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「犯罪者は名もなきデリトナ荒野の蛮族。そして 裁きを下すのは南のアイルディア公爵家の若君、ディルザード殿」
湧き上がる喚声の中、広場の中央に向かってマントを靡かせながら颯爽と歩く長身の姿を視界の片隅に捉えた【隻眼】は、思わず声を洩らして笑っていた。
なんと言う皮肉な運命だろう。
これから自分を殺そうという男は、【隻眼】が守るべき少女に瓜二つの美貌であったのだから。
だが、それもいいかもしれない。
エファイテュイアを皇妃にと望む皇太子やその腹心らに殺されるよりはいっそ、彼女が愛した『ディルザード兄様』のほうがどれだけましだろうか。
「 何故、笑う?」
「……早く、済ませな」
ディルザードの問いを無視し、そっけなく【隻眼】は答えた。自分が死んだら、エファイテュイアはどうするだろう。
あの過酷な荒野で、彼女は一人では生きていけない。だが、【刃】が面倒を見てくれるだろうか、それともこの兄の元へ帰り、皇妃となるのだろうか。いや、彼女はそんな不条理を認めないだろう。彼女の強さは、皇城ではあまりにも狭すぎて包みきれない。
ディルザードは腰の剣を抜いた。エファイテュイアの持つものとまったく同じ装飾の剣を、同じ構えで持ち、同じ質の髪を風に躍らせているのを見て、【隻眼】は彼女自身に殺されようとしているのではないかと錯覚すらした。
弧を描いて振り上げられた刃に、強い陽光が反射する。
だが、彼はその切っ先をすぐに地面に落とした。どうやらすぐには殺してくれないらしい。【隻眼】は自嘲気味に顔をゆがめた。表情のない顔つきで、【隻眼】のほうを見つめたが、彼の空色の瞳は正確に【隻眼】の片眼を捉えてはいなかった。
「もう一度だけ尋ねたい。殿下を殺害しようとした理由。申す気はないか?」
その問いを聞き、ディルザードが大罪を犯した理由とエファイテュイアにはなんらかの関係があるかもしれないことと感づいているのだろうと【隻眼】は推測した。
気を緩める姿勢をとったディルザードとは反対に、【隻眼】は左足に全体重をかけた。杖にしかしていなかった借り物の剣を持ち上げ、ぶんっと横薙ぎに動かしてみせる。
普段使っている剣より、若干軽いことが救いだった。
「殺るのか……殺らないのか……」
「気の早いことだ」
ディルザードも剣を構え直した。エファイテュイアのものと同じ装飾がなされた剣、を。
ざわついていた広場が、一瞬にして静寂に包まれる。
【隻眼】はその場から動けない。右足が使えないから踏み出すことができないのだ。バランスを崩されずにディルザードの剣を受け止め、彼が切り返す前に反撃に出ることが可能なら、勝機がないわけではなかった。
だが、アイルディア公爵の嫡男の腕を、【隻眼】とて知らないわけではない。
そして、エファイテュイアを失った今、ディルザードを殺してまで勝たなければならない意味が【隻眼】にはないのだ。
彼にできるのは無様ではない死に方をするだけだ。エファイテュイアを守るために。
ディルザードがその剣の切っ先をわずかに落とした。
片足が、地面を蹴った。
速いっ!
