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それはイブの夜に  作者: 大平麻由理
一時間目 始まり
7/33

7.もう恋はしない その1

「もうすぐ終業式だけど。あゆみ(通知表)の方、はかどってる? と言っても、林田さんに限って、そんな心配はいらないよね。いつも仕事が早いから感心しているんだ」

「そんなことないです。所見の入力がまだ完全じゃなくて。明日は完成目指して頑張ろうと思ってます」

「そうなんだ。君のことだからもう全部出来上がってるって思ってた。ちょっと安心したよ」


 そう言って向かい合った席でコーヒーカップを手にした植山が目を細めた。

 あと、出席日数の記入などは終業式ぎりぎりまで未確定なので、児童の手に渡るその日まで気を許せない作業でもある。


「僕はどうもパソコン入力が馴染まなくてね。やっぱり手書きのあゆみの方が(しょう)に合ってる気がする」

「でも手書きって、大変じゃないですか?」

「僕が新任の頃はそれが普通だったから。そっか、林田さんが教師になった時には、もうパソコン入力だったんだね」

「はい、そうです。けど、子供の頃にもらった成績表に先生の手書きの文が添えられていたこと、今でもよく憶えています。成績は振るわなくても、所見の一言で救われたこともありました。手書きって、厳しい内容でも不思議と温かさが伝わってくるんですよね」

「うん。そうなんだよ。でも時代は確実に流れてる。たとえ印字された文章だったとしても、相手に心が伝わるよう表現力を磨けばいいだけの話なんだけどね」


 彼の言いたいことがストレートに伝わってくる。

 クラスの児童が提出したノートやプリントに、朱色のコメントがぎっしり埋まって返却されていることは以前から気が付いていた。彼の赤ペンの消費率は、他の誰よりも群を抜いている。

 最初は植山の細やかなコメント見たさにノートを提出していた子どもたちも、今では自主的な学習方法が身に付いたのか、確実に学力が伸びているのがわかる。紗友子はそんな彼の指導法をこっそりと見習って真似てみるのだが、まだまだその域には達していない。


「もうすぐ冬休みだけど」

「え? あ、はい、そうですね」


 突然話の内容が変わり、紗友子は脳内の思考領域の切り替えに戸惑った。


「ごめん、急に話が変わって申し訳ない。さっきも言ったけど、ついつい自分ばかり話してしまう。本当は林田さんの話も聞きたいんだけど、どう切り出したらいいのか、わからなくて」

「はい……」


 彼が器用に立ち回れないことくらい、百も承知だ。けれど彼なりに紗友子に気遣ってくれていることはひしひしと伝わってくる。

 こちらから聞きたいことは山ほどあるのだが、紗友子から彼に話すことは何があるのだろう。冬休みの過ごし方をかいつまんで話せばいいのだろうか。去年は高校時代の友人と温泉旅行に行った。今年はまだ何の予定もたっていないので何をどう話せばいいのか困ってしまう。


「旅行とか、行くの?」


 やっぱりそう来た。けれどこの質問は紗友子にとって願ったり叶ったりの問いかけになる。彼に同じ質問を返せば、必然的にどこに誰と一緒に行くのかなどを自然に聞き出せる状況になり、彼女の有無がはっきりするからだ。


「旅行は毎年行ってるので今年も行きたいです。でも……。実はまだ何も決めてなくて。今からじゃ、どこもいっぱいですよね」


 紗友子は正直に答えた。残念ながらいつも一緒に旅行に行っていた友人の結婚が決まり、それどころではなくなったのだ。新居の準備や親戚への挨拶などスケジュールがびっしり詰まっているようで、年末に会うことすら約束できていない。


「そうだね。今からだと厳しいかな。年末年始は早めに予約しないと、新幹線とかもいっぱいになるしね」

「ええ。去年は十月くらいに予定を立てて、友達と温泉に行ったんです。ゲレンデが近かったので、ちょっとだけスキーもしました。先生にスキーに行ったなんてことを話すのは、なんか恥ずかしいですけど」


 プロ級の腕前の彼にスキーの話をするのは気が引けたが、程度の差はあれ、趣味が同じだと言うアピールになったかもしれない。


「へえ、スキーもしたんだ。そっか。ならさ、来年の春、一緒にスキーに行かない?」

「一緒にスキー、ですか?」

「うん。長野、新潟あたりなら、春スキーも楽しめるし」

「そ、そうですね……」


 まさかいきなりスキー旅行の誘いが来るとは思わなかった。思いもしない急展開にたじろぐ。だがここで早合点をしてはいけない。彼と二人きりの旅行だとは限らないからだ。他のスキー仲間も交えてのグループ旅行である可能性も捨てきれない。

 まだ何も決まったわけではないのだから、ひとまず彼の出方を冷静に窺うことが先決だと思い直す。


「あ、変なこと言ってごめん。スキーの話になると、つい後先考えられなくなってしまって。林田さんだっていろいろ都合があるだろうし、それに……」

「それに?」


 せっかく誘ってくれたのに、即撤回なんて信じられない。全然変なこと言ってないし、都合なんて何もないし。

 お願いです。僕と一緒にスキーに行こうって、もう一度言って下さい。

 紗友子は目の前にぶら下がっているチャンスカードをつかもうと、必死に手を伸ばしていた。


「あの、その……。林田さんの、彼氏……とか」

「え? 彼氏、ですか?」

「うん。付き合っている人がいるなら、一緒にスキーなんて無理だよね。っていうか、林田さんほどの人に彼氏がいないわけないし。本当にごめん。林田さんが僕なんかとスキーに行くなんて、もともとありえないことだから。このことは今すぐに忘れて」

「植山先生、それは誤解です。わたし、彼氏なんていないし。だから、先生と一緒にスキーに行きた……」


 スキーに行きたいです、連れて行って下さい、と言うつもりだった。けれど、最後の言葉を呑み込んでしまった。彼のことはもうすでに気になる存在だし、彼とのスキー旅行に期待する自分がいるのも事実だ。久しぶりの胸の高鳴りに一歩踏み出せそうな気持になったのは、単なる思い違いだったのだろうか。

 多分、過去に紗友子に降りかかったあの出来事が、この期に及んで彼女の決断を鈍らせるのだ。

 そうだった。もう二度と恋はしないと決めた、あのことが。



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