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荒れた大地に、荒れた風が吹いている。
どこかもの哀しく、だのに力強く。
季節を感じさせない無機質な土の香りと閑散と乾いた大気が混じり合い、溶けて不自然な調和を生み出す。
この心とまるで正反対の感情を剥き出しにしているよう……エファイテュイアは絹のカーテンを少し手でかき上げ、小さな窓から外を眺めて思う。岩と土ばかりの茶色い風景は、灰色に霞がかったこの想いの前ではあまりにも雑駁としすぎていた。
三頭の馬が馬車を引き、その周りを三十人ほどの剣使いと八人の騎馬が取り囲んだ一行が、ゆっくりとした動作で歩んでいた。
大きな団体であるのに、不自然なほど馬車の装飾は質素だ。一都市を治める公爵の令嬢が車中にいるのだとはたぶん誰も思うまい。
「ねぇ、ラピカ」
「なんでございましょう? 姫様」
馬車に乗るのはエファイテュイアとその乳母の娘であるラピカのみ。一行にその他の女性はいなかった。婚前訪問と称して、帝都に数日招かれただけだ。父や兄はいない。
エファイテュイアにとって、初めての長旅だった。初めてキトの街を出た。
「兄様はーーーどうなのかしら?」
ウサギのミリュに顔を乗せたまま、首をかしげて上目遣いに問い掛けるこの少女は、同姓から見ても贔屓目なしに可愛らしい。無邪気で悪想念を知らず、優しげで儚い雰囲気を持ちながら、毅然と剣を構えて男勝りな一面も見せる。可愛らしく、強いのだ。
「どう、とは?」
曖昧に尋ねるエファイテュイアに、ラピカは反問する。不安そうな声は、いつも明るい彼女には似合わない。
「兄様は……御結婚とか、なさらないのかしら?」
「……それは」
意外といえば意外な質問に、ラピカはしばし言葉を失って口を閉ざした。
貴族に名を連ねている家の子息の結婚適齢期は一般よりも早く、二十歳前後と言われているこの時代である。二十三歳になったディルザードはもう適齢期を過ぎていると言っていい。それなのに、結婚どころか浮いた噂の一つもないのだ。そのくせ女性の扱いには長けていて、たびたび屋敷で開かれる舞踏会では多くの令嬢を恍惚とさせている。キトを背負うアイルディア公爵となるであろう彼にはいずれ、良家の子女が親によって選ばれ嫁いでくるのだろう。
だが、少し遅すぎるのではないかーーー。
アイルディア公爵家の次代の公爵様はご結婚なさらないのではないかーーー。
そんな疑念と噂話が屋敷内で去年あたりから広まり始めたのもまた事実である。
「いずれは……なさると思いますわ」
ラピカは一般論として答えた。それがエファイテュイアの望み通りの解答ではないとわかっていても、それしか言えなかった。
この時代、家もなく、今日の食事にも困るような貧しい育ちでないかぎり、ほぼ必ず結婚する習慣がある。ラピカとてもう十五歳。女性としての適齢期の只中であり、由緒ある公爵家に仕える身であるから、親の決めた婚約者がいるのだ。ましてやアイルディア家の跡取りであるディルザードが結婚しないはずはない。どんなに噂が広まろうとも、結局は皆一様にそう信じて疑わなかった。
「そうよね」
エファイテュイアは一瞬ラピカを見たが、またその視線は窓の外に注がれた。
どこまでも続きそうな大地。デリトナ荒野。
鄙びた野生の地は起伏が激しく、ときおり馬車は大きく揺れた。砂埃が舞い上がり、窓を開けていられなくなるときもある。
こんな荒野がいつまで、続くのだろう。
そしてこの灰色の想いも。
「そうしたら兄様とわたしはどうなるのかしら……。わたしはレキ=アードで、兄様はキトで……。そうしたらわたしたちはどうなるのかしら」
エファイテュイアは兄が大好きで、だからいつも、いつまでもあの屋敷で共に暮らすことが小さな夢だったから。
頼りにされる兄。綺麗な兄。強い兄。
「姫、様……」
ふいに翳りを帯びた瑠璃の瞳が痛々しく思われて、ラピカは言葉を続けられなかった。
この場で彼女を慰めてよいのはラピカではない……。
「わたしね……」
エファイテュイアが再び口を開いたそのとき、ガタンと突然、馬車が大きく揺れた。
「きゃあ」
「姫様っ!」
無防備なエファイテュイアの身体が大きくはねたが、とっさにラピカが抱きついて庇い、大事に至ることはなかった。そのまま身体を低く伏せさせる。
続いて馬車が急激に加速度を上げた。
「ーーーえ? どうしたの?」
深窓の姫君は、あまり緊迫感のない口調で呟き、純粋な好奇心から顔を上げて窓の外を見ようとする。
「姫様、おやめくださいませ。危のうございますっ」
「でも……っ」
外が騒がしかった。
人の気配が急に増えていた。
そして、それと同時に感じる四方に散乱した殺気。剣を握る姫にはそれが直感でわかるのだ。
大勢の……殺気。
