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それはイブの夜に  作者: 大平麻由理
一時間目 始まり
1/33

1.こぼれたコーヒー その1

 隣のデスクから雪崩(なだれ)が押し寄せて来たのは何も今日が初めてではない。昨日その書類の山がついに九合目に達したのは知っていた。ひと月前にはなだらかな丘陵程度の重なりだったのに、今回の成長は目を見張るほどのスピーディーさだった。

 十合目、つまり限界の高さまであと数日かかると踏んでいた予想は大幅にはずれ、お気に入りのキャラクターが真ん中に描かれたマグカップをまき込みながら、ドドドドっと紙の山が崩れてこちらに迫ってきたのだ。


「あぁぁぁぁぁぁ……」


 まるでスローモーションの世界。

 ほんの数秒間の出来事が何十秒もの長さに感じ、今もなお冊子や書類がズルズルとこちらの領域になだれこんで来る。

 マグカップのコーヒーが残りわずかだったのは不幸中の幸いだけど、誕生日に同期の花山千佳からもらったタオル地のハンカチが書類の下で琥珀色に染まっているだろうことはもう間違いない。

 めらめらと怒りの炎が瞳の中に揺れ動くのを自らはっきりと悟る。こんな状況でも何も言わず黙っている人がいるならすぐにでもお目にかかりたい。


「もぉーーーっ! 植山先生。いい加減にして下さいっ!!」


 気の長いおっとりした性格だと全職員から認識されている紗友子(さゆこ)であっても、今回ばかりは完全に堪忍袋の緒が切れた。

 せっかく苦労して完成した冬休みの保護者だよりの原稿も、書類の下敷きになってしまったノートパソコンのキーボード部分を見る限り、画面から消えてしまっていてもなんら不思議はない。

 こんなことなら、早めにバックアップを取っておくべきだった、と悔やんでみても、もう遅い。……後の祭りである。


「す、すみません。またやってしまった……」


 ポリポリと頭を掻きながら、本日の迷惑事件首謀者がありきたりの謝罪の言葉を口にする。ところがその同僚の男は紗友子の顔をちらりとも見ることなく、ただひたすら崩れた書類をガサゴソと彼の手元に寄せ集める。


「あ、その一番下の書類は私のですけど!」

「えっ? あ、そうか。これは先生のでしたね。たびたび、すみません」


 あわてて下部の書類を抜き去り紗友子の机に置くと、彼の手にがっしりとつかまれた紙の塊が、再び無造作に積み上げられていく。立てかけているファイルに整理するわけでもなく、必要のない文書を廃棄するわけでもない。そのまま彼の机に並行移動しただけといえば理解してもらえるだろうか。

 やっと目の前がすっきりしたと思ったのもつかの間、ちょっと待って欲しい。確かに書類はすべて彼の定位置に戻された。が、しかし。

 こぼれたコーヒーや保護者だよりのデータの消滅はそのままま知らないふりを決め込むつもりだろうか。まさか、そんな事実すら気付いてないとか。

 一瞬沈静化したはずだった怒りの炎が、またもやめらっめらっと紗友子の脳裏に立ち昇る。

 なんてことだろう。この隣人は、こんな簡単なことをいちいち説明しないとわからないのだろうか。


「あのですねぇ、植山先生」


 紗友子は背筋を正してゆっくりとこれ以上ないくらい滑舌よく彼に話し始めた。


「あ、はい、なんですか?」


 彼は紗友子の気持ちなど何も理解していないかのようにきょとんとした目をしてこちらを見た。本当に何もわかっていないんだ、この人ときたら。


「わたしの机の上、どうしてくれるんですか? 今日の放課後、二時間もかかって、やっとあと少しというところまで出来てたんです。冬休みの保護者だよりの原稿、あなたのぐちゃぐちゃの書類のせいで消えちゃったんですけど!」


 同僚と言っても、紗友子より少しばかり社会人歴が長い先輩の植山に向かって、本当はこんなことを言いたくはない。大丈夫ですよ、お気になさらずに、といつものように優しく受け流したいのが本心だ。

 けれどもうこれ以上優しい言葉をかけても一向に改善される見込みがないし、この先も同じことが繰り返されるだけだとほぼ確信してしまったからには、今日という今日は、もう容赦はしないと心を鬼にする。

 このまま知らないふりされるのも癪に障るので、ちょっと大げさ気味に不満をアピールしてみた。今までが甘すぎたのだ。学習能力のない隣人には、これくらい強く出てちょうどいい。

 これまでにない紗友子の剣幕に茫然としていた隣の主は、視線を彼女のデスクに移すと、これは大変なことをしてしまったと言って立ち上がり、給湯室の方に向って走っていった。

 今度は早送りのアニメでも見ているようなスピーディーな展開が繰り広げられる。雑巾を手にした彼が瞬く間に現れ、こぼれたコーヒーを拭き取り、再び給湯室にもどっていく。

 あっという間の出来事だった。

 紗友子はただ目をぱちくりと見開いて目まぐるしく動く彼の様子を見ていることしかできなかった。



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