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初めて、このひとと一生を過ごしたいと……そう思った。
生きたい。
生きてほしい。
お願いどうか……せめて死なないで。生きていれば、きっとまた逢える……たとえ二人の間に多くの障害が立ちはだかったとしても、この想いだけは遮断できない。
愛しいひと。
生き延びるために、今は逃げるの 。
* * *
「いやぁ! 離してっ! 【隻眼】、【隻眼】っっ!」
後ろからディルザードに抱きかかえられ、無理矢理引き離されて、エファイテュイアは悲鳴を上げた。
離れたくない、離れない。
手を伸ばした。でも、届かない。
わずかな距離が二人を触れ合わせなかった。
「エファ……っ」
ディルザードの腕の中で狂ったように暴れるエファイテュイアを、【隻眼】はどうすることもできなかった。左眼が彼女を捉えたが、直視し続けられない。
それはお互いの心をさらに蝕んでいく。
「落ち着きなさい、エファイテュイア」
その声すら、彼女の耳には聞こえない。
「貴方は間違ってるの! 間違ってる! わたしのたった一つの不安は、皇太子殿下なんかではないのっっ!」
どうしてもこれだけは言わなければと思った。
彼女はさらに、声を張り上げた。
見開いた【隻眼】の左眼に宿る、海と同じ深い色が、エファイテュイアの鼓動を熱く速く、美しく変化させていく。
「わたしのただ一つの不安は貴方だわ、【隻眼】」
「?」
「貴方がいなくなってしまうこと。いつかわたしの前からいなくなってしまうかもしれないこと! わたしの不安はいつもそれだけだったっ!」
それだけが不安だった。
住む世界が違うと思っていた。彼は荒野で一人、孤高に生きていけるひとであったけれど、自分は違う。一人では何もできない。彼の手を煩わせてばかりで、いつか要らないと捨てられるのではないかと心のどこかで怯えていた。
そんな日がきてしまうのだと、思っていたのだ。
「すまない……なんて。そんな言葉は欲しくないの。わたしが欲しいのは……っ!」
言葉が、想いが、この身から溢れ出る。
「……たった一つなのにっ!」
欲しいのは。
たった一つの、言葉だけなのに。
瑠璃色の双眸から溢れる雫が、エファイテュイアの視界をぼやけさせた。
揺らめく景色。
立ち上がることもできない【隻眼】が、膝を突いたままの低い姿勢で剣を持ち上げるのがわかった。
不利を知りながらも、簡単に殺されはしない。その意志が、彼の中に甦る。
頭をもたげ、凛然とした左眼を向ける表情に、諦念の色は、ない。
約束してしまった。
もう、この少女の前で血は流さないと。
この真紅の禍々しさは、彼女には似つかわしくない。純粋で素直な少女には、純白こそが相応しい。どんな悪想念にも汚されることなく、自分を保っていける白い光。
それを守るために、【隻眼】は今一度、剣を構えるのだ。
「その男を早く殺せーっ!」
「そうだ!」
「躊躇うなー!」
「殺せっ! 殺せっ!」
突然割り込んできた薄汚れた少女がまさかアージェント大帝国の皇妃に選ばれた姫だとは思ってもいない観客たちが、静まり返った広場に野次を飛ばした。待ちくたびれたのだろう。血を見るために集まった彼らに、神妙な前座はいらない。
「殺せっ!」
「殺せっ!」
喚声は呼応して徐々に大きくなっていく。
そして、エファイテュイアはこの世界の残虐さを目の当たりにした。
(……どうして……っ!)
顔を上げて観客たちを見ると、誰も狂ったように手を振って叫んでいた。
殺せ、殺せ、と。
高邁で豊かで美しいと信じていた世界に生きる、狂乱に満ちた人々。
どうして【隻眼】が蛮族と罵られ、彼らは帝都レキ=アードの街人として優雅に生きている。
(……本当に、野蛮なのは )
「本当に野蛮なのは貴方たちだわっ!」
エファイテュイアの声は、喚声にまぎれて誰の耳にも届かなかった。ただ、彼女を抱きかかえていたディルザードの力が少しだけ緩んだ。
「……エファイテュイア?」
聞こえていないと知りつつも、彼女は言葉を紡ぎ続けた。
「この街は血に染まっているの! 荒んだ街、荒んだ国……っ! どうして、どうしてこんなことに……っ!」
エファイテュイアが十五年間も生きた国は、これほどまでに残酷に病んでいたのだろうか。信じたくなかった。すべてが眩しく輝いて見えたのは……あれらのすべては、ただの幻想だったのだろうか。
本当に恐ろしいのは【隻眼】ではなくて、この国の人々だ。
血に飢え、血に歓びを覚える、野獣のような帝都の人間たち。そのくせ、その身に他人の血など浴びたことがなく、自らは穢れずに高みで見下ろしている。
「……もう、やめて」
掠れた声は、誰の耳にも届かない。
「おいっ! あれは誰だっ!」
観客の何人かが叫んだ。
喚声が少し、小さくなっていった。
「どうした?」
ディルザードと、【隻眼】のそばにいた二人の男が振り返った。
音が、近づいている。
「【隻眼】っ!」
広場に低い声が響き渡った。
続いて聞こえるのは、敏捷な蹄の音。はっと顔をあげて、エファイテュイアは広場の入り口に顔を向けた。
「【刃】 っ!」
力の限りに叫んだ。
彼が操る赤毛の馬はもちろん【落陽】だ。その右肩には【片翼】もいる。右手で手綱を握り、左手で多くの血が滴った長く太い剣を構えていた。その後ろからはもう一頭の馬が追いかけてきていた。【刃】の馬だ。
ディルザードを守るように、二人の男が剣を抜いて彼の前に立ちはだかる。
「見るなお嬢っ!」
エファイテュイアが顔を逸らしたと同時に、【刃】は見た目にも重量がかなりあるであろうその剣の先を、【刃】は鮮やかに軽やかに馬上から斜めに落とし、すぐに切り返した。
剣が骨をも切断する。嫌な音だけがエファイテュイアには聞こえた。
必要最低限のその動作だけで、二人の男たちは正確に首元を深く切られ、うめき声を出す前に倒れたのだ。
「来い、【隻眼】っ!」
左足で立ち上がる【隻眼】が腕を伸ばし、【落陽】を走らせながら【刃】が強引に馬上へ引き上げた。【隻眼】が体勢を取り、【片翼】が彼の定位置へ移動すると同時に、失速していない馬から【刃】が飛び降りた。
「【隻眼】っ!」
力を緩めていたディルザードの腕からするりと抜け出したエファイテュイアは、迷わず【隻眼】に向かって走る。
腕を伸ばした。
【落陽】に乗った【隻眼】が近づいてくる。
もう少し。
もう少しで、手が……届く。
いっしょに荒れ果てた楽園へ帰りましょう。
そして、この狂おしいほどの想いとともに生きていくの。
貴方と堕ちていける未来があるのなら、他のすべては捨ててもいい。何もいらない。身分も宝石も、綺麗な服や部屋やぬいぐるみ。それらすべてを引き換えにしても余りある貴方……。
貴方だけ、いればいい 。
もっと手を伸ばして。
早く触れ合いたい。
もっともっと。
「そこまでだ」
厳格な声が、その場を粛正した。