体調が万全の【隻眼】なら、たとえ片眼であっても彼の剣の動きを容易に見切っていただろう。だが、今の彼では瞳が追いついても身体が追いつかない。
残されたわずかな力のすべてで、剣を持ち上げた。
キーン……。
広場のすべてに響き渡ったその音は、崇高に余韻をしばらく残した。
「……誰だ」
ディルザードの剣を風のように受け流したのは【隻眼】ではなかった。誰もが中央の二人に注目していて、近づく俊敏な影に気づかなかったのだ。
それは、艶のない金色の髪を束ねた、小柄な少女。薄茶色に汚れた服を身に纏い、細い剣を構えている。
「な、何をしている……お前っ!」
エファイテュイアの背後で、【隻眼】が驚愕も露わに呟いた。エファイテュイアは振り向かずに口を開く。
「だってわたし、まだ【隻眼】に勝ってない」
「何を……」
だが、声を聞いた途端、剣を構えていたディルザードが驚愕に蒼の瞳を見開いた。
「……その、声」
聞き間違えるはずはない。ずっとそばで聞いてきて、もう二ヶ月も探し続けていた声そのものだったのだから。
ディルザードは、小柄な少女の足の先から頭までをゆっくりと眺めた。
足にはブーツも何も履いていない、裸足だ。宝石を散りばめた白や青の淡い色の長いドレスを好んできていたはずの彼女の肢体を覆うのは、清潔にはとても見えない薄茶色に汚れた麻の服。白かった肌は太陽に焼かれ、柔らかい金の髪から艶が消え、不揃いに伸びてはねている。
「……お前はエファイテュイアなのか?」
声こそ同じものの、二ヶ月前の彼女とは似ても似つかない格好に、ディルザードは唖然として立ち尽くした。エファイテュイアは着飾ることが好きだった。綺麗に輝くものが好きだった。明るく笑って、ディルザード兄様と甘える瑠璃色の双眸には今、剣を持って戦うときの輝きとともにどこか、深い翳りがあるように見えた。
エファイテュイアは返事をしなかった。揺ぎない意志を込めた視線を、ディルザードに向けた。
この少女が持つ剣は、ディルザードと同じ装飾が施されている。これは間違いなくエファイテュイアの剣。彼はそう確信した。
「エファイテュイア」
もう一度、彼は呼びかけた。
エファイテュイアの心が少しだけ揺れた。
毎日聞いていた心地よい声。そうやって名を呼ばれるのが好きだった。
心が動揺する。
(……兄様。ディルザード兄様……っ!)
板ばさみになったとき、エファイテュイアはそのどちらも選べない。そんな自分の心にすら、気づかなかったのだ。夢中で後先考えずに飛び出したにすぎない。
「逃げろ……おい。頼む、から……」
「……【隻眼】」
地面に突き刺した剣に全体重をかけたまま、【隻眼】は崩れるように片膝をついた。その額を柄に押し当てて、うめくような呟きを口にした。
(どうすればいいの? ……わからない)
誰も助けてはくれない。
エファイテュイアはこの状況と一人で戦わなければならないのだ。
「本当にこの少女が、南の姫君……?」
【隻眼】に剣を渡した男が呟いてまじまじとエファイテュイアの顔を見つめる。公爵家の姫とは思えない姿をしていた。彼女が、この国の皇妃となるのか……。そんな不安がよぎっただろう。
「エファイテュイア」
兄の手が伸びてエファイテュイアに触れた。埃にまみれたその頬を、優しく撫ぜて土を落とす。
その手を、拒めない。
( あぁ)
「こんな姿になって……すまなかったね。私が助けてやれなかったから」
腕が背中に回って優しく抱きしめられた。久しぶりに感じたディルザードのぬくもりに安寧を感じるはずだった。懐かしいはずだった。なのに、エファイテュイアはそこに違和感を覚えた。
( 違う……)
彼女の瞳にかかる翳りが、少し晴れた。
(……この腕は、違うの)
そう思ったとき、迷いは消えていた。
両手で力の限りディルザードの胸を突き飛ばした。抵抗されるとは思っていなかった彼は、呆然とエファイテュイアから身を離す。
「……エファイテュイア?」
「違うの、これは。この腕は、だってわたしが欲しいものではないわ」
麗美に優しく、清流に気高く。
でも、それらはエファイテュイアの望むものではなかった。
「【隻眼】は殺させない」
剣をもう一度構え直した。今なら、ディルザードと本気の思いで戦えると思った。
だが、ディルザードの表情は変わらない。柔らかく、記憶にある通りに微笑しただけだった。
「可哀想に……。でももう、私がそばにいるよ」
「違う、違うわ!」
ディルザードが再び伸ばした手をエファイテュイアは強引に振り払った。そのまま【隻眼】に身体を向ける。
ひどい怪我。
こんなぼろぼろの身体になってもなお、彼はディルザードと剣を交えようとしていたのだ。
「……血は、怖い」
もう、見たくない。
エファイテュイアは膝を突き、【隻眼】の首に細い腕をまわした。ためらいながら【隻眼】も、剣を持っていない左手でエファイテュイアの腰を抱く。いくつかの血痕が彼女の衣服にもついた。だが、もう気にならない。
「もう、わたしのために血は流さないで。見たくないわ……」
「……約束しよう」
お互いの耳元に囁かれる言葉は、二人を静かな優しさで包み込んだ。
その身体は暖かくて。
(……あぁ、わたしが欲しいのはこれなのだわ)
本当に愛しいものの存在を、彼女はやっと確信した。




