火の光が半径三メートルも差していかないのである。黒く塗りつぶされた空間が、目の前に広がっていた。
悪夢を見ているようだった。打ちひしがれ、声を上げあけながら歩いた。地面は、土であることはわかる。砂を踏んでいることはわかる。足音が鳴っている。しかし、周囲には何も見えない。風すら、そよがない。
「おーい!誰かいないかー!」
声がどこかで反響した様子もなかった。私は、走った。走る勢いで松明の火が小さくなる。消えそうなので、小走りする。じれったい。いまや、どの方角に向けて進んでいるのかもわからないが、なによりも、この暗闇から抜け出したい。
がむしゃらに走っているさなか、木の枝を騒がせる音がすることに気がついた。私は立ち止まって、喜んだ。誰かいるのか。
私は、松明をかざして枝の音のするほうを探した。獣のうなり声がする。狼だ。私は、銃を持っていない。
さっきよりも早く駆けた。火を守っている余裕などなかった。走る速度が遅くなるので、松明を投げ捨てた。障害物はない。見えない。なら同じことだ。追いつかれて食い殺される。それだけはごめんだ。私は、暗闇を走り続けた。
腰に縛りつけていた荷物が、太ももまで下がってきて、つまずき転んだ。背中に背負っていた荷物もぶちまけてしまった。息が上がって、立ち上がれない。振り向いても、狼の鳴き声はしなくなっていた。
荷物を拾おうと手探りすると、草の感触があった。私は、マッチを擦った。それは、地面に生えている雑草ではなくて、チルから貰った甘い匂いのする草だった。
『草の束を火に投げ入れて、眠れるまで目をつむって』
周囲に燃やせるものが何一つないので、食料を入れていた皮の袋と日記帳を少しずつやぶって、燃やし、焚き火をした。
チルの貰った草の束を丸ごと火の中に投げ入れた。もくもくと煙が出てきて、私はむせ返った。だが、しばらくすると、むせる事をもなくなって、安心感を覚えるようになった。身体が地面に引っ張られるような眠気がしてくる。
私は、日記帳に描かれた盗賊たちの似顔絵もやぶって、火に投げ入れた。チルの笑った絵は、とっておくことにした。
チルの顔を黒く塗りつぶした絵が灰になっていく。それを見ていると、うとうとと眠りに落ちた。
寝汗でまとわりつく服の気持ち悪さと喉のいがらっぽさで目覚めた。上には、真っ青な空があり、暖かい日の光があった。草むらの中に私は、倒れている。立ち上がって、周囲の場景を見渡してみた。どこもかしこも見覚えのない景色だった。ひどい頭痛がして、すぐに座り込む。
私は、悪夢を見ていた。夢と現実の区別のつかない鮮明な悪夢だった。そこは、夜が明けないところだった。懐を探って時計を見た。時計の針は、止まっていた。ネジを回し忘れていたのだ。そうに決まっている。
くらくらする頭で、その場に散らばった荷物の点検をした。私の記憶している限りでは、落としたものはなかった。しかし、日記帳の半分が破られていることに気づいた。破られたページのせいで日記帳の一番、最初がチルの人相書きになっていた。私は、草むらに身を放り出し、雲の流れを目で追った。
思いついて、荷物の中から、あの時、チルからもらった草の束を探した。どこにもなかった。それから、歩き回って、夢の中で起こした焚き火の後を必死になって探した。私は、自分がどこにいるのかさえわからなかった。どっちに行けば町なのだろうか。ここが異国の地であることは、確かだ。
私は、チルと出会って、馬と金を取られ、従者を殺された。その証拠が、このチルの笑った似顔絵なのだ。だが、草の束を燃やした火の跡は見つからない。私は、あの奇怪な夜の出来事をそれ以上思い出したくなくなった。
硬くなったパンと干し肉をかじり、ふらついた身体を元に戻そうとした。このまま歩き続けて、誰にも看取られず、野垂れ死ぬなんて考えられない。
こんな事になるとは、思いもしなかった。国内での旅の経験など、何の役にも立たなかった。あんなどこの馬の骨ともわからない衛兵を信用し、町の情勢も知らず、まんまと盗賊にたかられるとは、自分が情けなかった。
