5.あっさりこっくり その1
インターに到着した時、すでに十時近くになっていた。この付近の店はほとんどが深夜も営業している。幸い閉まってしまう心配はまだないので、仕事終わりが遅くなった人たちにはありがたい一角だ。
「林田先生は何が食べたい?」
急に訊ねられてびっくりした紗友子は、思わずありがちな定番ワードを発してしまった。
「な、何でもいい……です」と。
植山も意外な返答に驚いているようだ。というのも紗友子は、これまでは植山を前にすると、しっかりと自己主張をしていたように思う。それで結果的に仕事の割り振りが増えたとしても、引き受ける覚悟はあった。学年の話し合いでも自分の意見を述べることは多かったし、そうすることで植山一人に負担がかかるのを回避していたようにも思う。
紗友子までもが木津と平木のように植山を必要以上に持ち上げ、すべてお任せしますというスタンスを見せたなら、彼が全部仕事を請け負っていたかもしれない。いや、間違いなく彼は一人ですべての仕事を抱え込み、責任を全うしていただろう。
たとえ気の利かない鈍感タイプの植山であっても、むやみに仕事をなすりつけるのは紗友子の良心が許さなかったのだ。
学年担任の皆で連れ立って食事に行っても誰に左右されることなくメニューを決めるのは当然のこと、皆の注文も取りまとめるのが紗友子の立ち位置だった、はずだ。
なのに、なのに……。
よりによって一番嫌いな他人任せなワードを口にしてしまうとは。
「林田さんが何でもいいなんて珍しいね。仕事が夜遅く長引いた時の夜食の注文も、てきぱきと取りまとめてくれるのに。なんだかいつもの林田さんじゃないみたいだ」
まるで珍しい生き物でも見るかのように紗友子に視線を向けて植山はつぶやく。でもそう言う彼もいつもの植山でなはない。具体的に何が違うのかはわからないが、次第に違和感だけが募っていくのだ。
もしかして。林田さん、と先生をつけずに呼んでくれたからかもしれない。
年下の紗友子に対して、植山はいつも敬語で話しかけてくる。名前を呼ぶ時も「林田先生」と常に仕事上の義務的な関係しか匂わせない淡々とした言い方だ。
職場を離れると、同期や先輩の先生方からは、さゆちゃんと呼ばれることがある。クラスの児童からもさゆちゃん先生と親しみを込めて呼ばれたことも少なくない。けれど当然ながら、彼の口から言われたことは一度もない。
まあ、逆立ちしようが嵐が吹き荒れようが彼がそんな風に呼ぶわけもなく、苗字でさらっと呼ばれただけでも進歩なのだが。
でも今一瞬、彼から「さゆこ」と呼ばれてみたい気持ちになったのには正直びっくりしてしまった。
「じゃあ、ラーメンでいい?」
彼からさゆこと呼ばれる場面を想像して身もだえそうになった時、思いがけない提案が飛び込んでくる。
「あ、はい……って、え?」
えええっ? 初めての二人っきりの食事がラーメンだなんて……などと、何でもいいと言っておきながらも心の中で反論の突込みをいれてしまった。
別にラーメンが嫌いなわけではない。むしろ好物だったりする。が、しかしだ。ちょっぴりいいムードの二人がラーメンでは、盛り上がるものもしぼむしかないだろう。
ちゅるちゅると吸い上げたラーメンのはしっこが左右に暴れて、スープがあたりに飛び散ってしまうかもしれない。歯の間に青ネギがくっついて恥ずかしい姿を見せてしまうことだってある。
そんな複雑な乙女心など全く意に介しない彼は、やっぱり植山以外の誰でもない、と思ったのもつかの間。
「あそこのガソリンスタンドの隣のラーメン屋、去年別の場所から移転してきて、結構いけるらしいよ。ネットでラーメン部門ランキングで市内一位になってた」
「そ、そうなんですか?」
「うん。でね、チャーシューがこれまた半端なくうまいんだって。スープもあっさりこっくり。なんか気になるよね」
などと得意げに情報を並べ上げる。なんだ、ちゃんと調べていたんだ。
あっさりこっくりって、これまた矛盾する二つの食味を満たしているスープなど、意味がよくわからないけれど、彼の情報によれば有名な店らしい。ネットの人気ランキングで市内一位だってことももちろん知らなかった。
ならば、少々のリスクは我慢して、行ってみてもいいかなと思い始めたその時だった。
そうだ、これよ、これだったのよ!
さっきからモヤモヤしていた理由が、今、はっきりとわかった。
彼が敬語を使わずに普通に会話しているのだ。
勤務し始めた当初は年下の紗友子に対していつ何時でも敬語を使う彼の姿勢が誠実に思えて、好感を持っていたくらいだったが、年月を経てもそのスタンスは一切変わることはなかった。
仕事を離れた雑談の場面でも彼との距離が一切縮まることがなかったのは、この敬語のせいだったのかもしれない。
さっきから、普通に話している。堅苦しい会話はどこにも見当たらない。それどころか、学生時代からの仲間のような親しみすら感じるではないか。
彼との間に横たわっていた厚い壁が、すーっとどこかに消えていくのを紗友子ははっきりと感じていた。