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【夢幻の大陸詩】 砂上の堕天使  作者: 水城杏楠
終章  空の飛びかた
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 秩序と歴史ある国アージェント大帝国の皇帝が、病を理由に正式に譲位を決定、異例に立てられた双子の皇太子のどちらかが皇帝位を継承することになった。

 かねてから皇妃候補として名の挙がっていたキトのアイルディア公爵家の娘であるエファイテュイアは、三日前から帝都レキ=アードに家族と共に滞在していた。

 今日、次期皇帝の選出と皇妃の正式発表がなされる。

 朝早くからエファイテュイアの部屋は、その準備に追われて忙しかった。

 バルコニーからこぼれる眩しい朝日に眼を細めて、本日の主役の一人でもあるエファイテュイアはようやく侍女たちも下がったことにほっとして部屋に一人立っていた。

 父ファルアランと母ラーキアディナや、とりわけ兄ディルザードが訪問を望んでいたが、今は一人でいたかった。

 この孤独感を覚えておきたかった。

 家族たちに心から愛され、多くの侍女にかしずかれ、甘やかされて悠々と育てられた姫には、孤独を感じる時など一瞬たりともなかった。

 だが、この想いは今までとは違うもの。

 愛してくれた家族には、埋めることのできない孤独。

 独りなのだと、エファイテュイアは実感した。

「……思い出してはいけないわ。逢えるはずないのだもの」

 自分に言い聞かせるように独白して、エファイテュイアはバルコニーから瞳を逸らす。

 後ろに長く裾を引くドレスを細い指で上品につまみ、そこから離れた。

 バルコニーからは空が見える。

 高く透明な、空。

 兄ディルザードの瞳に似た色。だが、デリトナ荒野でそれは、届かない高みにあった。けっして堕とされることのない光だった。遠く遠く、どこまでも無限に遥かに煌めく夢のようだった。

「だめ、もう忘れて……お願いよ」

 エファイテュイアは、今日婚約するのだ。

 アイルディア公爵家の娘としてアージェント大帝国の皇妃となるのだ……。

 あの日、多くの追っ手が彼らに向けられたと聞く。生活していた洞窟は破壊されたらしい。彼らの生死は、エファイテュイアにはわからなかった。

(なんて……静かな、朝)

 風もなく、耳が痛くなるほどの静寂だった。エファイテュイアが瞳を閉じると、その中に小さな鳴き声を聞いた。

 ピーピーっと奇妙な鳥の鳴き声だった。この辺りでは今まで聞いたことがない。

 しばらく続いていた。

 エファイテュイアは瞳を大きく開いた。声を聞くたび、なぜか胸の奥が針で刺されたように痛むのだ。

「……この、声」

 はっと起き上がった。

 もしかして。

 もしかしたら……。

 エファイテュイアは期待の中に不安を抱いて、バルコニーに続く窓を開いた。

 だってもう、二ヶ月も過ぎてしまった。彼女にとってはひどく長いもどかしい時間であったけれど。

 裸足のまま、窓枠を超えてバルコニーに下りた。昔だったら足が土にまみれることを嫌ってできなかったことでも、今なら躊躇せずにできた。

 ここは帝都レキ=アードの皇城だ。いるはずがない。こんな警備の厳しいところに、侵入したら今度こそ殺されてしまうから。

 三階のバルコニーから見えるのは、広がる城下街と皇城を囲む多くの樹木。

 ピーピー。

 声はまだ聞こえている。

 さっきよりずっと、近くに。

(……どこ?)

 ガサっと音を立てて、そばの樹木の葉が動いた。続いてばさっという羽音。何か黒い影が、そこから舞い上がった。

「……あ」

 鳥だった。ちゃんと両翼がある、黒い鳥。

 ただの……。

(ーーーいるはず、ないのに)

 聞いたこともない奇妙な声だと思うのも当然で、エファイテュイアは野鳥の声など今まで意識したことがなかったのだ。

 キトの城では美しい小鳥を多く飼っていて、彼女は籠の中にいるそういった大人しい鳥しか知らない。

(ーーー逢いたい)

「逢いたい、の……」

 声に出してしまうとよけいに想いはつのっていく。

 止められなくなる。

 理性が、失われて   。

 だが、エファイテュイアの涙はもう、乾いている。

「   生きているはずだわ」

 それだけは確信している。死ぬはずない。命が途切れていいはずがない。置いて行ってしまうなんて、ひどいことはしない。

(……逢いたい)

 この想いは、この想いだけは本物。たとえ傷つき、傷つけられても、何度でも出逢いたい。

 エファイテュイアは空を仰いだ。

 この空は、デリトナ荒野まで続いている。

 風がきっと、この溢れて止まらない想いを届けてくれるだろう。もう二度と、願いが叶わなくても、きっと果てのないこの空は、少女の心を迷わず荒野へ……。

 エファイテュイアは真摯な瞳で眼下の城下町を見下ろした。そして、霞みがかってぼやけている広大な大地を……。

 あの大地のどこかに、彼はいる。

「海を、見せてくれるのでしょう? 【隻眼】……約束よ。いつかきっと、切り取られた海ではなくて、真実の海を……」

 彼の左眼と同じ色をした海、を。

 いつかまた、きっと二人が歩む道は交わるだろう。そのときこそ、この約束は果たされる。

 そして、永遠を二人で生きていこう。

 荒れ果てた大地はきっと、狂愛に魅せられた彼らを暖かく迎えてくれることだろう。

 澱んだ大気を浄化しながら、どこまでも生きていこう。

 未来永劫を、お互いに誓いながら。



 ねぇ、約束よ。

 どこまでも澄み渡るこの蒼穹は、きっときっと海までもつながっているかしら?

 貴方の瞳と同じ、真実を見てみたいわ。

 愛して、いるの……。



「そうよ、愛してる……」

 これが愛?

 そして、エファイテュイアが欲しかった、たった一つの言葉   。



「姫様、失礼いたします。まもなく御式が始まりますので、こちらへ……」

 ラピカの声が、部屋の外から聞こえた。

「   ええ」

 凛然と顔を上げた。ドレスを装飾する金属がシャランと静かな音を鳴らす。

 部屋の扉の前に立ち、エファイテュイアは最後にもう一度だけ、バルコニーを振り返った。

 デリトナ荒野へと続く空の色を見た。



『愛している、エファーーー』

 どこかで、そんな幻聴を聞いた気がした。



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