あの町の兵士は、私のような旅行者や新参者の商人をカモにして、蛮族をけしかけ、非合法な金の稼ぎ方をしているのだろう。兵隊は、治安の維持を請け負っているらしいから、すべては蛮族の悪行としながらも、口先ばかりの捜査を行い、その裏では私服を肥やしている。軍隊など、どこでも同じだ。占領地であるならば、何をしても許されると思っている。私は、身が熱くなるほど腹が立った。あの歯の悪そうな田舎衛兵を見つけて一発殴ってやらないと気がすまない。
しばらく歩き回って、山の中腹にいることがわかった。どこの山かは、まったく不明であるけれど、山であるならば、川が流れているはずだ。飲み水が、欲しかった。
高いところから、盗賊に襲われた場所の地形と現在地を照らし合わせるために、山頂を目指すことにした。中腹の草原は、気持ちがよくて、しばらく横になっていたい気分だったが、夜になる前に川を見つけたい。
森の茂みに沿って、山へ登っていると森の中から動くものの気配がした。小さな動物なら、捕まえてやろうと考え、小刀を出した。茂みに潜んで、獲物が降りてくるのを待った。
私の予想は外れた。気配の正体は、蛮族だった。一人は、真っ白い髭を生やした長髪の老人だった。周囲の様子など目もくれず、木々の間を進んでいる。子供が、一人、老人の後に続いている。
彼らは、私の知っている奴隷とはちがって、仕立てのいい衣服を着ていた。私の国の前掛けのついた僧侶の法衣のようだ。蛮族は、高度な織物技術を持っていると聞く。
彼らは、山のふもとの方へ降りていくようだった。山を越えれば、人がいるのだろうか。私は、自分の立場上、彼らと出くわすことをはばかった。イクストランに服従していない蛮族に見つかれば、吊るし上げられることだってありうる。彼らが過ぎ去っていくのを、息を殺して待った。
彼らの背を見送っている。気づかれることはない。安心して気を抜いたところ、肩になにか当たった。
「ベニ、ソンジェルポ」
突然、蛮族語が耳元で聞こえた。逃げようとして駆け出すが、茂みの中なので、足が枝に絡まり、その場に倒れ込んだ。
茂みをかき分け、立ち上がろうとする中、私の肩に触れた人間は、蛮族語を興奮した調子で言い続けた。それは、十才くらいの蛮族の女の子だった。嬉々として、茂みにからまった私の周りを忙しく飛び回っては、がやがやと言っている。
さっき見た蛮族の二人が、私の目の前にやってきた。私は、逃げ出すことをあきらめた。身動きが取れない私の目線に合わせて、老人が言った。
「異国のものか?」
私は、うなずいた。蛮族の女の子が、「ソンジェルポ」とまた言った。老人は、蛮族語で何か言うと、少年も少女も、私にからまった枝を解いてくれた。茂みからはい出した私は、自分が小刀を握っていることを忘れていた。気まずさで動けなくなった。
「敵意がないことはわかっている。それをしまいなさい」
小刀を腰につけたカバンへあわてて突っ込んだ。
驚いた。チルも、イクストランの言葉を流ちょうに話していたが、子供時分から教えられてきたことであると聞いて、納得したけれど、こんな高齢の蛮族が、自然な発音をしたからだ。彼は、私が立ち上がると同時に、腰を上げた。軽やかで洗練された動きだった。私も触発されて、荷物と衣服を正した。蛮族にも、こういった貴い雰囲気を持った人物がいるのか。
「ついてこい」
老人は、私に背を向けて歩き始めた。彼らも、私を敵視しようという気はない様子だった。
蛮族の女の子が、私の足元でうろちょろとした。男の子が、私から距離を取らせようと女の子の肩をひっぱっている。男の子は。私に対して警戒の目を向けているが、女の子は、怯えたふうなところがまるでない。むしろ、私を昔から知っているような素振りで、父を慕うように私の手を取って、無邪気に笑いかけ、「ベニ、ソンジェルポ」という言葉をしきりに私へ向かって発した。そして、なにか獣がうなるような真似をするのである。
