6.あっさりこっくり その2
今まで知らなかった彼が次々と姿を現す。なんだか今夜はおもしろいことになりそうな予感。
髪はぐしゃぐしゃで、よれよれジャージを身につけている彼だけど、結構頼もしくていい人に見えてくるから不思議だ。
一緒に仕事をするようになって三年。いったいこれまで彼の何を見ていたのだろう。いや、見ようとしていなかっただけなのかもしれない。
この店のラーメンは植山の言うとおりとてもおいしかった。そして、前店舗での営業期間も併せると創業三十五年の伝統を誇る店内は、まだ新しいにもかかわらず、店のコンセプトにしっくりとなじみ、こざっぱりとしていて清潔感もあり、広さも大きすぎず狭すぎず、初めて入る人間にとってもちょうどいい空間のように感じた。
五人の店員がそれぞれの役割をしっかりと担い、動きに無駄がなかった。威勢だけが取り柄の他店とも違い、自然で誠実な客への応対に好感が持てる。
まず、スープを飲んでみた。添えられているレンゲは使わず、ラーメン鉢を両手で持ち上げ、鉢から直接飲んでみる。ふうふうと息を吹きかけ、表面だけ冷ます。まだ熱いけど、ひとくち、ふたくち……。ああ、なんておいしいのだろう。
紗友子は今までに味わったことのない不思議な感覚に引きずり込まれていく。あっさりとさらさらしたスープが空腹の胃を優しく満たしていった。
次に麺を味わい、チャーシューも食べてみる。細めの麺はちょうどよい硬さで、どれも好みの味だった。次第にスープのこくが増していく。芳醇なうまみが口内に広がり、なるほど、これがあっさりこっくりなのねと妙に納得してしまった。実際食べてみなきゃわからないとはよく言ったものだ。
ここでも彼はよくしゃべった。仕事の事や一人暮らしの苦労話、趣味のスキーのことなど今まで知る由もなかった彼の日常が明らかになっていく。
前年度の三学期にあった五、六年生合同のスキー合宿で見た限り、かなりの腕前だとは思ったけど、公認スキー指導員の資格まで持ってるなんて、今まで知らなかった。
その上、アルペン種目で国体候補にまでなったと聞いた時には、カウンターの高めの椅子から転げ落ちそうになるくらい驚いた。そうとわかっていれば、子どもたちにも公表したのにと悔やまれる。
「なんか、さっきから僕ばっかりしゃべってるね。ごめん。僕の話なんかどうでもいいよね。林田さんがあまりにも聞き上手だから……」
「いや、聞き上手とかじゃないです。ホントに先生の話がおもしろくて、びっくりで。このままずっと聞いていたいくらいです」
お世辞でもなんでもなく、本当にそう思った。もっともっと彼の話を聞きたかった。けれどラーメンはもうすでに空っぽになっている。食事をするという目的は達成したので、もう一緒にいる理由はないのだが、彼と離れるのが辛いのは隠しようのない事実だった。
じゃあ今夜はこれで、また明日、なんてあっさりと別れてしまうことは、今の紗友子には到底受け入れられない。まだまだこっくりと彼との会話を楽しみたい自分がいた。
できることなら、今現在付き合っている人がいるのかどうか、はたまた彼の恋愛観なども知りたくなってしまう。
「先生、今、彼女とかいらっしゃるんですか?」 とストレートに訊きたいところだが、それはあまりにもデリカシーがないというか、空気を読まなさすぎというものだ。
これまで何年も一緒に仕事をして過ごした時間も長いにもかかわらず、全くその手の話には触れたことがない。それなのにいきなりこの質問では、本日絶賛饒舌会話中の植山でもドン引きしてしまうかもしれない。さて、どう切り出したらいいものか。
「じゃあ、次は林田さんの番だよ。君のこと、実はよく知らないと思うんだ。もちろん、仕事中の教師としての林田さんはそのまま理解できてると思う。けど、趣味のこととか、その……」
突如彼が口ごもる。趣味のこととか、その……何だろう。
「ん……。そうだ、そろそろここを出て、信号二つくらい向こうにコーヒー店があるから、今からそこに行かない? あ、でもこんな時間だね。大丈夫?」
時計に視線を移した彼がそんなことをいう。こんな時間と言ってもまだ大丈夫だ。家にも連絡さえ入れておけば、多少母親からぶつぶつ言われても問題はない。
「大丈夫ですよ。全然!」
そんなの大丈夫に決まってるじゃないですか、と何度も言いかけて思わず口をつぐんでしまった。だって、深夜に男性にお茶に誘われてホイホイ着いていく女性って、どうなんだろう……とマイナス思考が脳裏をよぎる。こいつ、意外と軽いじゃん、なんて思われなかっただろうか。
「そうと決まったら、早くここを出よう」
紗友子の不安をよそに、素早く会計をすませた彼が再び車に乗り込んだ。
「先生、あの、私のラーメンの代金」
助手席に座るや否や、隣のやたら陽気な人に千円札を渡そうとしたのだが、彼はにっこり微笑んでいいからいいからと言うばかりで一向に取り合ってくれない。
「そういうわけには……」
などという紗友子の返答もむなしく、受け取り手を見失った千円札はそのまま紗友子の財布に舞い戻った。
「誘ったのは僕。だからそんなのは気にしないで」
「あ、ありがとうございます。ごちそうさまでした」
男女に限らず、あるいは恋人同士であったとしても他人にお金を出させることに馴染めない紗友子だったが、今回だけは彼の好意に甘えさせてもらおうと素直にそう思った。
ぺこりと頭を下げた時にはもうすでに車は次の目的地に到着していて、駐車場の狭いスペースに見事なハンドルさばきで車を停めている。
「着いたよ」
彼の声が紗友子の耳に心地よく響く。車外に出た瞬間、十二月の冷たい風が頬をかすめたけれど、心の中はぽかぽかと温かかった。