9.恋へのいざない その1
紗友子が大学生の時に場面はさかのぼります。彼女の過去とはいったい……。
紗友子は大学二年に進級した時、高校時代の親友の紹介で塾講師のアルバイトを始めた。地元の公立中学に進学する子供たちが学ぶクラスを任され、小学校六年生の子供たちとの触れ合いは、時に緊張し時に笑い声が溢れる理想的な授業風景を体験できた。
夏休みを前にして夏期講習のためにバイト学生が増員されることになった。塾長から新メンバーを紹介された時、その人は紗友子と目が合うなり、あ、と感嘆の声をもらしたのだ。
「もしかして、さゆちゃん?」
「堀田君?」
お互いに名を呼び合い笑みをかわす。次の瞬間、紗友子は突然目の前に現れた堀田に軽くめまいを覚えた。と言ってもそれは彼が眩しすぎてクラクラしたのであって、決して否定的な物ではなかった。
紗友子の隣にいた親友でありアルバイト仲間でもある箕浦志津ですらも彼を目にするなり、ほおーと唸る。あまりにも美形男子すぎて、言葉も出ないようだ。
すらりと長い脚にほどよく筋肉がついた上半身。その上に乗った小さめの顔が、今人気の売れっ子俳優二人を足して二で割ったとちまたで言わしめる、恐るべし完ぺきパーツで埋め尽くされる。
講師紹介として彼を広告に載せれば、世の母親たちがこぞってここの塾に子供を入会させるだろうことは、言うまでもない。
「ねえねえ、さゆ。さっきのあれ、いったいどういうこと?」
ショートカットがトレードマークの志津が大きな目をくりくりさせ、ドーナツ店のイートイン席で身を乗り出し鼻息も荒く訊ねる。いつもバイトの帰りにはこの店に立ち寄ることが多い。
「あ、堀田君のことだよね」
「うん、そう。彼ってまれにみる、すっごいイケメン。あんな人、今まで会ったことないよ」
あまり物事に動じない志津がここまで食いついてくることは珍しい。やはり堀田のイケメンオーラはそれだけ群を抜いているのだろう。
「でしょ? まさか同じ塾でバイトすることになるなんて、ホント、びっくりした」
「そっか、さゆは彼が来ること知らなかったんだ。でもさ、何なの? さゆと堀田君、なにげに仲良さそうだったし」
「そんなことないって」
顔の前でひらひらと手を振りながらも悪い気はしない。堀田に名前を憶えてもらっていたことが何をおいても嬉しかった。まさしく奇跡だ。
「なんかショック。さゆとは高校時代からなんでも包み隠さず語り合う仲だったじゃない? なのに、私の知らないところであんなイケメン君と知り合ってるし。ちょっぴり疎外感……」
志津の口先がとんがり、子どものように拗ねている。
「志津ったら、考えすぎだってば。ほら、私さ、アウトドアサークルに入ってるでしょ。でね、堀田君の所属してるサークルと連携してるの。うちは女子大じゃない? だから堀田君が通ってるB大学の野外活動サークルから一緒にキャンプしようって誘われて、それ以来、合同で活動することが多くて」
「ふーーん、そうだったんだ。うちは共学大だけど、あそこまで光り輝くようなイケメンにはお目にかかったことはないし。ねえねえ、彼ってやっぱ、もてもて?」
「多分ね」
「多分って、情報はないの?」
「ないよ。だって彼とは今まで三度ほど一緒に活動したけど、個人的には何も関わりがないもの。でもまあ、うちの女子大の先輩方も含めて、ざっと十人ほどは彼を狙っているみたいだけどね」
「じゅ、十人……。で、さゆは? さゆは彼狙いじゃないの?」
「素敵だな、とは思うけど、私なんか相手にされないって。それにね、B大の女子軍団ががっちりガードしてるから、そう簡単に近寄れないし」
志津はなかなか痛いところを突いてくる。もちろん紗友子も他のメンバーたちと違わず彼へのあこがれはちゃっかり抱いている。けれどそれだけのこと。遠くから眺めているだけで十分だった。
学生の間はあまり派手な男女交際はしないと決めている。両親もお見合い結婚だし、時期がくれば友人に相手を紹介してもらうのもありだと思っていた。そして、将来小学校教師になれたならば、同じ志を抱いた同僚と結婚するのもいいな、などとおぼろげながらに夢を描いてもいた。
「相手にされないとか、またまたそんなこと言っちゃって。さゆってば、あまり周りが見えてないみたいだもんね。あのさ、柏木塾長なんだけど。彼は絶対にさゆのこと好きだよ。立場上、ぐいぐい押してはこないけど、塾長の視線の先にはいつもさゆがいる。私の直感は当たるんだから」
「そんなこと、考えたこともないし」
寝耳に水とはこのことだ。柏木塾長は確かにいい人だけど、それ以上の感情は持っていない。それに彼からの視線など全く気づかなかった。というか、志津の勘違いに決まっている。
「ほらほら、そう来ると思った。さゆはニブちゃんだからさ。塾長ったって、まだ二十七歳。十分射程範囲内だよ」
「んもう、志津ったら。やだ、からかわないで」
「今はあっついあっつい夏だけど、さゆの周りはポカポカ春爛漫だよね。そうだ、私の直感だけど……」
「で、志津さま。今度は何の直感?」
「ふっふっふ……」
志津の目が何かを企んでいるかのように、きらりと光る。何なんだ、この含みを持たせた間は。
「さゆはね」
「だから、何?」
「堀田君と」
「堀田君と?」
「くっつく」
「へえ、そっか。……って、何言ってるの? 冗談はそれくらいに」
「冗談なんかじゃないよ。うふふふふ。私の直感、ここんとこ、外れなし」
まさかそんなこと、あるわけないし。と思っていたのもその日まで。翌日からの急展開に、とうとう紗友子は志津の直感を認めざるを得なくなってしまったのだ。