少女がうなるたびに、少年が、蛮族語でなにか言っている。しかし、彼女は、少年のことをまったく意に介していなかった。少年に冗談めかして、狼のようなうなりをする始末である。
五時間ほど、口も聞かずに彼らと野を越え、山を越えた。彼らの歩調は、一定で足場の悪い山の傾斜でも、老人は、歩みを止めなかった。私は、彼らについていくのが精一杯だった。老人に連れられた子供でさえ、疲れて弱音を吐くことはしなかった。
私は、少女に尻を押されたり、腕を引っ張られていた。ついには、男の子の方も、私の腕を引っ張ってくれた。「面目ない」と、私が言うと、女の子が私をまねして言った。
「メーボキナ」
私は、頭ががんがんして、途端に息が、切れてしまう。子供たちは、山道を歩くことにとても慣れている気がした。
ようやく老人が足を止め、見据えた先には、テントのような住居が点在していた。中には木造の高い祭壇のようなものもある。山に囲まれた蛮族の集落だった。
我々が、集落へ近づくと、馬に乗った蛮族が、ナタを持って、横切っていった。私は、ぎょっとして、立ち止まった。老人が言った。
「わしの背中にぴったりついていなさい」
寄り集まった数名の蛮族が、我々を刺すような目で見ている。決して歓迎されているとはいえなかった。
蛮族が、放り投げた石が飛んできて、老人の肩や頭に当たった。老人は子供たちの背を押して、先に急ぐように促しているけれど、子供たちは、離れようとはしなかった。嫌がる女の子の頭を老人の大きな手が、覆っていた。少年は、威嚇するような声を集落の人々に上げた。
集落の入り口にいた人々は、我々を追ってはこなかった。老人の額には傷ができていた。私は、自分の手ぬぐいを老人へ差し出した。
村の中心を行くことは避け、端を迂回して、テントや建造物から離れた森へ来た。森の中の開けた場所にたどり着く。そこには、小さな木の小屋とテントが張ってあった。彼らの家らしい。ここに着くと、子供たちは、いつの間にか、どこかへ消えていた。夕暮れが、近かった。
老人は、私を小屋へ招きいれた。私は、多くの疑問を老人に対して問いかけたかったが、胸の内を整理できず、困惑して言葉が出せなかった。
「荷物を下げなさい」
集落の様子を思い、一つの結論が浮かんだ。
「私は、この村でよく思われていないようですね」
ここについてくるべきでは、なかった。彼らが、私を守ることでこの老人が集落の蛮族から悪く思われている。彼らが私をここに引き入れて、守る理由は見当もつかない。だが、老人は、集落の蛮族にいつしか私を引き渡すこともあるだろうと考えた。
「気にすることはない。連中は、何を見ても、あの調子だ」
老人は、木の桶の水に私の手拭をつけて、傷を洗った。
「わしを疑っておるな」
私は、荷物を降ろさなかった。柔らかそうな敷物が敷かれた横幅の長い椅子を勧められたが、座る気にはなれなかった。老人は、座った。
「私に何をする気ですか?」
「ソンジェルポ」
女の子が、小屋に飛び込んできた。桶に水を汲んできたようだ。私になにか話しかけている。何を言っているのか、わからない。
「手と足を洗えと言っている」
女の子は、木の小箱を持ち出して、老人の額にその中の緑色の薬を塗った。私は、荷物を降ろして、土間に置かれた桶で手を洗った。老人が、外へ行けのジェスチャーをすると、彼女は、すねたふうにして出て行った。
「ソンジェルポとは、なんのことでしょう?」
「お前のことだ」
「異国のものをそう呼ぶのですか?」
「違う。狼の夢という意味だ。わしは、お前をあの山まで迎えに来た」
老人の言葉を耳にするたびに頭の芯が疼くような気持ちの悪い感覚になった。
すこしだけ老人に一人にしてくれるように頼み。日没まで、外に出て、自分の混乱を沈めた。今まで起こったことのてん末を落ち着いて考えられるようになるまで時間がかかった。薪を割っていた男の子が、私を遠くから見張っていた。
