4.アオキ その2
「あの……。ところで、お腹空かない?」
もちろん、空いてますよ、いったい今何時だと思っているのですか……ってこの展開。一緒に食事でもどうですかと誘われているのも同然だ。彼の私生活に思いを馳せ、不覚にもどきどきしてしまった直後に食事の誘いともとれる言葉をかけられ、またもや胸が高鳴ってしまった。
あの植山を相手に、どうしてこんなに平常心でいられなくなるのか、自分自身が信じられなくなっていく。
落ち着け。落ち着くんだ。この甘い声の主は、あの植山達樹だ。素敵な歌手のアオキでもなければ、学生時代にあこがれていたスタイリッシュな先輩でもない。
紗友子はふうっと息を吐き、肩の力を抜いた。とにかく冷静になるんだと言い聞かせる。
で、彼と二人で食事などというのは、どう考えても想像すらできないありえないシチュエーションではないか。でも、まだ誘われたわけではない。世間話の一環で、空腹をネタに話題を広げようとしただけかもしれない。きっとそうだ。
「す、空いてるっていうか、そ、その……なんていうか……」
だめだ。いつものようにきっぱりと言い切ることが出来ない。
「そんなの当然じゃないですか。今何時だと思っているのですか? めちゃくちゃ空腹ですから。早く家に帰って母の作った夕食が食べたいです」と言えばいいものを、頭ごなしに断ってはあまりにも植山が気の毒ではないかと小心者になってしまう。同情は禁物だが、思わせぶりな態度もよくない。
ああ、どうすればいいのだろう。結局のところ彼の誘いを拒否できないのは、それを待ち望んでいる自分がいることに気づいたからかもしれない。
認めたくはないが、彼との二人っきりのこの空間から逃げ出したいと思わない自分に驚きを隠せなかった。
「あのさ、君んちの近くのインター付近に、いろいろ店があるよね。そこで晩飯食おうよ。帰ってから作るのもめんどくさいし、一人で食うのも……ね」
「ね」って同意を求められても、紗友子の場合、両親と双子の妹と同居しているせいもあって、一人っきりの晩御飯はあまり経験がない。
ああ、そうか。この人は一人暮らしだから寂しいのだ。相手が紗友子であってもそうでなくても、手近な誰かを誘って寂しさを紛らわせているに違いない。変な勘違いで妄想に拍車をかけていた自分が恥ずかしくなる。
そんな理由なら、たまには同僚と夕食を共にするくらいはいいか、と思い直す。
なんと言っても今夜はこうして家まで送ってくれるんだし、先輩の申し出を無碍に断る事も出来ない。さっきの職員室での怒りはこの際封印することにして、彼の意向に従おうと決めた。
「じゃあ、一緒に……」
「え? 本当? 一緒に店に行ってくれるの?」
「ええ、まあ……」
「こんな僕と一緒で、ホントにいいのかな?」
紗友子はフロントガラス越しに差し込んでくる対向車のライトを視界の一部に収めながら、こくりと頷いた。
「よし! そうと決まれば、目的地に直行だ。やったな!」
やったな? 何それ。子どもみたいだ。はしゃいでいるような彼の言動に目を丸くした。そして気付かれないように横で運転している人物をそっと盗み見る。
するとどうだろう。植山ときたらにこにことさも嬉しそうに微笑みながら、アオキのメロディーに合せて鼻歌まで飛び出す始末だ。
それにハンドルに添えられた右手の人差し指は、音楽に合せて軽くリズムまで刻んでいるではないか。
えっ? 待って。植山って、こんな顔立ちだったのだろうか。初めて見たわけではないのに。いつも隣の席で彼を見ていたはずなのに、その横顔が別人に見える。
あんなに鼻が高かったっけ。それに涼やかな目元にくっきりした眉。相変わらずヘアースタイルはなんとも形容し難い乱れっぷりだけれど、日焼けしたその横顔は、紗友子の目を釘付けにするのに充分なほどかっこよく見えた。
そんなことなどあるはずがないと、必死になって頭の中に駆け巡る彼への賞賛事項を打ち消そうとするけど、自分の意思ではもはやどうすることもできない。
念のためもう一度見てみると、突然こっちを向いた彼とおもいっきり視線がぶつかってしまい、はっと息を呑んだ。
向こうも慌てて視線をそらせる。お互い黙り込んだまま、アオキの音楽だけが耳をかすめる。
君と出会った日、それは人生最高の日さ。もう君なしではいられない。イブは君と二人で過ごす大切な日……。
今のこの場にふさわしいのかそうでないのか、微妙な歌詞がゆっくりとしたアルペジオにのって流れていく。
奥二重で黒目がちな植山の瞳に、紗友子の心は一瞬にして鷲づかみにされてしまったのだ。
これって、もしかして……。
恋に落ちてしまったのだろうか。
最後に恋をしたのは大学生の時だった。バイトをきっかけに仲良くなり、将来の結婚まで約束した恋人がいたが、就職を前に別れてしまったという悲しい過去を持つ。
新しい恋に臆病になっていた紗友子にとって今の状況は、大事件とも言えるくらい想定外の出来事だった。