「姫ーーー、ーーーございまーーーうか!」
馬車を取り巻く強い気配を振り払うように、車外から誰かが声を張り上げた。だが、全速力に近い勢いで走りながらであったせいか、それは突風にまぎれてしまう。
「ディー?」
「はい!」
屋敷の警備の隊長を務め、今回の旅の責任者でもある彼は、アイルディア公爵家の姫と直接話せる権利を持つ。エファイテュイアに声をかけるなら彼以外はいないだろう。
「ご無事ですか!」
もう一度尋ねた。
「わたしは平気。何があったの?」
「はっ。蛮族が我らを襲って参りましたのでございます。少し先を急ぎますゆえ、かなり揺れるかと思いますがご容赦くださいますよう」
「……ええ」
切羽詰ったような早口でディーがまくし立てた。まだあまり状況が飲み込めていないエファイテュイアは、ぼんやりと生返事をした。
いくつもの蹄の音が重なって聞こえる。そこに、剣を混じり合わせる金属の音が重なった。毎朝、兄とともに聞ける音に少し似ていたが、だがやはり違っていた。
「蛮族……」
どこか遠くの伝承に登場するくらいにしか考えていなかった、非現実的なもの。安全な屋敷に守られているエファイテュイアは、デリトナ荒野に住むと言われる蛮族がキトや帝都レキ=アードの貴族を襲っているなどと聞いても実感がわこうはずがないのだ。
だが、それが今……薄いカーテンの向こう側に闊歩しているーーー。
エファイテュイアは左手のカーテンをそっとかきあげた。
「姫様っ!」
ラピカが悲鳴のような声を上げる。
「……あ」
だが、エファイテュイアは見てしまった。まず視界を覆ったのは、ただ紅い色。
ほとばしる、紅い色。
漂う、不快な匂い。
敵か味方か……喉元をざっくりと切り裂かれ、声もなく騎馬から転げ落ちるまでをエファイテュイアは瞳を逸らさずに見つめた。
なんて猛々しく、なんて脆いのだろう。
緊迫した一瞬だった。瞬きを忘れるほどの衝撃を与えられた。
一瞬の安らぎも許されない高質な空間に、今、エファイテュイアは存在している。
「おやめくださいませ!」
エファイテュイアの手をラピカが取り、薄いカーテンは再び閉じられた。
縦横無尽に走り回る騎馬の中を、エファイテュイアを乗せた馬車が疾走した。今なおひどく揺れていたが、だんだんそれにも慣れてくる。
ラピカはまだエファイテュイアの腕を掴んだまま、だがひどく震えていた。掴まれていない左手を動かし、再びカーテンを寄せたが、ラピカは下を向いたまま顔を上げようとしなかった。
喧噪が再度、エファイテュイアの視界を襲う。
初めて見る光景。
蛮族だという男たちの着る服はどれも一様に着古していてみすぼらしく、色褪せた生成り色をしていた。疾風に靡く髪も無造作に伸ばし、ほとんど手入れなどしていないような、薄汚れた艶のない色だ。肌も浅黒く日焼けし、泥まみれな男も多い。いや、中には女も混じっているようだ。
また、乗りこなす馬には鞍もついていなかった。裸馬に手綱をつけただけで、やすやすと操っているのだ。
「ヤァーーーーーー!」
「オーーー!」
誰かが奇声を上げ、それに蛮族たちが呼応して剣を空に高く掲げた。
迅速に動き回る騎馬たち。
たとえ戦力が互角だとしても、こちらは地の利がない。またエファイテュイアという守らなければならない貴人を連れている分かなり不利だった。
「見世物ではないぞ、娘」
突然視界が遮られた。焦点を定めて近くを見ると、赤っぽい毛並みの裸馬にまたがる男の深い緑色の瞳が、真っ直ぐにエファイテュイアを射抜いていた。敵味方問わず、薄茶色の馬ばかりの中で、その赤毛はよく目立っていた。
男の左眼だけが、見えた。右は頭に巻かれた赤い布に隠れていたのだ。
交錯する視線。
逸らせない。
一瞬の幻のように。
彼の瞳は、宝玉。
そう錯覚した。
感情を宿さない左眼。
作り物のように輝くのに、それは至高の光に見えるのだ。
「姫様っ!」
誰の声だろう。ディーかもしれない。遠くから聞こえたように感じた。
「見てはなりませぬ!」
早口で叫ばれたが、エファイテュイアは動けなかった。
お互い見つめていたのは、どれくらいの時だったのかーーー。
裸馬に乗った男が剣を持つ右腕を振り上げたそのとき、彼の右肩に乗っていた大きな鳥が声を上げて翼を開き騒ぎたてた。
はっと男が電光石火の勢いで振り返った。
エファイテュイアの視界の隅を走ったディーの影。
「ーーーーーーっ!」
ザクっと嫌な音がエファイテュイアの眼前で聞こえた。それと同時に真っ赤な鮮血が飛び散り、ディーと男に点々とした無造作な模様を作った。
それと同時に、エファイテュイアを襲ったのは生々しく有機的な血の、匂い。
「ーーーあ」
彼女が小さく声を洩らした。男の馬の速度が落ち、馬車から離れていく。
エファイテュイアは一度だけ顔を出して後ろを覗き込んだが、赤い馬はどこにも見えなかった。




