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もしも狂気に色があるとしたら、この荒野のように孤高な毅さの中にこそ見ることができるかもしれない。
彼は、一人ずっと孤独だった。
彼らはきっと、たくさんの仲間に囲まれていながら孤独だった。
狂い出しそうな心たちは、この大地に支えられて生きていた。
唇が触れ合い、太い腕に抱きしめられて、エファイテュイアはそれを知った。彼の左眼はいつも……哀しみの中にあった。
「わたし……どうしたのかしら?」
あれほど帰りたかったキトの街が、なぜかひどく遠いものに感じた。【隻眼】から兄の情報を聞くまで、この十日間まったくディルザードのことを思い出さなかったことに気づいたのだ。
口癖のように言っていた。帰りたい、逢いたい……と。
エファイテュイアは薄暗い天井を眺めて、キトの街を思い出そうとする。
暖かい屋敷と優しい家族と、幸せな時間を。
だが、それはもう遠い昔のことだったように錯覚した。まるで夢を思い出すように曖昧だった。
記憶というのはこれほどまでに、頼りないものだったのか。
エファイテュイアは上半身を起こして、はだけた胸元をそっと引き寄せる。
そして、隣に眠る【隻眼】を見た。
規則正しく動く胸の鼓動。たくさんの古傷が残る肌に、白い指先で触れてみる。
ざらりとして硬い。
すぐ近くでパサっという羽音を聞いて、咎められることを恐れるように慌てて彼女は手を引っ込めた。
「……あ、【片翼】」
主人のそばを片時も離れない忠実なこの鷹は、エファイテュイアのほうへ歩み寄ってその膝に乗った。
最初はその大きさゆえに恐怖も覚えたけれど、【片翼】は彼女に優しかった。
「ねぇ、【片翼】。わたしもお前といっしょね。どこへも飛べないの。あんなに空は広かったのに、どうしてわたしは飛べなかったのかしら……」
大きな鷹は、エファイテュイアの言葉を聞いているかのように、軽く首をかしげた。
どこまでも続く遠い空。
それを見たとき、自分が自由ではなかったことを知ってしまった。
キトの街の小さな屋敷に閉じ込められ、ずっとそこで空の飛び方も教わらずに生きていた。そしてそれは永遠に続く現実のはずだった。
「……まだ、飛べるさ」
下から声が聞こえて振り返ると、【隻眼】が左眼をうっすらと開くところだった。
「まあ、寝ていたのも嘘だったの?」
「お前に嘘をついたことなどないと言っているだろう、娘」
彼はいまだにエファイテュイアの名を知らない。ふと、そのことを思い出した。家族以外に名前を呼ばれないことには慣れていたけれど。
「【隻眼】……」
「なんだ?」
もう、躊躇いはなかった。嫌悪感も消えていた。貴族の娘であることの自尊心は、彼の前で溶けて消えた。
公爵家の姫でもなく、アージェント大帝国の皇妃でもなく、ただのエファイテュイア。身分ではなく、この身ひとつで立てる。
「……わたしの、名は……エファイテュイア」
突然の告白に、【隻眼】の左眼が見開かれる。
「娘なんて、呼ばれるのは……いやだわ」
その低い声で名前を呼んでほしい。
そう思った。
「エファイテュイア……貴族の名前は長いから面倒だな」
【隻眼】が肘を突いて起き上がり、エファイテュイアの細い肢体を横たえた。その首に唇を寄せ、囁くように告げる。
「……エファ、と呼ぶ。俺だけの呼び名だ」
それはささやかな甘やかな、独占権。
首にかかる吐息がくすぐったくて、エファイテュイアは笑いながら身じろぎした。




