3.アオキ その1
植山の車は学校北門付近の校舎裏手に停車していた。
シルバーグレーのスポーツカータイプのそれは、いつ見てもまるで彼に似合わない。ともすれば仮装の小道具のようにさえ見えてしまうほど違和感があった。
乗せてもらうのは初めてではない。研修で他校へ出向いた時などに、何度か同乗させてもらったことがある。ただし二人っきりではなく、他の先生も一緒だった。
普段はバスと電車で通勤しているはずなのに、今日はどうしたというのだろう。どこかへ出向く予定もなかったはずだ。
もしかして、寝坊でもしたのだろうか。それならば納得できる。今朝のいつもより派手に跳ね上がった寝ぐせを思い出すと、慌てて車を走らせて通勤してきたのだろうと予想がつく。
毎日仕事も持ち帰っているようだ。職場では学年の仕事をすべて請け負い、担任としてクラス業務は家でやっているのだろう。
小テスト作成に教科の指導研究、三学期の授業計画など、山のような業務が次々と押し寄せる。夜はちゃんと眠っているのだろうか。食事はきちんと取っている? 何か息抜きは? ……あれれ? またもや何を考えているのだろう……。
紗友子は頭をブルンブルンと振り、邪念をはらい落とす。隣の迷惑男に何を同情しているのかと自分をいましめた。
植山にうながされるまま助手席に乗り込むと、車内にアオキの歌声が静かに響き始めた。バラードが絶品の邦人歌手アオキのクリスマスソング限定アルバムだ。
男性にしては高音なその甘い声にメロメロになる女性ファンは多い。何を隠そう、紗友子もその一人だったりする。
「先生はいつもアオキを聴いていらっしゃるのですか?」
黙ったままでいるのも気まずいので、当たり障りのない話題をふってみる。
「うん。よく聴いている方だと思う。アオキはデビュー当時からファンなんだ。声もいいけど、それよりも彼の曲想が好きだったりする。このアルバムは定番のクリスマスソングが中心だから彼のオリジナルは少ないけど、今一番気に入っているかもしれない。林田先生もアオキを聴くの?」
「え、ええ……。まぁ……」
な、なんで? この男、アオキが好きなんだ。まさか同じアーティストのファンだっただなんて、本当に今の今まで知らなかった。
お互い同じアーティストのファンだとわかれば、もっと盛り上がってしかるべきなのだけど、なにせ相手は植山だ。彼と同調しなければならないほど友人に不自由はしていない。
車だけでなく、好みの音楽まで彼に全くそぐわないと思ってしまう。植山なら、七十年代のフォークとか地味目な洋楽ってイメージだ。
いやフォークや洋楽が悪いと言ってるわけではない。紗友子にとっても、現にいいなと思う曲がいくつかある。
ただ彼の場合、父親世代の趣味嗜好と重ね合わせてしまうだけのインパクトを常日頃放っているのだからそう思われても仕方がないのだ。
いつの間にか駅を通り越し高速のゲートをくぐっていた。
ETCのバーが目前に迫り、このままぶつかったらどうしようなどとありえない想像をしながらも難なく通り抜ける。
予想もしていなかった成り行きに少し慌てる。
「あの……植山先生? すぐそこの駅でよかったんですけど……」
電車に乗れば一時間ほどで住んでいる町の最寄駅に着く。駅からは自転車で十分ほどだ。学校から駅までバスの乗車時間も入れると、トータルで一時間半もかかるけれど、慣れればそんなに苦ではない。
高速道路に入ったということは、本当に家まで送ってくれるつもりなのだろうか。それに、たとえ高速を走っても五十分くらいはかかってしまう。ただの同僚でしかない相手にそこまでしてもらうのはやはり気が引けるのだが。
「気にしないで……。君の家まで送るよ」
「でも、私の家、かなり遠いし。先生の帰宅時間が遅くなりますよ」
たぶん、車なら二十分もかからない場所に住んでいると思われる植山が気の毒になる。職場で隣に座る怒りんぼの後輩を自宅まで送っても、彼にとっては何のメリットもない。
「いいから。たとえ君の家が地球の裏にあるとしても送るつもりだから、というのは嘘にしても、君にはいつも迷惑をかけてばかりだから。お詫びのしるしにこれくらいさせてよ」
「お詫びって、書類が崩れたさっきの件ですか?」
「そう。それ以外にもいろいろ世話になってるから」
「いや、違うんです。私、そんなつもりで怒ったわけじゃ……」
「わかってるよ。普段の林田先生はいつも穏やかで笑っている。そんな先生にあそこまで言わせてしまった僕が至らなかったんだ。こんなことで許されるとは思ってない。でも今の僕にできることはこれしかないんだ。運転するのは嫌いじゃない、というか、実は楽しくてしかたない。もし君さえイヤじゃなければ、ドライブだと思って、少しの時間付き合ってくれないかな」
いったいこの人は、何を言っているのだろう。というか、本当にあの植山なのだろうか。紗友子は返事をするのも忘れて、今彼が言ったあれこれを脳内で繰り返していた。
「林田先生、大丈夫?」
「え? ああ、わかりました。なら、今夜は甘えさせてもらいます」
ドキッとした。ほんの一瞬だけこちらを向いた彼が発した声が、紗友子の耳にダイレクトに入ってくる。とても甘い声だった。そんなことがあるわけがないのに、紗友子の心音がわずかばかり早くなるのを感じていた。