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天蓋のついた大きなベッドに腰を降ろしたエファイテュイアは、傍らに立つ兄ディルザードを見上げた。
久しぶりの柔らかい感触は、懐古よりも違和感をよりいっそう際立てただけだった。
「じゃあ、ゆっくりおやすみ」
ディルザードは何も言わずに微笑んだ。二ヶ月あまりの空白など、何もなかったかのように……エファイテュイアの記憶にあるとおりに、笑った。
額に優しく唇が触れた。
暖かいキス。
でもどこかそれは空虚で、哀しかった。昔のように無邪気には喜べなかった。
兄を大好きだと思う気持ちに変化はないのに。
「 でも、」
「明日も剣の稽古をするだろう? エファイテュイア」
言いかけた言葉を遮るように、ディルザードは重ねて言う。曖昧に頷いたが、エファイテュイアの心にある穴は埋まらない。
「……兄様」
「でも、皇妃としての教育もしなければならないと母上がおっしゃっていたな。剣を使うおてんばぶりでは皇太子殿下も呆れてしまわれるかもしれない」
冗談を言いながら、エファイテュイアの髪を細い指が梳いた。
二ヶ月ほとんど手入れもしていなかった金色の豊かな髪だったが、侍女たちによって二時間近くも入浴させられ、元のような艶を取り戻し、かさつき始めていた肌も透明な白さと滑らかさがよみがえっていた。
手触りのいい絹の薄いドレスを纏うエファイテュイアは、どこから見ても良家の姫である。
十五年間で培った気品や尊厳は、失っていなかった。
そのことにたぶんきっと、ディルザードは心底安堵したのだろう。
「兄様!」
昔と同じ体温を感じた。
昔と同じぬくもりがあった。
だが、ただ一つ違うのは、彼が決してエファイテュイアの瞳を見て話をしていないと言うことだ。
優しく微笑んだ時、冗談を言って笑ったとき、ディルザードの空色の瞳はどこか虚空を眺めていて、エファイテュイアを映してはいなかった。
「なんだい、エファイテュイア」
口調もどこか、冷めていて……。
( 兄様は変わってしまった)
そして、捻じ曲げたのはエファイテュイア自身だ。何も考えずにディルザードの胸に帰っていれば、彼も再会を心から喜んで、またいつもどおりの生活に戻って、皇妃となるための準備が進められただろう。
彼女が次期皇妃であることだけが、今も変わっていない。
だが、それ以外のすべてが……。
(もう……戻れない)
「兄様は大好きよ、でも 」
開きかけた唇に、ディルザードの唇が重なった。
……優しく。
彼の手が、肩を抱いて、髪の毛に触れた。
( 違う)
唇に掛かる体重が違う。
心の重さが違う。
そこから伝わる体温が違う。
( 違うの……)
エファイテュイアはディルザードの胸元に手を置いて、少し離そうとした。だが、ディルザードは彼女の心情に気づかない振りをする。
柔らかい唇の感触……。
「……や、兄さ 」
息継ぎの途中に嗚咽のような声が漏れた。身じろぎして、ディルザードを押す腕に少し力がこもった。それでも彼は、愛らしい妹姫を放さない。
「 いや……っ!」
身体を少し後ろに下げて、ようやくディルザードから離れる。今まで見せたことのない兄の強引さに、困惑と狼狽が隠せず、エファイテュイアは空色の瞳を見上げた。
彼の双眸に映るのは……焦燥感。
「エファイテュイアっ」
背中に腕を回され、抱きしめられた。華の香りが漂う髪に、彼の唇が触れた。
熱いほどの想いがそこから伝わる。
(……あぁ、なんて )
なんて、痛いほどの愛情だろう。
「愛している、エファイテュイア……っ! お前なしで私が生きていけるとでも……? いつまでもお前とここで暮らしていたい! ……だが、蛮族などに取られるくらいなら皇妃として幸せになってほしい……。私と暮らせないのならばせめて 」
エファイテュイアの前でディルザードが声を荒げるなど、今までなかったことだ。きつく掻き抱いた彼の腕は少し震えていた。
「私の、愛を覚えたまま帝都、へ……」
叶わない願い。
彼女は皇太子のものとなる。この国のものとなる。そして、皇妃という身分は、キトという都市を統治する公爵家であっても、遥か彼方に存在するものなのだ。
エファイテュイアは、ディルザードの背中にゆっくりと腕を回した。
慈しむように、そっと。
「わたしの幸せ、は 」
皇妃になったら得られないもの。兄といても得られないもの。
帝都にはないもの。キトにはないもの。
なのに。
「ディルザード兄様のお気持ちはとっても嬉しい。でもわたしの幸せはもう……どこにも」
どこにもないから。
そう口にしてしまいたくはなかった。
だが、皇妃になることはもう避けられないこと。エファイテュイアの幸せはあの瞬間にすべて、消えたのだ。
二ヶ月あまりの日々を、幻のような永遠にしたまま。
「ーーーしばらく、一人でいたいの。兄様……」
一瞬だけディルザードの胸に顔をうずめたエファイテュイアは、だがすぐに身体を離した。ディルザードも今度は無理強いせず立ち上がり、彼女を残して部屋を出て行った。
膝に落ちた一粒の透明な雫は、彼に悟られなかった。