夜になり、彼らの食事に呼ばれた。みんなして円形の囲炉裏へ集った。私は、老人へ言葉はどこで習ったのかと聞いた。老人は、口の中の芋を飲み込んでから言った。
「草を吸っただろう?」
「いや、私は、その言葉を誰から教わったのかと」
「お前の中に草の力が宿っている。わしは、お前の中にある草の力に呼びかけて、意思の疎通をしておる。わしは、異国の国の言葉を話せるわけではない。話し合っているように感じるだけなのだ。草をいつから吸っていた?」
私はまた、正体不明の頭痛に襲われた。頭の芯が響いてくる。
「私には、どうにも不可解なことが、多くて混乱しています。あなたが、私を迎えにきたというのが、あまりに奇妙なことでして。私がここへきたのは、始めての事であるし、知り合いもいない。そんな私をどうしてこんなふうに、もてなしてくれるのですか?」
「明日から、畑仕事を手伝ってもらう」
「そんな暇はありません。すべきことがあります」
「一人でいくか?」
「ほかに誰がいるのです?」
「無茶をするな。夜に取り込まれたであろう?」
「夜?」
「ああ、夜だ。お前が夜に取り込まれることをわしらは知っとった。この子に礼を言うんだな」
私の目の前に子供たちが、二人いる。老人が、女の子のほうを見ていた。何が言いたいのか、わからない。
「その子が、私に何かしたというのですか?」
「この子がお前のことを狼の夢と名づけ、お前のいる場所をわしに教えた。お前を守り、導くように。わしは、それに従った」
女の子は、芋にがっついていた。自分のことについて、話していると気づいているのか円らな瞳が、私を見つめている。
私は、昨夜見た夢のことを思い出していた。朝が来なくなる夢だ。そして、すっかり忘れていたが、狼に襲われる夢も見た。
「狼の夢…狼の夢を見た…夜が明けない悪夢の中で…」
「お前は、夜に取り込まれた。そうすると、心をとらわれて日の光の下に戻れなくなる。この子が、あの山にお前が出てくるとわかったのは、今回限りだろう」
「あの夢が現実だというのですか?」
「夜に現実も夢もありはしない。夜はあらゆるものに等しく黒い一日の半分だ」
「夜に取り込まれるなんて、そんなことが…私の国では、誰もそんなことは言ってなかった…」
気分が悪い。また頭痛がしてきた。
「ほかの土地のことはわからん。しかし、お前は運がいい。生きて、それを知る機会ができた。こうしてお前のすべきこととやらも行えるように」
「わからない。この子は、私のいるところをどうして知ることができた?夢のことをなぜしっている?私をどうするつもりだ?」
思わず声を荒げた。子供たちが、私を見上げてから、老人の顔をうかがう。
「顔色が悪いぞ。わしは、宿無しに飯を食わせて寝床を与える。今日はそれでよかろう」
私は、腹から上がってくる気持ちの悪さを何とか抑えようとしていた。もう数秒も持たないと悟って、小屋から飛び出した。
小屋の前にある茂みに駆け込んだ。怖気を奮う暗闇がそこにあった。家を飛び出したあたりでは聞こえていた虫の音が、茂みの前へくるとまったく聞こえなくなる。あの明けない夜への拒否反応があったが、怖さより、嘔吐感が勝っていた。私は木の根で思い切り吐いた。えずきせいで涙が止まらない。
小さな手が私の背にあった。私の肌が、ささやきとも言えないような微かな響きとして、少女の声を捕らえていた。『夜が迫ってくる』と。
私は、ぐったりとして、その場で横になった。私に触れる蛮族の子供から、優しさを感じた。
松明の明りが、近づいてくる。老人は、かたわらの少年に松明を持たせて言った。
「この子に借りばかり作りおって」
私は、頭痛で立ち上がれなかった。老人は、私の身体を背負った。
「草を吸っただろう?どんなふうにやった?聞かん事には、うまく診てやれんぞ」
やはり、老人が話すたびにずきずきしてくる。私は、耐えて話した。
「昨日、その…夜に取り込まれたときに草を燃やしました…」
「どのくらいだ?」
私は、老人の顔のそばに、手で丸を作った。
「…これくらいです」
「ばかもの!やりすぎだ!」